こんにちは。佐藤です。
24日の例会では、原民喜「鎮魂歌」国文学会プレ発表、谷崎潤一郎「母を恋ふる記」卒論中間発表を行いました。「鎮魂歌」の発表者は西山先輩、「母を恋ふる記」の発表者は西村先輩です。
まずは原民喜「鎮魂歌」についてです。「鎮魂歌」の文体について、同じフレーズを繰り返すことを緊張し生き難い状況の継続を示唆していると考察をされていました。
そして作中に登場する「僕」、伊作、お絹に関しましては、「僕」ではない人物を通してしか語りえない思考であり、伊作・お絹を通して「僕」が内包している内的世界の崩壊と個の喪失を理解するために登場すると捉え、隣人と表現された死者は「僕」の内的な存在であるとまとめていました。
また「鎮魂歌」とは「僕」の内的な死者を慰めるためのものであるとし、そのことが「原爆以後」を生きるための「僕」の姿勢として表されているとまとめられていました。
副題については岡崎先生などから「原爆以後」とするなら、原民喜の原爆以後の他の作品も検討してみる必要があるとのご指摘を受けました。
また「鎮魂歌」は原民喜文学の集大成であるというまとめに対しては、本当にそうであるのかは「鎮魂歌」を読んだだけではわからないというご指摘もいただきました。
次に「母を恋ふる記」について書かせていただきます。月の光が「私」の意志によって光の加減が変わる視覚の不正確な様子が表現されている、また風の音や三味線の音により美しい母を思いだし聴覚により世界を認識しているなど、視覚と聴覚から作品を分析されていました。
以上に挙げたものと海の匂いで月や海といった母なるものに意識を向かわせている。
そのことが美しい母という視覚的な美しさにこだわる谷崎の趣向が見え、視覚だけではなく光と音が感覚の融合であり、感覚全体で美をとらえようとする作品だといえると考察されていました。
この考察に対しまして、海の匂い以外の匂いについての考察が必要なのではないかというご意見が出されました。岡崎先生からは、~であった。~だと思った。という表現は子供の視点ではない。また後半まで「母」が登場しないことに仕掛けがあるのではないかといったご指摘をいただきました。
先輩方の発表は、よくまとまっていてさすがだと感じましたが厳しいご指摘が多々あり自分の力はまだまだであると感じました。これからも精進していきたいと思います。
最後までありがとうございました。
24日の例会では、原民喜「鎮魂歌」国文学会プレ発表、谷崎潤一郎「母を恋ふる記」卒論中間発表を行いました。「鎮魂歌」の発表者は西山先輩、「母を恋ふる記」の発表者は西村先輩です。
まずは原民喜「鎮魂歌」についてです。「鎮魂歌」の文体について、同じフレーズを繰り返すことを緊張し生き難い状況の継続を示唆していると考察をされていました。
そして作中に登場する「僕」、伊作、お絹に関しましては、「僕」ではない人物を通してしか語りえない思考であり、伊作・お絹を通して「僕」が内包している内的世界の崩壊と個の喪失を理解するために登場すると捉え、隣人と表現された死者は「僕」の内的な存在であるとまとめていました。
また「鎮魂歌」とは「僕」の内的な死者を慰めるためのものであるとし、そのことが「原爆以後」を生きるための「僕」の姿勢として表されているとまとめられていました。
副題については岡崎先生などから「原爆以後」とするなら、原民喜の原爆以後の他の作品も検討してみる必要があるとのご指摘を受けました。
また「鎮魂歌」は原民喜文学の集大成であるというまとめに対しては、本当にそうであるのかは「鎮魂歌」を読んだだけではわからないというご指摘もいただきました。
次に「母を恋ふる記」について書かせていただきます。月の光が「私」の意志によって光の加減が変わる視覚の不正確な様子が表現されている、また風の音や三味線の音により美しい母を思いだし聴覚により世界を認識しているなど、視覚と聴覚から作品を分析されていました。
以上に挙げたものと海の匂いで月や海といった母なるものに意識を向かわせている。
そのことが美しい母という視覚的な美しさにこだわる谷崎の趣向が見え、視覚だけではなく光と音が感覚の融合であり、感覚全体で美をとらえようとする作品だといえると考察されていました。
この考察に対しまして、海の匂い以外の匂いについての考察が必要なのではないかというご意見が出されました。岡崎先生からは、~であった。~だと思った。という表現は子供の視点ではない。また後半まで「母」が登場しないことに仕掛けがあるのではないかといったご指摘をいただきました。
先輩方の発表は、よくまとまっていてさすがだと感じましたが厳しいご指摘が多々あり自分の力はまだまだであると感じました。これからも精進していきたいと思います。
最後までありがとうございました。