近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

6/22横光利一「赤い着物」研究発表

2015-06-23 20:57:22 | Weblog
こんばんは。
先日6月22日に行われた横光利一「赤い着物」の研究発表会についてご報告させていただきます。
発表者は4年の松尾さん、2年の眞鍋さん、1年の長谷川さん、前原さんです。司会は2年の山内が務めさせていただきました。

今回の研究発表の副題は「役割を求める灸」です。

・宿屋の息子の灸は忙しい母親や姉に相手にしてもらえず、子供を遊ばせることを自分の仕事にしようとしていた。
・その役割を果たすために赤い着物の女の子を遊ばせていたら、女の子の笑い声に煽られて自分自身を制御することができなくなり、ついには死んでしまった。
・灸が死んでからも冒頭部分の繰り返しのような描写がされていることから、灸の死は日常生活のサイクルに影響を及ぼすものではなかった。

発表者の方々は以上の点を指摘し、「灸は役割の獲得に失敗し、灸の死後もいつも通りの日常が続いている」という結論を導き出しました。


質疑応答の場では、最初に本文中の「母」と「母親」の書き分けについての意見が挙がりました。
発表者の解釈は、「母親」には灸の愛情を求める気持ちが表れており、「母」という表現は忙しさからその灸の気持ちをあしらってしまう場面で用いられているというものでした。
ただ、必ずしもそう言い切れるのか判断し難い箇所もあったため、この点についてはより深い追究が必要なようです。

次に、「灸」という名前について議題になりました。
「お灸を据える」という慣用句や本文の随所で確認できる「火」と関連付けたものなど、いくつか意見が交わされましたが、「灸」という名前を与えられたことの特権性や、「名前の意味」ではなく「名づけられたこと」それ自体に着目してみるのがいいのではないかという方向に落ち着きました。

また、発表者のまとめについて「いつも通りの日常生活が続いているのではなく、続いているように描かれているのではないか」という指摘がありました。
この部分に関しましては、
・冒頭では饒舌だった母が、灸が死んだ後の最終場面では出発する客に「では御機嫌よろしく。」の一言しか言えなかったことから、実は日常は変わっている。
・母の一言には灸が死んでしまったことに対する万感の思いが込められている。
・発表者もその点については理解しているが、それでも日常が続いていく悲痛さの方に注目し、読み取ろうとしたのではないか。
とのご意見を頂きました。

他にも、「赤い色」(初出の雑誌では、この題で発表されていました)との比較や女の子が着ていた赤い着物についての考察がなされるなど、非常に活発な議論の場となりました。


岡崎先生からは、作品分析について、「役割獲得のために女の子を遊ばせた」という解釈は積極的に読めるのかという点について最初にご指摘を頂きました。
また、今回の発表では見落とされていた、「生徒の小さな番傘が遠くまで並んでいた」様子を見つめる灸について、ここでは友達との繋がりを求める灸の寂しさを読み取ることができるのではないかというご提言を賜りました。
最後に、作品の冒頭と最後を照応し、一つの命の終わりが何事もない日常生活に埋没していってしまう不条理が喚起されられるように巧みに描かれているところを読んでみると更なる作品理解に繋がるのではないかとのお話を頂戴しました。



次回の活動は6月29日(月)伊藤整「生物祭」の研究発表です。


6/8横光利一「蠅」読書会

2015-06-21 23:09:45 | Weblog
こんばんは。更新が滞っており、申し訳ありません。
今回は6月8日に行われた活動の報告をさせていただきたいと思います。
横光利一「蠅」の読書会で、司会は私、3年石川が務めました。

「蠅」は短い作品ですが横光初期の代表作ということで、さまざまな観点から考察が行われました。
まず、語り手によって馬車の出発時間を知る唯一の存在とされた「饅頭」について注目し、馭者の生活がルーティンワーク化していることが読みとれるとの意見がありました。
また、それに付随して馭者が「饅頭はまだ蒸らさんかいなう?」と言っていることから、作中ではそのルーティンワークから外れた馭者の様子が読みとれるのではないかという指摘もされました。
加えて、馬車の乗客たちに関しても多くの議論が交わされました。
登場人物は無機質な語りによって、それぞれ描かれ方に差があるということや、男の子を除いた全員が自分の内にしか興味のない人物であるということが指摘されました。
そこでは、男の子は危機を発見できるような目を持っていたにも関わらず、周囲の近代的価値観を持った大人たちはそれを汲み取ることができないということも、話題に上りました。
物語の結末が必然であるか偶然であるかという議論もなされましたが、このような登場人物同士のコミュニケーションの不成立が事故を防ぐことのできなかった原因のひとつとして挙げられるのではないかという意見もありました。
他にも、作品の鍵となる「蠅」についても、冒頭部と結末部で描かれることによって、登場人物たちと対比されているという考えが挙げられました。


岡崎先生からは、本作品が擬人法や比喩といった新感覚派によく見られる技法を多用して書かれている点をはじめ、レンズとスクリーンを用いたような映像的な表現によって、人間の特権性の無さが現れている点や、乗客たちの死と同時に蠅が命拾いをするドラマが描かれている点などをご指摘いただきました。
また、蠅のドラマを作中に挟み込むことによって、作品自体が単なる悲劇として終わることなく、読者を人間の目から引き離し、さらにそれを相対することが可能となっていることを解説していただきました。
これによって、「蠅」が人間側から物語を見るか、蠅側から物語を見るかでその意味合いが異なる作品となるというまとめを頂戴しました。


先行論も多く、解釈し甲斐のある作品で活発な意見が交わされたと思います。
前期の活動も残り少ないですが頑張っていきましょう。


3年石川