近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

谷崎潤一郎「秘密」例会

2012-04-27 06:25:56 | Weblog
おはようございます、2年の今井です。

4月23日に行った谷崎潤一郎「秘密」の例会について記載いたします。
発表者は私・今井で、司会者は藤野先輩でした。
前回に続き多くの方が見学に来てくださいました。ありがとうございます!


発表のタイトルは「谷崎潤一郎「秘密」論―前半部の意義を中心に―」です。
先行研究では「私」の「秘密」と女の「秘密」の性質や構造が引きつけられ、比較・分析されて論じられることはあまりされてきませんでした。また、作品の前半と後半とで分けて論じられることが多く、後半部に解釈が集中しがちでした。そうした先行研究を受けて作品に出てくる「秘密」の性質や構造を比較・分析し、身体感覚についての解釈が中心だった前半部の意義を明らかにすることで作品全体の読みを深めたいという立場で論を進めました。

大まかな論の構成としては章を4つ設け、「私」の幼年時代の「秘密」とそれを人工的に再現しようとして作り出した「私」の「秘密」、そして女の「秘密」を比較・分析し、結論に運ぶというものでした。
1つ目の章「幼年時代の好奇心」では、まず幼年時代に経験した「秘密」とは自然に発生したものであること、「私」にとって市内は今まで気が付かなかった=隠されていた=「秘密」にされていたものを暴く魅力があるように思われたために隠遁する場所として選んだということを押さえました。そして「余程色彩の濃い、あくどい物」を求めた「私」は日常からの脱却と刺激を求め、幼年時代に経験した気持ちを再度味わうことを願望し、人工的に「秘密」を作ることでそれを再現しようとしているというようにまとめました。

2つ目の章「女装に関するもの」では、私が次第に他者=〈「私」の「秘密」を暴く者〉の視線を必要としてきていることから、他者との関わりで成立する「秘密」への移行が始まっているといえるが、ここでいう他者とは「私」が「「秘密」の帳」を通すことで自分に都合よく歪曲した他者であるとしました。「廃頽した快感」を味わっていることから「余程色彩の濃い、あくどい物に出逢」うという大本の目的は達成しますが、それに飽き足らない「私」は次の快楽へと向っていくと分析しました。

3つ目の章「T女との出会い」では、「私」の「秘密」は「私」の意識の在り方に存続が左右されること、またT女に対する上海の船での態度から「私」は「秘密」の快楽主義者であると指摘しました。「私」が女の美貌に嫉妬する場面がありますが、それは遊戯のように女装を行い楽しんでいた「私」がT女に人目を奪われたと思い敗北したためであり、快楽を求める「私」は遊戯に勝つためなら隠れていた男という本性を曝け出す、というふうに解釈しました。ここでは女の「秘密」は女が「秘密」の存続を左右することを押さえました。この「秘密」に「私」は誘われる=発見する、暴く側の立場として入っていくとしました。

4つ目の章「T女の「秘密」との関わり」では、女の「憂鬱な、殊勝な姿」は、女が自らに掛けた「「秘密」の帳」が剥げかけた状態であると分析しました。往来で「子供時代に経験したような謎の世界の感じに、再び私は誘われ」たことで「私」はここでも隠遁の目的は達成しますが、その快感に「私」は留まることはできないとした後、「抑え難い好奇心」によって暴いた往来は日常と繋がりを持ったことで非日常ではなくなり「秘密」は破綻し振出しに戻っていると指摘しました。そして「私」に「秘密」を暴かれた女は魅力を失って「生き生きとした妖女」と対の「死人のような顔」になり、「秘密」という遊戯に敗北すると分析しました。人工的な「秘密」の限界、他者と関わることで成立する「秘密」の限界を知った「私」は快楽を得るための「秘密」という手段を自ら捨てますが、「秘密」という手段を経たことでより快楽に貪欲になった「私」は、別の手段を求めていくと解釈しました。

まとめでは、「作品の前半部の「私」の化粧と女装は「私」が他者と関わることで成立するより刺激の強い「秘密」を組み立てていこうとする行為である。前半部の「秘密」を踏まえることで、様々な性質の「秘密」を試すもののことごとく失敗におある「私」の姿が見えてくる。「私」は「余程色彩の濃い、あくどい物」を「秘密」を手段として手に入れようとしたが「秘密」は破綻したため、自ら見限る。しかし「秘密」を経て快楽に貪欲になった「私」は更に「もッと色彩の濃い、血だらけな歓楽」を求めるために最初に選んだ市内ではなく郊外へ脱出する。快楽のために「或る気紛れな考」により日常からの離脱を求めた「私」と日常と化した非日常から「急に」田端へ移転する「私」の姿勢から、「私」は終始快楽主義者であったといえる。」と結びました。

いただいたご質問は、「女の「憂鬱な、殊勝な姿」は昨夜より女の素顔に近いと解釈してあるが、女の演技ではないか」「「秘密」が破綻したことで快楽に貪欲になったのではなく、失望したからではないか」「田端へ移転しても「私」は秘密を捨てきれないのではないか」などでした。
ご指摘としては「ルールを守れなかった「私」は、逆に「秘密」に捨てられたともいえる」「「私」とは何者なのか」「「私」が「秘密」を求める根本的な姿勢に変化はない」などをいただきました。


今年度一発目の例会であることはもちろん、入会を検討して見学に来てくださっている方が初めて見る「近研の例会」でもあり、個人的には初めての一人発表でもあり……悩むことも多々ありました。しかし、先生や先輩方、会員の方からのあたたかいご支援とご協力により、無事に発表を終えることが出来ました。本当にありがとうございました!!

いろいろとご支援をいただきながらでも研究発表は大変なものでしたが、納得したものが出来たことと無事に発表が終えられたことは私の中でとても大切な財産となりました。今回いただいた視点の持ち方や注意すべき点など、次に活かしていきたいと思います。先輩方のようなしっかりした読みができるように頑張ります!

最後になりましたが、例会の見学にお越しくださった皆さんどうもありがとうございました!
ぜひ5月7日に行う志賀直哉「范の犯罪」の読書会にもお越しください。お待ちしています!

では、失礼いたします。

芥川龍之介『鼻』の読書会

2012-04-20 00:04:58 | Weblog
4月16日に今年度最初の例会として芥川龍之介『鼻』の読書会行いました。司会は藤野が務めました。
新入生6人、2年生2人、3年生1人見学に来てくれました。

『鼻』について多くの意見が出されました。近年先行論でも「笑い」に着目して論じられることが多かったです。傍観者の利己主義が表立って書かれていることによって笑えない、という意見や、「笑う」と「哂う」の漢字の違いよる笑いのとらえ方による内供の内面を読み、自尊心から周りが見えていないという意見。
また、登場人物の内面の叙述について、鼻の治療の際の内供の叙述が「らしく」、「そうに」、「さらに」のように不明瞭になっている、それは弟子の内面にも同様のことがいえ、作中の人物の内面をわざと不明瞭にしているのではないか? という意見がでました。

そして、鼻の結末を明るいものと読むか、暗いものと読むかという、論点についても意見が交わされました。一年生から、鼻が伸びた朝の描写から内供のこれからを明るいものと考えるという意見や、秋風が寂しさを表現のでないか、という意見がでました。
会員のからは、内供が鼻が戻った後も人に笑われなくなったと喜ぶところに結局変わらない内供の内面などに着目した、吉田精一氏以来多くある世紀末的な、読みが多く出ました。

まとめとして岡崎先生から、傍観者の利己主義にとらわれているために個と個の関わり(内供と弟子との関係)が壊れてしまっていること、内供が笑われている隠された理由を探すことで、より小説の読みが深いものとなる。原典にはない人として書かれていることなどを、いかに読んでいくかとおっしゃっていました。


今回は、新入生を迎えたなかで、一年生からも意見がでたことや、多くの意見が交わされ、今年度初めの例会として良いスタートが切れました!

                                  4年 藤野