近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

卒業論文最終報告会

2013-01-24 11:32:20 | Weblog
1月21日の例会では、卒業論文最終報告会を行いました。
題は「夏目漱石「それから」論―〈自然〉が導くもの―」で、発表者は藤野先輩、司会は今井でした。


論の大まかな流れを述べさせていただきます。
現在の代助には三千代への愛と、日本の封建制度的家との関係が深く影響しており、今後も代助はこれら2点について変化していくと考えられる。
代助をこのように変容させたのは〈自然〉であり、〈自然〉には2種類ある。1つは意識的に働く〈自然〉。これによって代助の中にあった三千代への恋愛感情が揺り起こされ、それまでになかった家への明確な抵抗を示し、三千代への告白に至る。もう1つは無意識的に働く〈自然〉。これによって代助は自己の生き方を省みることになり、次男という立場から他者を扶養することの出来る家長という立場を獲得したいと思うようになる。
また、〈赤〉は確かに代助を苦難へ導く色かも知れないが、それまでの生き方を捨て新たに生きる再生のシンボルカラーとなっていくのではないか。

結論としては、三千代と、代助の家との関係とは密接に絡み合い影響を及ぼしあう。これらの〈自然〉は代助を家との絶縁と三千代の病状悪化へと導く。しかしこれは仕方のないことで、〈趣味の人〉から〈実生活の人〉になるというのは困難が大きい。それを可能にするのが三千代への愛と言う意識的〈自然〉とその先の結婚、そして家長になろうという無意識的〈自然〉であり、〈赤〉というシンボルカラーだったのではないか。


質問が集中したのは発表者の考える作品における〈自然〉の定義についてで、発表者はこれに対して立場を求める流れ、それに導くようなものという応答をしました。しかし、発表者自身〈自然〉の定義づけには曖昧なところがあったようで、論の中でキーワードとして使用する概念の定義はしっかりとして、抽象的ならば他の言葉で代替可能なのかどうかを検討する必要があるというご指摘をいただきました。
他には、概略ということだったのですが先行論のどの問題意識を引き継いでいるのか、自分の論の独自性は何なのか、先行論史の中での位置づけはどこになるのかなどを示すために先行論を紹介する重要性をご指摘いただきました。また、本文の中から解釈の根拠を挙げること、色彩について論じるなら同作家の色の使用方法に関する研究成果を踏まえることなど、今後の私達の研究にとっても勉強になるアドバイスをいただきました。


次回の活動は2月の勉強会です。
では、失礼します。

2年 今井

岡本かの子『老妓抄』読書会

2013-01-08 02:41:21 | Weblog
あけましておめでとうございます。

1月7日、新年最初の例会は、岡本かの子『老妓抄』の読書会を行いました。司会は藤野が務めさせていただきました。

この作品は岡本かの子の晩年の作品であり、発表当初から高い評価がされました。


読書会ではまず、「この物語を書き記す作者」として、老妓が和歌を学ぶこととなる人物が作品の序盤と最後に現れる、作品上に作者が登場人物として現れていることについて意見が交わされました。
この作品の最後に「最近の老妓の心境が窺へる一首」として作品を締めくくる和歌、それを象徴的にするために老妓に和歌を教えた作者が老妓の和歌を紹介する形で、自然と作品に出し、また強調する働きがあるのではないか、という意見。また、登場人物としての作者ではでは知りえないことを、神の目のような視点で語ることのできる作者、これには語りの不可解なものがあるが、これは作者=岡本かの子という読みを避けるようにな働きがあったのではないか、という意見。知りえないことを語る登場人物としての作者は、自身が知っている老妓のことと、作品の最後の和歌から最近の老妓のことを想像して書かれていということではないか、という意見などがでました。


その他には、この作品の人物が持つ二面性ともいえるものに着目した意見に、発明を志す柚木をパトロンのように面倒をみる老妓だが、決して発明のことに頓着しない様子が中途半端ではないか、という意見、老妓が「何となく健康で常識的な生活を望むようやうになった」にも関わらず、いまだに男性を囲い込むようなことをする老妓はやはり、芸妓としての生き方から離れられずそのことは養女・みち子にも影響を及ぼしているのではないかという意見。冒頭で、老妓の本名・職業上の名(小その)を挙げたのちに「老妓といつて置く方がよからうと思ふ」とあるが、作中老妓は小そのとも記される、そういった人称の違いの問題も、いまだ芸妓として生きているからではないかとも思われる。
作中の文法に関する意見で、作品終盤の老妓が柚木に自分の考えを伝える場面で、「」の外の地の文に会話文として老妓の言葉が記されていることに着目した意見がでました。この老妓の言葉には作者(岡本かの子)の意見が含まれたものではないか、という意見が出されました。
この地の文の中にも自分と私という人称の違いがあり、そこに作者(岡本かの子)が老妓の言葉に作者が介入したものといえる登場人物との近い距離にあるからこそ、私という人称が使われるのではないか。

このような、作品中にみられる人物の地の文にみられる言葉(老妓と柚木が同じ言葉を使用している例がみられる)には、人物の心情を作者が巧みに操作しているのではないか。

最後に、岡崎先生からこの作品には、芸妓ならではの愛への憧れがあり、けれど芸妓として生きることしかできない老妓の物語である、それが作品名の『老妓抄』にも表れているのではないか。そして、この作品にはある種の構造上の破綻がみられるが、そこにある種のリアリティが存在しており、これは女流文学に多くみられることでもあるとおっしゃっていました。
そして、多く意見が出された作中に老妓に和歌を教え人物として現れる作者は、最後に紹介する和歌は「もっとも原作に多少の改削を加へたのは、師弟の作法というより、読む人への意味の疎通をより良くするために外ならない」という断りがわざわざ入っている。これは作品に作者による改削が存在していることを、作品中に作者を登場人物としてみせることで、その存在を強調しているとおっしゃっていました。

『老妓抄』は、最後の短歌が先に作られたという作品の成立過程があり、その短歌に込められた作者の想いが見事に作品の中の人物達を介し、表現されていました。そこには、決して簡単には表現できない人の内面が見事に描かれていました。


来週は成人式ということもあり、例会はありません。次回は1月21日に、夏目漱石『それから』卒業論文の報告会を行います。
                                                           4年 藤野