近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

4/21 石川淳「マルスの歌」研究発表(本発表)

2014-04-26 10:39:40 | Weblog
 4月21日(月)に行われました、石川淳「マルスの歌」研究発表について報告させていただきます。
 

 発表者は3年黒田君、2年熊谷君、2年櫻井君、司会は4年岩渕が務めさせていただきました。今回も先週と同じ程度の見学者、新入部員の方々が来られ、特に3年生が多く見受けられました。様々な緊張と活気溢れる教室の中、論点としては作品「一」章の終わりで語られる「…事実のほうから書き出すことにしよう。」という表現がどのように解釈できるかということが注目されました。語り手は「小説の世界」と「事実」とを対比して扱っていますが、読者がそれを文字通り受けとりますと「二」章は「事実」の報告書ということになってしまいます。
 

 ある作家たちの間で、小説が書けないという事実を小説として書くという時期があったことを岡崎先生から先々週(プレ発表)で教えていただいていたこともあり、発表者の意見は、作中での「わたし」は「マルスの歌の季節」から脱しておらず、「事実」を当事者が描くことは不可能だということを根拠に、「マルスの歌の季節」を脱した「わたし」が過去を綴った小説という形をとり、作者(石川淳)―「わたし」(小説を書ける)―マルスの歌の季節の中にいる「わたし」(小説が書けない)という三重構造になっている、というものでした。
 

 しかし、小説が書ける「わたし」が「マルスの歌の季節」を何故脱したといえるのかについての解釈が曖昧、また、作品の内容についてあまりふれられていないといった指摘もあり、岡崎先生からは、作品の構造分析だけではなく物語内容にも取り組んでいくべきだという助言と、また、新しい読みに果敢に挑戦していく姿勢を評価していただきました。
 

 見学の新入生や新部員の方々におかれましては、初めての研究発表の回となりましたが、どの方々も熱心に参加されていた様子が窺えました。これも当日まで懸命に作品の解釈をした発表者の努力の賜物かと思われます。私事ですが、拙い司会で申し訳なく、次回務めさせていただく際には手際よく進行していけるよう精進して参ります。


次回:4月28日(月) 18:00~
   読書会 太宰治「逆行」


 それでは、失礼致します。



4年岩渕

4/14芥川龍之介『羅生門』読書会

2014-04-15 09:58:49 | Weblog
先日は芥川龍之介『羅生門』の読書会を行いました。
見学に例年に無いほどたくさんの方が来てくださり、大変嬉しく思います。

高校の国語教材として広く採用され、森鷗外『舞姫』や夏目漱石『こころ』、中島敦『山月記』と並び、国民的作品の一つと言える『羅生門』は「エゴイズム」や「悪が悪を許す」といったテーマで高校では授業が展開されてしまう傾向にあります。しかし、今回の読書会ではテーマに縛られない多角的な読みを追求できたのではないでしょうか。

始めに論点としてあがったのは冒頭に語り手が「作者」として顕在化することについてでした。「作者」は全知全能の視点から物語世界を語っているかのように思われますが、途中で下人を見失ない、最後は「下人の行方は、誰も知らない」と下人を語れなくなってしまうという意見に対して、良くも悪くも盗人になる「勇気」を手に入れた下人は主人公の理想として欠けていたものが生成され、下人が「作者」の手を離れた結果が最後の1文に表れているといった意見が交わされていました。

また下人の善悪について「羅生門」や「太刀」といった象徴的な面から意見が汲み交わされる場面がありましたが、私自身この作品を善悪の二元論では語り切れない立場にいるのでこの点に関してこれ以上は言及しません。

最後に岡崎先生から「作者」=芥川とは考えるのは厳しいものの、芥川の自嘲的な視点はかなり含まれており、かつ「作者」は荒廃した平安朝におらず、安全な場所から下人に倫理を押し付けています。そのため、下人は始め平安朝を生きる人間ではなく近代的思想を持った人物として描かれますが、下人が平安朝を生き始めたことによって「作者」は下人に倫理を求められなくなり、「作者」だけではなく下人は読者をも排除していったのではないかとお話しして下さりました。

次週4/21は石川淳『マルスの歌』研究発表です。

3年田中