近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

太宰治『魚服記』研究発表

2012-12-18 16:38:03 | Weblog
12月17日は太宰治『魚服記』の研究発表でした。
発表者は2年佐藤さん、1年藤田君、松尾君でした。

今回の発表は「伏線的構成から見る『スワ』の死」ということで、学生と滝が一体化することや学生をたった1人のともだちとして、そこに身を寄せる形でスワが「死」に向かって行くということが伏線的に暗示されていることや、父親と2人で生きてきたスワが学生という他者を意識することで自我を芽生えさせたことにより、父親から近親相姦を受けてしまうというものでした。

論点となったところとしては、スワが滝壺に飛び込んだあと鮒になってしまうのですが、スワ自身は鮒になっていることを自覚しているかどうかという問題がありました。ここの解釈については発表者側のスワは鮒になったことを自覚しているという考えと質問者側のスワ自身は大蛇になったと思い込んでいるのではないかという2つの考えに別れましたが、岡崎先生からは語りのレベルがスワのものなのか第三者のものなのか確定しにくい文体であるため、どちらとも決定できないのではないかというご意見をいただきました。

今回の発表に関して先行論との違いが明確ではないのではないかという厳しい意見も挙がりましたが、岡崎先生からは文学研究においては「このようにも読むことができる」ということが根拠のある否定しきれない多様な読みを提示することが大切であるため、もうすこし意欲的にまとめに自分たちの読みを提示していくともっとよい発表ができるというご指摘をいただきました。

今回は自分たちがどのように作品を解釈したのかということを根拠を明確にして提示していくということの大切さについて考えさせられる例会でした。

以上です。
3年根本

追伸
昨日をもちまして今年最後の例会となりました。皆さんご苦労様でした。12月23日には今年最後の活動である納会があります。最後までご協力よろしくお願いします。

太宰治「千代女」

2012-12-15 16:09:03 | Weblog

12月10日の例会は太宰治「千代女」の二回目の発表でした。
引き続き発表者は3年の根本さんと2年の神戸さん、司会は私、山下が担当しました。

今回は和子の書きたくないという姿勢が書こうという姿勢に変化していくところに注目した発表でした。
レジュメから広がった読みに、和子は女性のイメージを母として捉えているのではないか、綴り方の掲載が騒がれた当時の和子の「騒がれたことが嫌だった」という嫌悪とそれを悟ったとされている父の「和子だってこわがっている」という認識にはズレが生じていたのではないかというものがありました。
また、今回の発表は主要登場人物ひとりひとりを細かく分析する形式の研究だったので、そこから和子の「女はやっぱりだめ」とする部分、否定的な見方をもって母を語っていた部分は、父の古めかしい価値観・教育により生じたところなのではないかという意見も出ました。

最も掘り下げられた討論は、タイトルについてでした。
作中で「私は千代女ではありません」と語っていた和子は、しかしこの手記を小説として発表することで「書けないことを書く」千代女となりえるだろうことから「千代女」というタイトルがつけられたのだろう、という発表者の方々の読みに沿って、「千代女」というタイトルのために和子は「書けない」と言ってはいけないのではないか、といった懐疑が持ち出されたりしました。

岡崎先生からは、一人称の文体から小説家和子としての姿を読み解けるというご指摘をいただきました。
加えて作家や作品の内容の観点からは、女性としての経済的自立を目指す傾向が強調され、そこに父の存在を対にさせることで家制度の限界を表現する、太宰自身の作品発表当時の綴り方ブームへの反発が表れている側面にも注目して読むことができるというお話もしていただきました。

今回は初めて司会に挑戦させていただいて、いきなり二週発表の担当となったからか思っていたよりも緊張してしまいましたが、無事やり遂げることができたのでほっとしています。ありがとうございました。

次回は太宰治「魚服記」の研究発表です。
それでは失礼します。

太宰治「千代女」

2012-12-07 11:38:26 | Weblog

12月3日の例会は太宰治の「千代女」の研究発表(一週目)でした。
発表者は3年の根本さんと2年の神部さんで、司会は私・山下が担当しました。

今回の発表は「私(和子)」が小説を書くのに苦心していることに注目したものでした。

寄せられた意見には、語りについて、岩見先生への手紙の内容について、和子が小説を書く意味についてなどがありました。
語りについては、千代女の語りは一人称独白体であり、また過去を回想する形式をとっているので、「現在の私」の混乱や私情が入ったものであり、それをふまえて分析していかなければならないといった形になりました。この作品は太宰文学の特徴の一つである女語りが用いられており、その有効性についても深く追求していくべきだというお話もありました。
岩見先生への手紙の内容については、「なぜ、これまでさんざん自虐的な態度に徹していた和子が、天才少女をお忘れなく、という自分の才能を強烈にアピールする手紙を書くのか」といった疑問が持ち上がりました。この疑問に対し、「周囲からもてはやされなくなった和子はそうしてしまうまで追い詰められているから」などといった和子の必死な様子をくみ取った意見が出されました。
そして終盤は「和子は何のために小説を書きたいのか」という部分を重点的に捉える流れになりました。ここで「自分に期待を寄せている母のために書きたいのではないか」「綴り書によって崩壊した平和な環境と良い子だった「私」を取り戻すべく、そしてそれ以外の方法がわからないために小説を書くことにすがろうとしているのではないだろうか」という分析が進められました。

岡崎先生からは、和子の他者の評価への不信から和子の文才に対しての並々ならぬ自信、誰かに評価されたい願望が読み取れる、それは岩見先生への手紙からも同様だということや、和子が女性としての生き方を否定している部分からも見えてくるものがあるというお話を伺いました。
またご参加くださった石井先輩から、千代女のエピソードと俳句について、そこからくる和子の「私は千代女ではありません」という語りがどういう意味を成すのかを考えることと、先行論の流れを汲んだレジュメ作りをすべきだというご指摘をいただきました。


次週も引き続き「千代女」の研究発表を行います。

以上になります。ありがとうございました。
2年 山下