近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

中島敦「山月記」読書会

2013-05-06 00:30:24 | Weblog
こんばんは。更新が遅くなってしまい大変申し訳ありません。

4月30日は、中島敦「山月記」の読書会を行いました。司会は今井が務めました。
今回扱った「山月記」は高校の授業で扱ったことのある方も多かったようです。

それでは、主な議論点や提示された解釈を振り返ります。
議論の中心になった語られ方に関しては、まず虎となった後の李徴がほとんど「声」「李徴の声」と称されることや、ただ一度だけ「詩人」と称されることの効果についての疑問、語り手は袁サン(サンの漢字が環境依存文字で表示できませんでした。以下この表記で進ませていただきます。)に寄り添って語っているのではないかという解釈が提示されました。それに対して、李徴の故人(とも)である袁サンの視点に包まれるようにして語られることで、李徴へのカタルシスの意味合いがあるのではないかという意見が出ました。続けて、李徴は「誰かに此の苦しみが分って貰へないかと」訴えているにも関わらず故人(とも)である袁サンに共感や理解を求めないことはどう読めるのかという疑問が挙がり、袁サンは李徴の声を虎の大声としてではなく「慟哭の聲」と聞き取っている、との応答がなされました。共感や理解を言葉で示されるよりも、「涙を泛べ、欣んで李徴の意に副ひ度い旨を答え」るというように、自然な形で態度に表われる方が李徴としてはよかったのかもしれません。
「詩人」と称される点については、その人称が表われる少し前の「曾ての李徴が生きてゐるしるし」として詠まれた詩が、「人々」に李徴を「詩人」と感じさせるにふさわしい詩だったからではないか、という意見に落ち着きました。

他にも、李徴が虎になった理由としては、虎になることを望んだわけではないだろうが膠着状態からの脱出を願ったからではないか、人間の心の限界が来たからではないかという意見が出ました。

岡崎先生からは、作品で語られていない以上は李徴が虎となった理由は断定できないが、袁サンとの会話の中で李徴の内面が新たに編まれていくことや、それによって探り寄せられた李徴自身の虎となった理由の認識に注目するべき。李徴のその認識は、冒頭の語りによって相対化できる。李徴は詩業や妻子への愛が原因だと考えているがそうとはいえない。そして、李徴の詩に足りないものがあるというのはあくまで袁サンの感想であるから注意が必要で、そこに李徴自身の虎となった理由の認識を代入する必要はない、などのご意見をいただきました。


次回の活動は5月13日の太宰治「桜桃」の研究発表です。
では、失礼します。

3年 今井