近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

平成30年12月17日坂口安吾「私は海をだきしめてゐたい」研究発表

2018-12-21 15:54:40 | Weblog
こんにちは。12月17日に行われた坂口安吾「私は海をだきしめてゐたい」研究発表の報告をさせていただきます。発表者は2年中島さんと1年木村さん、副題は ―女体から〈海〉への観念化― です。司会は3年望月が担当しました。

〈作品概要・研究史〉
「私は海をだきしめてゐたい」は初出が「婦人画報」(昭和22年1月)、初刊が『いづこへ』(昭和22年5月、真光社)となっており、発表当時から現在にいたるまで言及されることの少ない作品であるようです。本作の性格が物語的というよりも随筆・評論的であるためか坂口安吾の端的な思想表明として受容される傾向があり、そのために作家論的な視点で論じたものが多く、作者の他作品との比較もなされています。記号論的な試みもなされていますが、いずれにせよ本作の中心的モチーフである不感症の「女」のうちに「私」が肉体と精神の二元論以前の「ふるさと」を見出すという点については幾度か論じられています。本作が物語的でないことに加え、戦後文学であるにもかかわらず坂口安吾の文学が必ずしも時代性を反映しないということが作品研究を停滞させているとも考えられます。戦後日本の"風景"を写生せずに、いわば人間存在の"原風景"を描いているというところに作者の特徴があり、本作の思想があるかと思われます。

〈発表者の主張概略〉
「私」と「女」を結び付けるのは夫婦愛ではなく性愛であり、「私」が不感症の「女」の肉体にたいする欲望を満たそうとするように、二人は孤独で虚ろな欲望を抱きつつ生活している。「女」は浮気性である。しかし彼女の「淫蕩の血」を「私」がたんに批判するというのではなく、むしろ「女」を批判せずにはいられない自己の精神を「私」自身批判的に語りつつも、「女」の肉体にながれる「淫蕩の血」を観念的で「水ゝしく」「透明」で「清潔」なイメージへと高めていく。「女」の肉体が不具であることに自己の精神も歪んでいることを相対化しつつ語る「私」は、この意味で精神的でないとはいえない。(発表者の主張から離れるが、)肉体的にも精神的にも満たされない「私」は、無限に満たされえない欲望ゆえに無限に開け放たれた〈海〉、つまり欲望の解放の場を得ることになる。欲望の不可能が欲望の無制限へとつながっていく。そのような虚ろな磁場が肉体・精神という二元論以前の「私」の「ふるさと」である。(発表者の主張に戻る。)一方で観念化された「女」の肉体は〈海〉という自然に圧倒されるのであり、「女」の「淫蕩の血」を圧倒的な〈海〉と同一平面上にまで高められなかった「私」の観念の敗北である。
はたして「私」は肉体上の欲望のみに追いすがっていたかというとそうではなく、自己批判の葛藤にさいなまれる「私」の態度はむしろ誠実であり、そこに「私」のプラトニックな一面が垣間見られる。「私」の語りが葛藤しているとすれば、繰り返し用いられた「私」の断定的な語りもそのまま受け取るわけにはいかない。人間性を疑いつつもそれを断定的に語らねばならなかった自己保身の営為にこそ事実存在の決意が見て取れる。

〈質疑応答・総括〉
発表者の主張をそっくりそのまま報告せずに筆者自身の解釈を少々交えてしまったことをお断りしておきます。
さて、ここでは今回の例会で主な議題となった「私」の語りにまつわる「嘘」についてだけ報告させていただきます。岡崎先生は、本作では「私」の語りが断定的であるために、常に「嘘」や矛盾をはらんでいる可能性に注意しながら読み進めていくことが必要であるとされ、語りの表層にみられる断定表現を反転しながら読みつつ、矛盾を正・誤に振り分けようとせずに矛盾のままに受容していくほうが生産的であるとされました。そのような矛盾が、やがて「女」の肉体と〈海〉との癒着を導きだし、肉体的な欲望を満たさんとすることを断定的に語ってやまない「私」を、むしろ断定の危うさによって無償の精神世界へと引き込むともされました。「私は海をだきしめてゐたい」という題名の趣意も「私」の語りを表裏にひっくり返しつつ読むことによって理解される「私」の願望を物語ったものであるということです。

ここまで発表者の主張も質疑応答で議論されたことも曖昧模糊に報告してきてしまいました。議論自体が難航したことに加えて司会者(筆者)の技量不足が惜しまれます。ともかく、「私は海をだきしめてゐたい」は研究史も浅く、様々な問題点を潜在させた作品でもあるので新たな分析・読解が待たれます。末尾の「私は肉欲の小ささが悲しかった」という一文がはたして自然(「海」)への敗北であったか、それとも…。
次回は12月24日(月)、織田作之助「世相」の検討を行います。ふだんとは別に前半で研究史の検討、後半は読書会の形式で検討を行う予定です。
※この場を借りてツイッター更新、Wikiブログ更新が二か月間ほど停滞していたことをお詫び申し上げます。
コメント

平成30年10月8日 国木田独歩 「運命論者」

2018-10-27 00:51:12 | Weblog
こんにちは。大変遅くなりました。10月8日に行われた国木田独歩「運命論者」研究発表のご報告をさせていただきます。
発表者は3年望月さん、2年佐々木さんです。司会は1年永田が務めさせていただきました。

「運命論者」は、明治36年3月に「山比古」に掲載され、その後明治39年3月に佐久良書房『運命』に収録されました。
「余の『運命論者』は全然空想に依りて、作られたる人物なるも、此運命に對する余の思想を具體化したるものなり」とは、「病牀録」(明治41年)に収められた国木田自身の発言です。ここから国木田がもつ「運命観」を知ることができます。研究史は独歩の出生に関する、本文の内容についての言及の少ない論から始まり、その後作中の登場人物が語る運命観と国木田の運命観を比較検討する論が目立つようになりました。このような研究の流れの中で、平成5年に発表された関肇の論は作品の構造など作品世界の内実を主に扱った画期的なものでした。

発表者は、作品の構造やナラトロジーを追うのを主題に置き検討しました。発表では、「自分」の前に現れた怪しい男=信造が「自分」に語る物語には〈自分とは何者か〉という問いが含まれており、その問いが〈運命とは何か〉という問いに隠されている、という意見がなされました。また、信造と「自分」の気性を比較する発言がありました。

岡崎先生からは、自身の「運命」について物語る信造の気性について注目することの重要性を指摘していただきました。「惑」を見せる信造の気性は、運命によるものだけでなく、信造が生来持つ気性によるものではないかと考えることもできます。「運命論者」は主に信造の語りによって話が進んでいきます。それだけにこの作品を読み解くには、信造がどのような人間として描かれているか、これに注目する必要があります。この作品の中心となる「運命」だけでなく、舞台である鎌倉という「場所」、そして信造自身の「気性」といった様々な要素が信造にどのような影響を与えているか、一考の余地があります。
また、議論の中で信造が「過去」について語るという物語の構造に関する指摘がなされました。信造が語る物語は果たして事実であると言えるのか、この物語には「歪んだ事実」があるのではないか、といった指摘がなされました。よくよく考えてみれば、人が過去の出来事を余すところなく記憶し、それを語ることは不可能であります。とすれば、この作品内で信造はどのようにして過去を語るのか、そこには信造の主観が含まれるのではないか、このようにして考えれば信造の人物像を浮かび上がらせることができるかもしれません。このように、「過去を語る」という行為に注目することで、後期のテーマ「嘘と文学」と「運命論者」を結びつけることができる、と言えるのではないでしょうか。

次回は、谷崎潤一郎「幇間」研究発表です。後期の研究発表が始まりました。後期もいい研究会にすることができるよう、精進していきます。
コメント

平成30年10月1日 江戸川乱歩 「人間椅子」読書会

2018-10-22 01:26:36 | Weblog
こんにちは。
秋色いよいよ深くなってきた今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
遅くなってしまいましたが、10月1日に行われた江戸川乱歩「人間椅子」の読書会のご報告です。
司会は2年小奈が務めさせていただきました。


「人間椅子」は、大正14年10月「苦楽」にて発表され、昭和6年7月、平凡社より刊行された『江戸川乱歩全集第1集』に収録されました。
「人間椅子」は江戸川乱歩の初期の作品であり、また、現代においてもコミカライズや「人間椅子」をモチーフにした創作の多い、影響力の強い作品でもあります。

 
 先行研究では「人間椅子」はエログロナンセンス〈小説〉なのかという争点や、欧米への憧れを指摘する論も多く見られましたが、今回の読書会では「人間椅子」に見られる二重性や介在する距離、作中作としての〈人間椅子〉、また送られてきた手紙の虚構性について議論しました。


「人間椅子」の構造には、三つの距離が介在しています。作家と享受者との「無限の距離」、手紙の差出人と名宛人との「身体的距離」、職人と購買者との「無関心の距離」が「人間椅子」には介在してあります。そしてその距離を無化させるように「奥様」という親しみのある呼びかけで手紙は始まっています。これは先行研究でも指摘がなされていました。

 また、「人間椅子」は江戸川乱歩自身の立ち位置を明確にした小説でもあるという岡崎先生のご指摘も頂きました。手紙の中で「私」のいう「醜い現実」が自然主義の描いてきた世界であり、この「人間椅子」は自然主義への批判として書かれたものであるということです。つまりこの「人間椅子」は江戸川乱歩のプロパカンダ小説ということになります。そうして読むと新たな読み方展開でき、とても面白いと思いました。

 また一番議論がかわされたのが手紙の虚構性についてです。この虚構を満たしているのは佳子であり、この手紙の「明らかにしえない」部分が恐ろしさの根源でもあります。椅子の中に人がいるという「存在しえない所に存在している恐怖」がこの小説の醍醐味でもあると思います。
そして、この「人間椅子」の作中作とされている手紙が信実でも虚構でも、佳子は一生、悪夢を見続け、椅子に座るたびに幻想に取りつかれていきます。手紙が創作だと知らされた後の佳子の反応を描かずとも、先まで想像させてしまう江戸川乱歩の魔術性は本当に素晴らしいですね。

今回の江戸川乱歩の「人間椅子」は後期テーマの「嘘」に非常にピッタリな作品であったと思います。
また読書会も全員が発言してくださったりと、非常に有意義なものになったと思います。

次回の研究発表は梶井基次郎の「檸檬」です。読んだ方は一度は丸善に檸檬を置きに行きたくなったのではないでしょうか。私自身も好きな作品なのでとても楽しみです。


コメント

平成30年9月24日 太宰治 「ダス・ゲマイネ」 読書会

2018-10-03 18:28:37 | Weblog
こんにちは。
夏休みが終わり、後期の活動がスタートしました。後期の作品テーマは「嘘と文学」です。
本日は、9月24日に行われた読書会についてご報告致します。扱った作品は太宰治「ダス・ゲマイネ」、司会は私、2年古瀬が務めさせていただきました。

「ダス・ゲマイネ」は、昭和10年10月「文芸春秋」にて発表され、昭和26年6月、新潮社より刊行された『虚構の彷徨・ダスゲマイネ』に収録されました。この作品に対する太宰治の自己評価は高く、書簡の中では特に、表現形式の新しさについて主張しています。
作品の特徴としては、作中人物に作者と同姓同名の〈太宰治〉という作家が登場すること、語り手である〈私〉がいなくなってしまうこと、〈私〉がいなくなった後も物語が続くことなどが挙げられます。これらのことは先行研究でも多く取り上げられており、今回の読書会でも話題になりました。

一章から三章までは、〈私〉=〈佐野次郎〉によって物語が語られていますが、三章の最後に、〈佐野次郎〉は電車にはね飛ばされて死んでしまいます。語り手の死=物語の終わりと思いきや、続きの四章があるのです。四章は〈佐野次郎〉と〈太宰〉以外の作中人物たちの会話文だけで成り立っています。岡崎先生からは、語り手がいなくなっても物語が記述されているということは、語り手よりももう一つ上の概念である、記述者がいることを教えているというご指摘をいただきました。作者の言及にもあった新しい表現形式というのは、非常に挑戦的なものであったと思われます。

時代背景や作者の実生活を絡めた意見や、後期のテーマでもある「嘘」に関する意見も多く挙がりました。
作中人物は知識人を装っているだけで中身がないという指摘から、作中人物たちの生き方についての議論が始まり、先生からは、嘘をつくこと以外に方法がない、何を理想として生きていけばよいか分からない青年たちの姿がコミカルに描かれているものの、悲しく感じるという意見をいただきました。

今回扱った「ダス・ゲマイネ」は難解で読みづらい作品ではありますが、だからこそ研究し甲斐のある作品だと思っています。個人的には特に研究してみたい作品の一つでもあるので、今回の読書会で様々な意見を聞くことができて大変嬉しかったです。
後期第一回目の活動でしたが、良いスタートを切れたのではないでしょうか。
次回の例会は10月8日、国木田独歩「運命論者」の研究発表を行います。


コメント

平成30年度 後期発表予定

2018-10-01 13:31:37 | Weblog
平成30年年度【後期テーマ】「嘘と文学」

9月24日 太宰治「ダス・ゲマイネ」読書会
10月01日 江戸川乱歩「人間椅子」読書会
10月08日 国木田独歩「運命論者」研究発表
10月15日 三島由紀夫「サーカス」研究発表
10月22日 梶井基次郎「檸檬」研究発表
10月29日 谷崎潤一郎「幇間」研究発表
11月12日 卒論中間発表
11月19日 森鷗外「雁」研究発表
11月26日 芥川龍之介「藪の中」研究発表
12月03日 織田作之助「可能性の文学」読書会
12月10日 志賀直哉「范の犯罪」研究発表
12月17日 坂口安吾「私は海を抱きしめてゐたい」研究発表
12月24日 織田作之助「世相」研究発表
01月07日 夢野久作「何んでも無い」研究発表
01月21日 卒論最終報告
コメント

平成30年7月16日泉鏡花「化銀杏」研究発表

2018-07-17 15:53:35 | Weblog
こんにちは。7月16日に行われた泉鏡花「化銀杏」研究発表のご報告をさせていただきます。
発表者は2年佐々木さん、2年中島さん、1年石井さん、1年斎藤さんです。(今まで男性会員には「くん」、女性会員には「さん」と使い分けてきましたが、勝手ながら、男女・年齢問わず呼称を「さん」に統一させていただきます。)副題は―世間を打破する可能性―です。司会は3年望月です。

「化銀杏」は明治29年2月「文芸倶楽部」に掲載の後、明治44年3月『鏡花叢書』(博文館)に収録され、同時代人には賛否両論、それだけ明治の時代に"新しすぎる"気風をもつ作品であったといえると思われます。
本作はそれまでの鏡花文学におけるいわゆる観念小説から、年上の女性と少年の悲恋という主題に代表される幻想小説へと移行していく時期の作品となっております。本来、夫婦の愛を保証するはずの婚姻制度が、かえって人に対する愛の強要となるというモチーフは、当時の社会に対する痛烈なアンチテーゼとなります。作品発表の明治29年を婚姻制度の黎明期、あるいは浸透期と過程するならば、その嘆きはより強烈な社会批判となるかと思われます。鏡花の嘆きは、「愛と婚姻」(「太陽」明治28年5月)に表れています。
研究史では、本作の大半を占めるお貞の語りに焦点が置かれ、またその語りを芳之助が引き出していくところに悲劇の予兆が含まれている、とする論が基軸となっているようです。また、本作の批判対象となる「世間」の倫理観については、今回の発表者も着目していました。

〈概略:発表者の主張〉
お貞と時彦との関係は「世間」を媒介として悪化していく。お貞にとっても時彦は決して全的な悪ではなく、特定の倫理観・制度を押しつける「世間」にその悪因が求められていた。お貞は、「世間」を背景とした時彦の好意に対して過剰なまでの嫌悪感を募らせていく。それまでのお貞の時彦に対する嫌悪感は漠然としたものであったが、「環」「芳之助」「時彦の評判」などとの交流がお貞の内面を外的な言語として吐露させる。その結果独り歩きし始めた「死ねば可い」というお貞の言葉が「呪詛」となり、芳之助とのズレを決定的なものとしていく。芳之助はといえば、彼はあくまでも亡き姉のお蓮の面影をお貞に求めていたが、彼女との対話の中でお貞とお蓮とのズレを認識していく。時彦を殺したお貞は銀杏返しを結っているが、芳之助はお貞にお蓮の面影を見出すことは叶わない。「化銀杏」となったお貞を救いうのは、婚姻制度(「世間」)を打破しうる「諸君」である。

以上の主張をうけて、お貞を救いうる契機をどこに求めていくのかという疑問が投げ出されました。そのことについて岡崎先生の方から、お貞を救う物語として希望的観測を打ち立てるのではなく、お貞を救い得ないほどに絶望的な「世間」の重圧を描き得た点に注目したい、という御意見をいただきました。他にも、どこか幽玄な雰囲気をもつ本作において、お貞や時彦の半ば異常な心理を、生々しくかつリアルに描かれているのが魅力的だという意見も提示されました。

今回初めて発表会に臨まれた石井さん・斎藤さんからは、レジュメ作成における論文の整理・添削の困難なこと、明治期の男女関係のありかたが馴染まない等のご感想をいただきました。昔の人と今の人とでは物の見え方が当然違ってきます。意識が変われば現象も変わります。しかし、現代の社会や「世間」のなかで全体の尊重を要請され、なおかつ「個性」なる怪しげな影を主張することを求められる我々は、案外「化銀杏」の世界にも劣らぬ不条理を抱えているのかもしれません。
次回は7月23日(月)、川端康成「片腕」研究発表を行います。
コメント

平成30年7月2日堀辰雄「燃ゆる頬」研究発表

2018-07-16 23:42:49 | Weblog
 こんにちは。毎日猛暑が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。遅くなってしまいましたが、7月2日に行われた堀辰雄「燃ゆる頬」の研究発表のご報告です。
 発表者は三年小島さん、二年星さんです。司会は二年小奈が務めさせていただきました。
 「燃ゆる頬」は昭和7年1月に「文藝春秋』に掲載され、翌昭和8年12月に四季社『麥藁帽子』に収録されました。



 今回の発表は主に、「私」「三枝」「魚住」という同性愛的関係を結んだ三者の関係や、「私」の受けた「最後の一撃」「大きな打撃」とは何なのかという所に着目したものでした。
 三者の関係については、作者の堀辰雄が初出時に削除したプレオリジナルの文章についても交えて言及されました。発表者は、「<私>は寄宿舎の特殊環境によって一時的に同性愛を許容できただけの存在であり、<三枝>や<魚住>のような恒常的に同性愛の関係を他者と持つことができる者達と<私>の間には深い溝がある」と述べました。また、「私」は「三枝」の「貧血性の美しさ=死に近い儚さ」を愛でていたという、暴力的な「私」の視線についても指摘がなされました。

 次に「大きな打撃」については「最後の一撃によって<私>が、過去の自分を客観視できるようになった時、三枝の面影を感じる少年の性的な行為を目撃することで、自分が今は亡き<三枝〉を女の代用として接していたことに気づき大きな打撃を受けるのである」と述べられました。その中で、「最後の一撃」とは、段階を追い数回に分けられて「私」に与えられたものである、との指摘もなされました。


 議論の中では、「私」にとっての「三枝」とは何かという所に焦点を置いて話し合いました。「三枝」=「女性の代用品」という発表者の指摘や、「代用」という言葉は強すぎるという指摘、「私」の「三枝」への恋愛感情の有無に関する意見などが出されました。
 また岡崎先生は、削除されたプレオリジナルの文章における「魚住」の女の部分について、現行の作品検討にプレオリジナルの文章を研究することの重要性を説かれつつ、それらを削除されたものとして切り離して考えることへの有用性についてご教授くださりました。


 次回は川端康成「片腕」研究発表です。例会も残り一回なので夏の暑さに負けず頑張っていきましょう。私も発表者の一員なので良い発表にできるよう頑張りたいと思います。

コメント

平成30年7月9日中原中也「盲目の秋」研究発表

2018-07-11 16:47:25 | Weblog
こんにちは。夏の暑さも本格的になってきた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。7月9日に行われた中原中也「盲目の秋」研究発表のご報告をさせていただきます。
発表者は2年古瀬さん、2年岡部さん、1年榎本さん、1年永田さんです。司会は2年坂が務めさせていただきました。


「盲目の秋」は、昭和5年4月に「白痴群」で発表され、昭和9年12月には文圃堂から刊行された『山羊の歌』に収録されました。
研究史としては作者である中原中也自身の恋愛、すなわち小林秀雄と長谷川泰子を巡る三角関係と絡めた論じられ方をされたものが多く、読者は作品の言葉と作者の恋愛の考えとを結びつけて作品を読んでいるのではないかという指摘や、ⅠからⅣにかけての作中の起伏や作品構造について言及されてきました。「お前」「おまへ」「聖母」と、文中での二人称の表記が変わっていく点など、詩という短いテクストの中でも、むしろ詩という短いテクストの中だからこそ、非常に読みどころのある作品です。

発表者は、ⅠからⅣにかけての「私」の感情の変化、文中で変化していく「私」の口調、詩の形式が崩れていく様に着目し、その起伏について検討しました。Ⅰで抽象的に美しく歌い上げられる「青春」や「喪失感」を、Ⅱではどう向き合うかが歌われます。Ⅲでは愛する人と過ごす日々と別れを経験したことで悟った「愛」の重みについて歌われ、Ⅳではかなわない夢を見る「私」について歌われます。つまり、Ⅰで抽象的に歌われた「喪失感」や「青春」が、ⅡからⅣの詩篇によって具体的な情報が裏付けされるという構造になっており、この詩のテーマである「喪失」がより浮かび上がってくる、という結論でした。また、そもそも詩という媒体が自分自身を描いて歌うものであり且つ抽象的で情報量が少なく、裏付けをしたいがために作者と絡めた論文が多いのではないかというまとめになりました。
質疑応答では、Ⅳに出てくる「涙を含み」というのが、発表者の見解では女の目のことを指しているが、ひとえにそう考えられないのではないかという意見が出ました。岡崎先生はその直前の箇所「はららかに」という語感から捉えると、一概に目と捉えるのは難しいとした上で、そう読まなければいけないという必然性はないとのご指摘をいただきました。また、詩という媒体の性質上、語感や細かなニュアンスの違いが重要になってくるとのご指導もいただきました。
他にも、「前」と「まへ」の表記の違いについての疑問が提示されました。発表者は「前」の時は物理的に直面している状態を指し、「まへ」は「目方」であり、無限の中に入り込んで進んでいる状態であるという見解を述べました。また、「血管」という表現は静脈というイメージが強く、あくまで「血」と表現されない青白さが、「私」の現在進行形での青春時代を表しているのではないかという意見や、もはや堅くなってしまった血管、という表現が過ぎ去っていく青春を表しているのだろうという意見が出ました。これに対し岡崎先生は、Ⅳでの幼児語の表現からみても、「私」の青春が完全に終わっているわけではないと見たほうが自然であるというご指摘を下さりました。今回の例会では、今まで取り扱いの少なかった詩を扱いましたが、作者の実人生の情報を入れ込まなくても丁寧に分析すれば読むことができる、と示された、今後大いに参考になる有意義な例会であったと思います。


次回は、泉鏡花「化銀杏」の研究発表です。前期の活動も残り僅かとなってきましたが、夏の暑さに負けずに頑張っていきましょう。
コメント

平成30年6月25日太宰治「ヴィヨンの妻」研究発表

2018-07-08 23:03:58 | Weblog
こんにちは。大変遅くなりました、6月25日に行われた太宰治「ヴィヨンの妻」研究発表のご報告をさせていただきます。
発表者は3年浦野さん、1年林くんです。副題は―破綻の自覚と受容―です。司会は3年望月が務めさせていただきました。
「ヴィヨンの妻」は、昭和22年3月「展望」に掲載の後、同年8月に筑摩書房『ヴィヨンの妻』に収録されました。
発表当初は高い評価を受けていた「ヴィヨンの妻」ですが、研究史の早い段階で本作が太宰の作家的背景なしには存立しえないことが指摘され、以降は夫(大谷)が抱える〈罪〉や倫理観に焦点が当てられて論じられました。とはいえ、語り手に着目したテクスト分析は研究当初から行われており、研究史の大きな転換点といえば、大谷から妻である「私」に分析対象を移した時点にあると思われます。
発表者は「さっちゃん」こと「私」に着目し、「私」と大谷との論理・倫理の差異を検討しました。平気で他人に嘘をつく「私」がそのことに無頓着で罪悪感を感じていないのに対し、大谷はどこまでも破滅的な人物であり、自己を取り囲む絶望を倫理観から解釈するがゆえに、いつまでも罪悪を抱え、己を対象化できない人物である。大谷が戦後という状況において家庭を放棄する一方、「私」は「椿屋のさっちゃん」として客の相手をすることに喜びを感じながら働く。「私」は家庭を首の皮一枚の状態で繋いでいたが、彼女が他の男に犯される経験によって旧来的な家庭から解放される契機を得る。発表者は以上のような主張をふまえて「私」の大谷に対する優位性を説きました。最後に「私」が大谷に対して放った、「人非人でもいいぢやないの」という言葉が明確に大谷を突き放しているという結論でした。
議論の中で大谷に善意があるとして、それが嘘かどうかわからない、またこの手の作品において作家的背景を読解にどの程度組み入れてよいかなどといった疑問が提出されました。岡崎先生は語られない空白の物語を読み解いていくことの重要性を説かれました。その上で実在のフランソワ・ヴィヨンを引き合いに出した発表者の意見を受け、むしろ実在のヴィヨンが罪の自覚をしていたことに注目すべきであり、それを大谷に当てはめるならば、椿屋にいる罪を抱えた他の客とは異なって大谷が自らの罪を自覚している点こそ評価の機縁となっていくと御指摘をいただきました。その他にも戦後という社会的背景に着目した意見もありました。
新会員による研究発表は今回が今年度初でした。新会員の林くんからは、研究史を発展させていくこと・論拠を組み立てること・組み立てた論を伝えることそれぞれが難しいとの感想をいただきました。これからの研究会活動において「困難」はあらゆる地点から湧き出てきますが、それらが幾多の思考と思考の共有の過程で「知の愉悦」に移行していく感触を味わっていただければ幸いです。
次回の7月2日、堀辰雄「燃ゆる頬」研究発表は終了いたしましたので、その次の7月9日(月)、中原中也「盲目の秋」研究発表の告知をさせていただきます。
コメント

平成30年5月14日川端康成「抒情歌」研究発表

2018-05-21 20:51:04 | Weblog
こんばんは。遅くなってしまいましたが、5月14日に行われた川端康成「抒情歌」の研究発表のご報告です。
発表者は2年佐々木くん、古瀬さんです。司会は4年吉野が務めさせていただきました。


「抒情歌」は、昭和7年2月に「中央公論」に掲載され、翌昭和8年6月に新潮社『化粧と口笛』に収録されました。
「私の近作では「抒情歌」を最も愛してゐる」(「文学的自叙伝」/「新潮」昭和9年5月)と発言が残っている通り、川端本人にとっても思い入れの強い作品であったようです。研究史は三島由紀夫の言及に始まり、川端自身の宗教観や人生、また冒頭と結末の相似といった語りの構造に言及されてきました。文体の美しさや様々な資料の引用がちりばめられていることなど、読みどころの多い作品です。

発表者は、作中にたくさん引用されている資料や、龍枝という主人公の一人称が、亡き元恋人に語りかけるという独特な形式などに着目しました。発表では、作中の「超能力」について、本当に龍枝に超能力があったのかということや、登場する資料について龍枝がどう考えているか、また龍枝が元恋人と綾子について語るときの具体的なエピソードの有無などについて言及がありました。


質疑応答では、超能力についての掘り下げなどがなされました。「超能力」は、二人以上人がいるときでないと発動しないという指摘や、それに関連して安藤宏論の紹介などがなされました。ほかにも、龍枝が「あなた」を呪い殺したという既存の読みに対し、その真偽を検討しました。先生からは、事実が超能力の有無ということまで含めて、事実が探り出せないように書かれているというご指摘をいただきました。また、この作品における「美しさ」とは何かという疑問が提示されました。これについては、龍枝が認めたり、肯定的に捉えているものではないかという意見が上がりました。探り出せないように
語りについては、先生から文中の語りの矛盾を追っていくという方法のご指導をいただきました。たとえば、龍枝が「あなた」とやりとりした二通の手紙は、同一化の証拠として挙げられていますが、仔細に検討してみるとそうとも言い切れない、思い込みの面が強いのではないかというご指摘を頂きました。
他にも、「転生」は思い込みでしかないという指摘や、それに対して龍枝はある程度自覚的であるという指摘がなされました。それに対して、先生からは輪廻転生を信じられないということは、宗教など資料が盛り込まれて分かりにくくはなっているが、それだけ龍枝の思いが深みにあるのではないかというご指摘がありました。
タイトルについても、なぜ作中に登場する「抒情詩」ではなく「抒情歌」なのかという疑問が提示されました。発表者は、「詩」の集まりとして「歌」という言葉を用いているという意見でした。他にも死んだ「あなた」に対する語りかけであり、「歌」とタイトルに入っててはいるが単なる鎮魂歌ではないという指摘がありました。この「あなた」は他者としての相対化ができる「あなた」というよりも、龍枝=「私」の中の「あなた」であるという意見も挙がりました。
他にも、「香」というモチーフが作品にどう影響を与えているのか、近代において優位に位置づけられている視覚と、視覚に劣るとされているその他の感覚と比較したり、作中の「愛」についてなど様々な意見があがり、大変有意義な例会となりました。

次回は、菊池寛「藤十郎の恋」研究発表です。
新入生もそろそろ参加する発表作品が決まった時期です。今年度もいい研究会にしていきたいですね。

コメント