近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

平成29年6月26日 大江健三郎「死者の奢り」読書会

2017-06-28 15:43:55 | Weblog
 こんにちは。6月とは思えないような暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
 6月26日の例会は大江健三郎「死者の奢り」の読書会でした。ここに活動内容をご報告いたします。司会は4年・今泉が努めさせていただきました。

 「死者の奢り」は昭和32年に雑誌「文学界」にて発表されました、大江健三郎の短編小説です。本作は大江の文壇デビュー作とされ、また第38回芥川賞の候補作としても注目されました。第38回芥川賞選評の概要も併せてご覧いただければと思います。

 大学生である「僕」は、大学医学部の地下に保管されているアルコール溶液漬けの死体を新しいアルコール溶液に移し替えるというアルバイトを請け負います。長い間アルコールに沈んでいた死者たちは、「硬くて安定した《物》」として「僕」の目に移ります。死体を三十年間にわたって管理してきた管理人や、妊娠したため中絶費用を稼ごうとする女子学生と協力し、夕方までかかって死体を移し替えた「僕」。しかし「僕」たちは、これらの死体が実は焼却場で火葬される手はずになっていたということを聞かされるのでした。
 先行研究では、〈生者と死者との対比〉、〈「粘液質の壁」〉、〈登場人物について〉、〈題名について〉、など様々な点に着目されております。今回の読書会ではそうした先行研究の論点を確認しながら話し合いを始めました。

【語りについて】
 さて、今回の話し合いではまず「僕」の語りについて話題に上りました。本テクストは「僕」の一人称視点で物語が展開していきますが、その中で「語る僕」と「語られる僕」とを想定した読みを展開できるのではないか、という意見です。作中に現れる「死者」の話し声は、趙美京氏「『死者の奢り』における〈僕〉の奢り―死者表象の転換を通して」(『文学研究論集』平成11年3月)に述べられているように「会話を表す括弧なしに叙述されている」ことから「たんなる「僕」の意識にすぎない」とも読めます。それらの「死者」の言葉は僕の考え方を相対化するような内容となっており、そうした〈自意識を死者の言葉として書き起こし、自分自身(=「語られる僕」)と会話させる〉ことのできる「語る僕」が表出しているといえるのではないでしょうか。
 また先生から、語りが「僕は~」という言葉を頻出させていることについて(大江の研究対象であった仏文学からの影響も含まれているかもしれないものの)、そのように「僕」は「僕は~」という表現を多用することで〈ここでの記述は「僕」独自の見方にすぎない〉ことを表現し自己保身のポーズをとっているのであり、それは〈生者〉と会話するたびに生まれる齟齬の「面倒」さを避けるための態度なのではないか、というご指摘をいただきました。その態度も、「語られる僕」の言動を〈生者〉に対して語る際に「面倒」さを生むまいとする「語る僕」の態度である、という読みが可能かと思います。さらに、そうして「語る僕」自身が「語られる僕」の「虚無的」な態度を対象化するように語ることで、「僕」が「僕」の「虚無的」な態度をどこかで裏切ってくれることにも期待していたのではないか、というご意見もいただきました。

【「死者」の性質について】
 「僕」の惹かれた「死者」の性質についても話し合いました。話し合いの中で見出されたのは、〈「僕」は「死者」の「安定した感じ」に惹かれていたというよりも、〈生者〉の「徒労な感じ」を嫌悪していた〉という意見です。すなわち、「僕」が真に欲していたのは〈〈生者〉との関わりが「徒労な感じ」に陥らないこと〉であったのではないでしょうか。
 管理人、女子学生、教授、といった〈生者〉たちとの会話から見出せるように、どのような〈生者〉との関わりの中にも「徒労」「面倒」を感じてしまう「僕」は、「死者」の「安定した感じ」に惹かれました。死体の水槽を初めて目撃した「僕」が「僕もこの水槽に沈むかな」と発言したことからも、「死者」に対する「僕」の憧憬がうかがえます。
 ただし「僕」は実のところ「死者」そのものに憧れていたわけではないでしょう。休憩のため死体処理室から脱した「僕」が外の風から「官能的な快感」を感じ、外界の爽やかさに晴れやかな感動を覚えているという様子から見て、「僕」は決して〈死んで「死者」の仲間入りをしたい〉というわけではないのです。生の喜びを実感した「僕」はその喜びから気分をよくし、「少年」に話しかけてしまったくらいです。しかし「僕」が「少年」と思ったのは実は中年の男性であり、「僕」はまたしても〈生者〉に裏切られることとなったのでした。
 以上の流れから、「僕」は「死者」の「安定した感じ」を、あくまでも〈生者〉との関わり合いの中における「徒労な感じ」と対比したうえで、気に入ったのではないでしょうか。本来は〈生者〉と「安定した」交流が行えればよいのですが、「僕」が〈生者〉との関わりから「徒労」しか見出せない以上、「死者」の「安定した感じ」に惹かれるしかない、ということです。
 しかしテクスト後半において「死者」が火葬されるべきものであったということを知ったのち、「僕」は死体を「醜くよそよそし」いものとして捉えます。「安定した感じ」を持っていると信じた「死者」でさえ人間社会の都合によって「火葬」へと追いやられてしまうことを目にした「僕」は、もう「死者」に惹かれなくなってしまったのです。「死者」も〈生者〉も結局のところは〈不安定〉でしかない、という気づきが生まれたといえます。

【最終場面とその後について】
 とはいえ、「僕」が失望したまま生きていくことになったとは限らない、というご意見を先生からいただきました。そしてその観点から最終場面を確認しました。
 最後の場面で「僕」は「喉へこみあげて来る、膨れきった厚ぼったい感情は、のみこむたびに執拗に押しもどして来る」と語っており、確かに「僕」が〈「徒労」を感じながらも生きていくよりほかになく、「困難」「億劫」を引き受けていくしかない〉と諦めていったかのように読めます。しかし、「僕」は「報酬をはらわせるため」に〈生者〉と関わる意思を見せているのです。「報酬」つまり金銭は、「死者」ではなく〈生者〉に属するものであるといえます。「僕」は〈「死者」も〈生者〉も同様に「徒労」や「不安定」といった要素を抱える存在である〉と気づいたうえで、〈生者〉に属しつづけることを選びました。そこにはもちろん諦めの感情もあったことでしょう。しかし、「僕」は「子供の時の他は希望を持って生きた事がない」、つまり〈子供の時には希望を持っていた〉人間です。また、「希望がない」理由を管理人に追及された際、その「面倒」に内心ため息を漏らしながら、「自分がひどく曖昧で、まず自分を説得しなければならない厄介な仕事が置きっぱなしになっていることに気づ」く、と語っています。つまり、「僕」は自分が「希望を持っていない」理由を自分自身にも「説得」できていない人間なのです。【語りについて】の項目でも触れたように、「語る僕」は「徒労」を嘆く「語られる僕」を対象化して語りながら、「虚無的」な自分自身を乗り越えることを、自分自身に「説得」がなされることを、どこかで期待しているとも取れます。以上を踏まえると、「僕」は全くの絶望とともに苦しい生へと落ち込んでいくのではなく、時に「徒労」を味わいながらも、それでもどこかに「希望」を探して〈生者〉の世界を生きていくのである、……と捉えられるのではないでしょうか。

【まとめ】
 たいへん長い記事となってしまいましたが、読書会のご報告をさせていただきました。「死者の奢り」は何といっても死体の描写の不気味さに目を奪われる作品ですが、丁寧に見ていくと解釈の余地がそこかしこに見つかり、非常に研究しがいのあるテクストであると感じます。
 個人的な話ですが、「死者の奢り」は私が一年次に近代日本文学研究会へ入会した際、初めて研究発表を担当した作品でした(当時の記事:「大江健三郎「死者の奢り」研究発表」(平成26年7月10日))。当時の私は論文の収集すらままならず、本文検討に関しても〈メタファーの解読〉のようなことにこだわりがちで、先輩方には様々なご迷惑をおかけしました。あれから3年間ほど経ちましたが、今の私はかつての私を越えることができたでしょうか。
 幹事を引き継ぎ四年次を迎えた今でも、こうして活動に関わることができて私は大変嬉しく思います。私の大学生活のほとんどを占めた研究会活動に、卒業までの時間を使ってささやかながら恩返しをさせていただきたいところです。

 次回は7月3日、石川淳「佳人」研究発表会です。虚構の世界でなら線路の上を歩くことも許されますね。

平成29年6月19日 堀辰雄「聖家族」研究発表

2017-06-22 10:31:29 | Weblog
こんにちは。
6月19日に行われました、堀辰雄「聖家族」研究発表についてご報告致します。
発表者は二年望月くん、一年永坂さん、一年小奈さんです。司会は三年長谷川が務めさせていただきました。

「聖家族」は、堀辰雄の初期作品におけるひとつの完成品と見做されている作品です。研究初期は死・生・愛といったテーマやフランス新心理主義からの影響、モデル問題などを作家論的に論じたものが多く見られます。
文体や語りについての考察も繰り返されており、読みどころの多い作品と言えます。

今回の発表は、副題を「生と愛のアラベスク」とし、研究初期から着目されてきた死・生・愛が描く複雑な構図を今一度精査しようという試みでした。
発表者は「生の乱雑さ」に埋もれた薔薇の描写から生と愛の結び付きを見出しました。死によって生が開くという逆説、生と愛の結び付きが、美しくも複雑な幾何学的模様を描く様を高く評価しました。
また、「定点的な語り手が駒を進めるように語って」おりながらも、「自分」という呼称によって作中人物に焦点化する語りも多く見られることを指摘しました。そして、語りの視線は主に心理に向けられており、テクストに独特な神秘性を与えていると論じました。
また、扁理の夢と、最後の「聖家族」画が完成に向かうシーンとの結び付きはあくまでテクスト上の出来事であり、物語内では夫人も絹子も扁理が見た夢のことは知らないという点を指摘しました。「聖家族」を「聖家族」たらしめているのは語り手であると考えられます。

質疑応答では、心理を図式的に描き切ってしまうことは、果たして心理を正確に捉えているといえるのか。図式に収まり切らない心理を見逃してしまうのではないか。という意見が出ました。これには先生から、堀辰雄本人がそのことを反省し、次作では別の方法を用いようと試みたことを補足していただきました。
先生からは、生と死、そして愛の心理を読み解いていく上で、無意識への着目を忘れてはならないとのご指摘をいただきました。本作は当時、作中人物自身にも気付き得ない無意識の剔抉を試みた点で新しく、しかしそれを明確に描き切ってしまった点で限界があったとされています。
また、扁理が絹子への愛を自覚するシーンでの「……だが、もうどうでもいいんだ……」という科白や、二人が互いへの愛情を自覚した後に二人の邂逅が描かれない点から、二人の愛は挫折したのではないかという意見が出ました。これには発表者から、扁理はここで「生の乱雑さ」を自覚したことで、テクスト上に書かれた物語の先で、埋もれた愛の成立に向かうことが示唆されているのではないかという意見が出ました。
また、斯波や踊り子といった九鬼の死に囚われていない脇役にはどのような役割があったのかという質問が出ました。これには発表者から斯波や踊り子はいずれも物語の重要な転換点を担っているとの説明があり、本作を読み解く上で二人の考察も重要になってくることがわかりました。
最後のシーンについては、ここで出てくる画は夫人と絹子の聖母子像だが、作品のタイトルが「聖家族」であるのはどうしてなのかという質問が出ました。これには発表者から、作品を通して複雑に絡み合う九鬼・扁理・夫人・絹子の関係性は確かに聖家族画であり、物語を通じてテクスト上に聖家族画が浮かび上がるようになっているとの意見が出ました。
最後に先生から総括をいただき、例会は終了しました。

今回の例会は、時間が超過するほどの白熱した会になりました。
次回は大江健三郎「死者の奢り」読書会です。

平成29年6月12日 坂口安吾「木枯の酒倉から」研究発表

2017-06-13 23:28:02 | Weblog

 こんにちは。
 6月12日の例会の様子をご報告いたします。
 先日の例会では坂口安吾「木枯の酒倉から」の研究発表を行いました。
 発表は3年の吉野さん、1年の岡部さん、中島くんが担当し、司会は4年の山内が務めさせて頂きました。

 発表者は副題を「矛盾を許容する『聞き手』」と設定し、作品の構成や「僕」と狂人と行者の関係性に着目した分析を行いました。
 「木枯の酒倉から」は「発端」「蒼白なる狂人の独白」「附記」の順で構成されていますが、出来事の発生した順序としては「蒼白なる狂人の独白」→「発端」→「附記」であると発表者は推定しました。ゆえに「発端」と「蒼白なる狂人の独白」の表現は似通っているのであり、「僕」は狂人の影響を受けていると言えるのではないかということが考えられると検討しています。
 また狂人が「僕」を「詩人」と称したことに注目し、「僕」は狂人だけではなく行者にも通じる部分があるという可能性も見出しました。
 さらに狂人と行者の対立については、彼らは飲酒については正反対の意見を持っているものの、共通の見解を持っている部分もあり、論を戦わせながらも完全な敵対関係が成立しているわけではないと分析しました。
 
 そして狂人が禁酒を失敗したことについては、以下のようにまとめています。
 作中で狂人は禁酒を決意するもののその試みは失敗に終わり、「附記」を読むと禁酒の非達成は永遠に続くと考えられます。しかし発表者は、狂人が理性の痺れている飲酒中に「煩悶と化す」ことができたという記述があることから、この「聖なる禁酒の物語」は狂人にとって特別な意味を持っているという見解を提示しました。ここから、狂人と行者の対決は一見すると狂人の敗北に終わるけれども、完全な敗北ではないということを発表者は主張します。
 また、この部分では「僕」の存在が重要視されていました。「僕」は先述したように狂人と行者の中間に位置する存在です。この「僕」が登場することで狂人は「僕」に「聖なる決心」を話し、話すことで「聖なる禁酒の物語」もまた永遠のものになり、その内容に矛盾などが見られるとしても、狂人の語った内容を「木枯の酒倉から」というテクストにすることで聞き手は「僕」だけでなく作品の読者にまで拡大し、「聖なる決心」は強度を増してくというのが発表者の結論です。

 質疑応答では、発表者が狂人の「想像力」と行者の「幻術」を、前者が「あくまでも自身の認識のみを変容させる」もの、後者が「現実を詩そのものにする(=第三者にも自分の想像したものを見せる)」ものと区別していたのに対して、本文中に狂人の「見給へ」という(「僕」に空想の風景を見せようとする)言葉があることから、この二つに大きな違いがあるのかという疑問があがりました。
 他の会員からも「想像力」と「幻術」が綺麗に切り離せるのかについては意見がありましたが、岡崎先生からは「違いにこだわり続けること」に着目することの重要性についてお話を頂きました。

 そして発表者は作品の結末を「狂人の一方的な敗北ではない」としていましたが、これについては岡崎先生から飲酒をした後に煩悶をするのは行者の術中にはまったことにはならないのか、酔っ払った狂人の言う「煩悶の塊」に論理的な信用性はあるのかということについてご指摘がありました。さらにこの作品は勝利を見出すよりも狂人が失敗を続けていることを読むべきであり、そのように読むことの意義についてもご指導を頂き、会員一同で作品の読み方を学びました。

 他にも「酔う」ということの多様性や「灰色」の意味、「発端」の必要性を問うご意見などを会員の方からは頂きました。
 今回もたくさんの論点があがり、それぞれの論点について会員同士で意見を交わし、岡崎先生から作品構成の明晰さについてもお話を頂いたことで、作品への理解を深めることができたと思います。
 

 ご報告は以上です。
 来週は堀辰雄「聖家族」の研究発表を行います。


平成29年6月5日 三島由紀夫「花ざかりの森」研究発表

2017-06-10 21:58:58 | Weblog
 こんにちは。
 約一週間を経ての更新となってしまい、申し訳ございません。6月5日に行われました、三島由紀夫「花ざかりの森」の研究発表についてご報告させていただきます。発表者は三年長谷川さん、三年鷹嘴さん、一年須藤さんです。司会は二年野口が務めさせていただきました。
 
 「花ざかりの森」は、当時十六歳の三島由紀夫が雑誌「文藝文化」に連載した作品で、エピグラフからはじまり「序の巻」「その一」「その二」「その三(上)」「その三(下)」の五つの章から成り立っています。先行研究では、学習院時代の恩師清水文雄や「文藝文化」との関連を作家論的に論じたものや、詩的・抒情的な文体、ロマン主義的な夢想の内実について論じたものがみられました。また、作者の出発点の作品として、作品構成や海のモチーフなどのちの作品と通ずる点が指摘されています。他作品との関連を論じたものでは、遺作「豊饒の海」との比較検討が多くなされていました。
 今回の発表では、「物語をまとう語り手」という副題を掲げ、語り手がどのような手法で「花ざかりの森」を束ねていくかについて考察がなされました。
 発表要旨としては、まず「その二」「その三(上)」「その三(下)」で語られる別々の物語が語り手の操作によって統御されていることが主張されました。〈祖先〉、〈追憶〉、〈憧れ〉、〈海〉などといった言葉は物語を繋ぎとめる頸木として付与され、〈追憶〉がなく他と性質の異なる「その三(上)」では語り手が「ささやかな解釈」を付け加えることで物語を束ねていることが指摘されました。また、物語を統一するための手法として〈追憶〉が用いられていることが指摘されました。〈追憶〉とは、過去や他人の経験した出来事など距離のある対象を自分なりに捉えなおすことで本質を得ることができる、というものであり、この〈追憶〉こそ語り手が語ろうとしたことの要であると考えられます。語り手は別々の物語を捉えなおし、繋ぎあわせることで、物語に自分なりの意味を付与するとともに物語を自分のものにしていきました。読者もそれぞれの物語を自分なりに捉えなおす、つまり〈追憶〉することで物語を自分の中に取り込み、またそうした読書行為を読者自身が理解し個々の中に返していくことで、物語の一部になっていくのではないか、と主張されました。

 質疑応答では、語り手は「その二」「その三(上)」「その三(下)」において日記や物語や写真といった現実にある事物を媒体として〈追憶〉しているにもかかわらず、その中に多分に語り手の解釈が入っていることについて複数の指摘がありました。カッコ内の文章が直接引用か間接引用か、といった点に関しては発表者の中でも意見が割れていました。それに対して、本作には外部(=他者)がないという批判が後年の三島自身によってされていたことを先生よりお話しいただきました。加えて、「花ざかりの森」は他者を作品世界に導くことを考えなかった語り手の恣意性・歪みに貫かれた、この気難しい美意識によってかろうじて支えられている作品であるとのご指摘をいただきました。
また、最初から最後まで語り手の思いしか書かれていない作品でありながら、「わたしたち」「われわれ」といった言葉が多く出てくることについて考察されました。この点に対しては先生より、先のような気難しい美意識を多くの人に共有してほしいという切実な願いによるものではないかというご指摘をいただきました。

 以上、まとまりのないものとなってしまいましたが、ご報告させていただきました。今回は、今年度より入会した会員が発表者として参加する初めての会となりました。発表中の様子より、準備の段階から発表に至るまで積極的に臨んでくださったことがうかがえ、見習うべき点が多々ありました。
 次回は、坂口安吾「木枯の酒倉から」の研究発表です。

平成29年5月29日 吉行淳之介「驟雨」読書会

2017-06-02 02:17:17 | Weblog
 こんにちは。
 5月29日の例会は吉行淳之介「驟雨」の読書会を行いましたので、ここに会の様子をご報告させていただきます。
 司会は4年小玉が務めました。
 
 僭越ながら、簡単に作品の紹介をさせていただきます。
 大学を出て社会人三年目の主人公山村英夫は「遊戯の段階からはみ出しそうな女性関係には巻き込まれまい」と考えている人物でした。娼婦との交渉は「遊戯」の段階にとどまると考えていましたが、ある日道子という娼婦に出逢います。道子は理智的な相貌と魅惑的な?を持った女性です。山村はそんな道子に思わず惹かれてしまいます。しかし、道子は職業柄ほかの男と交渉を持っています。山村は「娼婦の町の女に対して、この種の嫉妬を起こすほど馬鹿気たことはない」と頭では考えながらも、その心内ははっきりと道子への傾斜を示してしまい、それをどうしようもなく否定できなくなってゆくところで物語は終わります。
 「驟雨」は昭和29年に書かれました。また第31回芥川賞作品であることから、吉行の実質的なデビュー作として名高い作品です。しかし、芥川賞選評を概観する限りその評価は高いとは言い難いものでした。
 先行研究では、主人公山村英夫の「心理小説」という定説が出来上がっているようです。山村がいかにして道子に惹かれて行ったのか、その心理の分析が主流となっています。近年の研究もこの枠組みを大きく越える論文は提出されていないようです。

 さて、例会では、山村の心情を語る語りの問題について話し合いになりました。会員からは、山村が運勢占いを買った場面で「その女の心を慮って彼は道子にいい星を願ったのだろうか」と唯一推量を用いている箇所がある。これにはどのような意味があるのか。という疑問が提出されました。これに対し、三人称の語り手は山村の心情を精緻に、時には本人すら自覚していない深層心理を語っている。道子や、他の登場人物の心情を断定して語ることはないため、実質的な一人称小説ともとれるが、山村の気づかない心理をも読者に提示することが出来る語り手である。という分析のもと、それだけ山村の心情の切実さを伝えて来るのではないかという意見が出されました。
 語りについて意見が出されると、人物の呼称についての問題も議題にあがりました。「女」や「娼婦」としか表記されなかったのが道子と表記されるに至ったのは山村の心情が反映されているのだろうという意見です。これに関連して、小説に名前を持って登場する三人のうち男性は姓と名の両方が記されているのにも関わらず、道子は常に名だけで登場していることについての指摘がなされました。戦後の男性社会という情景をこの作品に見出すのに十分な指摘で、表社会に出て人並みに働く男性のイメージと、そこから取りこぼされていく女性のイメージを見ることが出来るという意見が出されました。先生からは、徹底的に俗物として書かれる古田五郎は、しかし「驟雨」世界では、結婚をし、家庭を持つ一般的な男性として表象されている。一方の山村は「明るい光を怖れるような恋」をしていたように一般的な規範からは外れながらも、道子への純愛的な姿勢が、古田への、ひいては世間や制度といったものへの批判となって表れているとのご指摘がなされました。
 この他にも、木の葉が一斉に落ちる「緑の驟雨」の場面は山村の心を覆っていた理性が剥がれ落ち、道子への恋を明確に志向するようになったという意見。小説内の色彩感覚が美しく心を打ったという感想など、さまざまに意見交流がなされました。

 新入生の歓迎会も終わり、新入生が正式に入会を決めてはじめての例会でした。会員のモチベーションも高く、非常に良い雰囲気の読書会だったのではないかと思います。
 次回は、三島由紀夫「花ざかりの森」研究発表です。