近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

原民喜「鎮魂歌」国文学会プレ発表、谷崎潤一郎「母を恋ふる記」卒論中間発表

2011-10-29 02:46:53 | Weblog
こんにちは。佐藤です。
24日の例会では、原民喜「鎮魂歌」国文学会プレ発表、谷崎潤一郎「母を恋ふる記」卒論中間発表を行いました。「鎮魂歌」の発表者は西山先輩、「母を恋ふる記」の発表者は西村先輩です。

まずは原民喜「鎮魂歌」についてです。「鎮魂歌」の文体について、同じフレーズを繰り返すことを緊張し生き難い状況の継続を示唆していると考察をされていました。

そして作中に登場する「僕」、伊作、お絹に関しましては、「僕」ではない人物を通してしか語りえない思考であり、伊作・お絹を通して「僕」が内包している内的世界の崩壊と個の喪失を理解するために登場すると捉え、隣人と表現された死者は「僕」の内的な存在であるとまとめていました。
また「鎮魂歌」とは「僕」の内的な死者を慰めるためのものであるとし、そのことが「原爆以後」を生きるための「僕」の姿勢として表されているとまとめられていました。
副題については岡崎先生などから「原爆以後」とするなら、原民喜の原爆以後の他の作品も検討してみる必要があるとのご指摘を受けました。
また「鎮魂歌」は原民喜文学の集大成であるというまとめに対しては、本当にそうであるのかは「鎮魂歌」を読んだだけではわからないというご指摘もいただきました。

次に「母を恋ふる記」について書かせていただきます。月の光が「私」の意志によって光の加減が変わる視覚の不正確な様子が表現されている、また風の音や三味線の音により美しい母を思いだし聴覚により世界を認識しているなど、視覚と聴覚から作品を分析されていました。
以上に挙げたものと海の匂いで月や海といった母なるものに意識を向かわせている。
そのことが美しい母という視覚的な美しさにこだわる谷崎の趣向が見え、視覚だけではなく光と音が感覚の融合であり、感覚全体で美をとらえようとする作品だといえると考察されていました。

この考察に対しまして、海の匂い以外の匂いについての考察が必要なのではないかというご意見が出されました。岡崎先生からは、~であった。~だと思った。という表現は子供の視点ではない。また後半まで「母」が登場しないことに仕掛けがあるのではないかといったご指摘をいただきました。
先輩方の発表は、よくまとまっていてさすがだと感じましたが厳しいご指摘が多々あり自分の力はまだまだであると感じました。これからも精進していきたいと思います。
最後までありがとうございました。

卒業論文中間発表―谷崎潤一郎『母を恋ふる記』・國文学会プレ発表―原民喜『鎮魂歌』

2011-10-25 16:04:42 | Weblog
10月24日に卒業論文中間中間発表―谷崎潤一郎『母を恋ふる記』・発表者は西村先輩、國文学会プレ発表―原民喜『鎮魂歌』・発表者は西村先輩、司会は藤野で行いました。


卒業論文中間発表では、『母を恋ふる記』の作中の光や音が多用されていることに着目し、作品世界を論じていました。

まず、光についての表現に着目した考察がなされました。冒頭の雲に隠れている月(月の不在)などから、視覚の不正確さが表現されている。
次に、音についての表現に、ざわざわと小枝を鳴らして居た、私はよくあの三味線の音を聞いた、など視覚に対して聴覚は明確なものとして意識されている。
これらのことから、冒頭では視覚は不安定なものであり、聴覚によって世界は意識されている。それが月の出現により、それまで表立っていた聴覚党は、光の下に抑えられるようになり、視覚を第一とすることで、美しい母親という視覚的な美しさにもこだわった谷崎の趣向がみえる。
月の光と波の音とが身に沁み渡る。新内の流しが聞こえる。という一節では、光と音が見事に合わさっており、感覚の融合、感覚全体で美をとらえようとする作品だといえる。という論でありました。

ご意見としては、感覚に着目したのならば、作品中の匂いの表現入れるべきでは、というご意見。この論の中では匂いについては、海の匂いについての言及しています。
谷崎の他の作品からも光や音についてどのように表現されているのか、またこの作品の重要な要素である月について時代・地域では文学上どのように考えられているかというご意見。
最後に岡崎先生から、色について白という色は若い母親を暗示させているのでは? 現在の私が子どもとして夢を見ていることが読み取れる語り方、などなど多くのご意見をいただきました。

光と音から見る作品の美という、それまであまり研究されてこなかった論点に着目していることが斬新な論であると思いました。


國文学会プレ発表では、『鎮魂歌』特異な表現に着目し、文体・僕という存在から考察し、論じていました。
文体における特異な点としてみられる繰り返しの表現、これは繰り返しによりあえて違和感を与え、そこに立ちあがってくる言葉の印象を印象を強くする効果がみられる。
言葉の羅列することによって浮き上がってくる言葉を繰り返すことで、注視される概念を示している。そして、「僕」が鎮魂しようとしている死者はたちは「僕」の記憶の中に存在する内的なものであり、「鎮魂歌」によって内的な死者たちが鎮めることが、「原爆以後」を生きるための「僕」の姿勢として表わされている。というまとめがなされました。

ご意見といしては、副題にしている、『「原爆以後」を生きること』について「原爆以後」の作品群の中で、「鎮魂歌」のことしか触れていないことから、より正確に表わすべきでは? 主要論文を引用するなら、全体の概略だけなく、作品について論じている主要な部分を引用して、そこから今回の所研究の指針を示すべき、というご意見。
その他にも、作品の解釈ついての詳細な意見が多く挙げられました。

発表の手順など、さすがでした。そして先輩方のそれに対するご意見も普段の例会のものより、深い追及により緊張感のあるものでした。


次週は、『小僧の神様』(一週目)の発表を行います。
発表者は今井さん・佐藤さんです。
                                  
三年・藤野

森鴎外「高瀬舟」二週目

2011-10-20 22:26:14 | Weblog
はじめまして。
今年から研究会に参加させていただいている 1年 佐藤 と申します。
皆様よろしくお願いいたします。

17日に行われた例会は、
森鴎外「高瀬舟」の二週目の発表でした。
発表者は木佐貫先輩、穴井君
司会者は藤野先輩です。

一週目の発表では、視点が庄兵衛に集中して研究が進められているという指摘がありましたので、今回の発表では庄兵衛だけでなく、語り手や喜助にも視点を当てた客観的な視点から見た研究が進められていました。

庄兵衛は喜助に対して興味を持ち、質問しながら自分自身の生活と比べていくのに対して
喜助は一貫して罪人と同心の関係を保ち続けている
そしてその態度は今までに役人たちに自分の罪を話続けた中で作られた態度であるという考察をされていました。

また作者は庄兵衛というキャラクターに偽装して近代に対する批判をしているのではないかという考察もされていました。
その考察については、岡崎先生から
どんな作品を読んだとしても作者と語り手を同一視するのは危険だ
というご意見をいただきました。

そして、庄兵衛、喜助、語り手といった様々な視点から見

森鴎外「高瀬舟」 二週目

2011-10-18 17:26:48 | Weblog
10月17日に「高瀬舟」の二週目の発表を行いました。
発表者は木佐貫さん・穴井くん、司会は藤野が務めました。


前回の発表では庄兵衛の視点からの考察が集中していたことから、より客観的視点、特に語りについてのご意見が多く出ていたことから、今回の発表では語りや、直接語られることのない喜助についての考察がを中心に行われました。

新たに先行論として、語りについて言及した三好行雄・松本修の論を用いておりました。
まず語りについての作品分析が行われ、語りにより庄兵衛の生活が語られることにより、読者に喜助と庄兵衛とを引き比べて考えさせ、自然と焦点が金銭感覚のことに移っていく、という分析がなされました。そして、語りが庄兵衛というキャラクターに偽装した作者の言葉として語っているのではないのか、という考察でした。

そして、喜助の庄兵衛に対する印象についての分析が行われました。庄兵衛は喜助の態度に興味を持ち、話を聞くにつれて関心が増していく一方で、喜助は一貫して庄兵衛を役人として扱っている。そして、こうした態度や条理の通った話は喜助が度重なる取り調べを受けたことでつくられた対外的な建前ならば、喜助の側から見るこの物語は、何にも進展のないままにただ遠島の罰を受ける道中の話ともとれる、という考察でした。

今回の発表は、庄兵衛の視点・語りの視点・喜助の視点、このように誰の視点で読み進めていくかによって様々な様相が現れてくる点が「高瀬舟」の魅力であるといえる、とまとめていました。

発表後の意見としては、やはり語りについてのの質問が多く、語り手が物語に介入する理由は何か? また、庄兵衛の考えなのか、語り手による語りのか、という作品中の「語り」の介入の問題。発表者はこの語りの介入について作者が庄兵衛の視点をかりて体制批判をしているという考えでした。
この考えに対し岡崎先生は、作者=語り手という考えは安易に持たない方がいいというご意見をいただきました。

そのほかにも、喜助の内面に対して語られないこと、また語りの信用性のぼかしから、読者に疑問を持たせる構造も持っているというご意見をいただきました。


今回司会をして、私が「高瀬舟」という作品は、一般に言われる「知足」と「安楽死」だけでなく、多角的な視点での考察が必要であると思いました。


次回は、卒業論文・国文学会のプレ発表の中間報告会を行います。扱う作品は、谷崎純一郎「母を恋ふる記」・原民喜「鎮魂歌」です。

三年・藤野


森鴎外「高瀬舟」

2011-10-04 23:11:28 | Weblog
はじめまして
今年度から近研に参加させていただいております1年の神戸です。



今回の例会では森鴎外の「高瀬舟」を扱いました。
発表者は1年穴井くんと2年の木佐貫先輩です。
今回の発表では「庄兵衛の視点」から分析をしてくださいました。

後期からは1つの作品に対して、2週にわたって発表を行うことになり、先輩方からは次回に向けてのアドバイスをたくさんいただきました。

高瀬舟は巧みに〈「庄兵衛」の視点〉と〈「語り手」の視点〉が織り交ぜており、本文の視点を細かく分ける必要があるということでした。
また〈「語り手」の視点〉も庄兵衛の心情を語っている部分ともっと客観的な視点にいる部分があり、「庄兵衛の視点」を分析をする時には注意が必要であるようです。

また今回は安楽死の問題に焦点を当てており、高瀬舟の重要な問題である「喜助の金銭感覚」についての話は次回に消化してくれるようです。

短いですが以上で終わらせていただきます。

1年 神戸