近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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2019年4月15日 芥川龍之介「杜子春」読書会

2019-04-19 22:29:53 | Weblog
 新年度になってから数週間が経ちましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
 近研は「近代における家族」を今年度前期のテーマとして掲げ、活動を始めました。
 本日は、4月15日に行われた読書会について報告させていただきます。扱った作品は、芥川龍之介「杜子春」、司会は3年古瀬です。
 
 「杜子春」は、大正9年7月、児童文芸雑誌「赤い鳥」にて発表され、翌年3月、『夜来の花』(新潮社)に収録されました。小学校・中学校の教材として採用されることもあり、多くの人に親しまれている童話です。
 芥川自身が河西信三宛書簡(昭和2年2月3日)などで記しているように、「杜子春」は、唐の伝奇小説「杜子春伝」を下敷きにしています。「杜子春」と「杜子春伝」では、杜子春が声を発してしまう場面と、ラストシーンに大きな違いがあります。「杜子春伝」では、杜子春は女に生まれ変わり、自らの子どもが夫の手によって石に打ちつけられた時に、思わず声を発してしまいます。また、「何があっても黙っている」という仙人からの言いつけを守れなかったため、杜子春は仙人にはなれず、声を発してしまったことを悔やんだ・・・という終わり方になっています。先行研究では、芥川作「杜子春」と、原典「杜子春伝」とを比較した論が多く見られました。

 読書会ではまず、童話である(=年少読者が対象である)がゆえにテーマが分かりやすいという意見が挙がりました。確かに、「人間らしく生きる」・「肉親愛」・「平凡な生活の中にある幸せ」・・・誰もが倫理的・道徳的なテーマを容易に読み取ることができるような作品だと思います。特に、「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」という杜子春の言葉から、先述したようなことを読み取る読者が多いのではないでしょうか。
 「人間らしい」とは何か?「正直な暮し」とは何か?・・・この言葉の解釈について、多くの意見が挙がりました。例えば、「仙人にはならずに平凡な人間として生きること」・「自分自身とまっすぐに(正直に)向き合って生きていくことではないか」・・・様々な解釈がありました。
 岡崎先生からは、「人間らしい、正直な暮し」をどのように捉えるかというところに、〈読み〉の面白さがあり、明確な答えが書かれていない〈魅力的な空所〉を用意して読者に想像させる、作者の意図があるのではないか、というご意見をいただきました。
 また、仙人が、決して声を出してはいけないと杜子春に命じておきながら、最後には声を出さなかったら殺すつもりだったと言うことから、約束は破っても良いと解釈される可能性があり、児童向きではない要素もあるとのご指摘もいただきました。『夜来の花』に、大人向けの小説と一緒に収録されていることからも、子どもだけでなく、大人にも読み応えのある作品だと言えると思います。

 ほとんどの会員は、小学生の頃に授業もしくは自分で「杜子春」を読んだことがあるそうで、中には「杜子春」の劇をやった・観た経験がある会員もいました。
 今回私は、実際に児童・生徒が「杜子春」を読んだらどのような感想を持つかの参考として、「杜子春」を教材化して授業を実施した方の報告文(児玉晴子「「杜子春」を教材化して」・「広島女子大国文」第11号・平成6年9月)を紹介させていただきました。(というのも、私は国語教員志望で、「杜子春」を教材として扱うことに興味があったのです。)例えば、杜子春が贅沢な暮らしをして貧乏になってしまった場面。この場面を読んだ生徒たちは、「周りの人間が許せない派」と「杜子春の自己責任である派」に分かれ、討論を始めたそうです。教師が一義的な読み方を教えるのではなく、生徒一人一人が作品を自由に読んでいました。テクストにある言葉を根拠にして、一人一人が自由に解釈し、意見を伝え合う・・・国語(文学)教育の本来の在り方であると言えます。このような授業をすることが可能なテクスト「杜子春」は、すぐれた作品であると、先生からもご意見をいただきました。
 
 他にも、仙人のキャラクター像や、母の描写について、語り手について等の意見が挙がりました。
 童話=子ども向きと侮れず、様々な解釈の余地――岡崎先生の言葉をお借りすれば、〈魅力的な空所〉があり、読み応えのある作品でした。
 
 次回4月22日は、太宰治「桜桃」の研究発表を行います。
 新歓期間ですので、文学に興味のある方、読書が好きな方、ぜひ見学にお越しください。

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