近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

広津和郎「散文芸術の位置」発表

2009-10-26 23:21:14 | Weblog
 こんばんは。今回の発表はいつもの短編小説ではなく、広津和郎の「散文芸術の位置」という評論を扱かったということで少し違った雰囲気で進行しましたが、発表者の方おつかれさまでした。
 
 今回の発表では「散文芸術の位置」が1つの論点になりました。発表者は同じ芸術でも音楽、美術、詩とは違い散文芸術は常に「人生の隣り」にあるという作者の意志を指摘し、作者は関東大震災後の当時の散文芸術を再定義していること等を述べました。

 評論ということもあって、また人数がいつもより少ないということもあって意見を出すとき一問一答で終わってしまう場合がいつもより多かった気がします。

 自分が発表担当でなくとも、渡されたテキストを読むだけではなくまた発表者のレジュメに媚びるだけではなく、自らが自発的に資料等を調べてきた方がより議論が活発化すると思いました。次回からやっていきたいです。

風邪がはやっているので皆様健康管理には気をつけてください。

イシイ男

武田麟太郎「反逆の呂律」発表

2009-10-21 01:59:15 | Weblog
こんばんは、西山です。
今回は武田麟太郎の「反逆の呂律」の発表を行いました。発表者の方ありがとうございました。
今年は「新感覚派とその周辺」というテーマで1年間研究しています。今までは新感覚派の作品を中心に論じてまいりましたが、今回の作品は「周辺」に当るプロレタリア文学と位置づけられています。
先行論ではこの作品は、〈「プロレタリア文学」の「事実」を志向する形式が虚構でしかないことを暴く〉ものだとされていますが、発表者の方は〈ウメ子〉の聞き書きが作品に与える影響を再検討し、武田麟太郎の方法意識を探るにあたり、先行論の意見に検討の必要性があるとおっしゃっています。
そして、〈自然発生的〉な労働運動家である〈仙吉〉を、思想体系に基づいた運動家である〈ウメ子〉に語らせる形式をとりながらも、〈ウメ子〉と作者の距離を近しくすることによって、作者の姿勢を表現しています。このことから、この作品は思想を表現するためのプロレタリア小説と考えることができ、必ずしもプロレタリア文学への反逆の志向によって作られているわけではないとされました。そしてこの作品の技巧性が、武田の後の市井ものと呼ばれるような「日本三文オペラ」などに発展していく可能性を持つとされました。

質問としては、この作品におけるプロレタリアの意味や、〈虫〉が表すものにラブロマンスがオーバーラップされるのではという意見や、〈ウメ子〉が語る物語のリアリティの信用性などがでました。
また、聞き手側も発表にかんすることはもちろん、文芸批評用語も日々の学びの中で理解しなければならないと痛感しました。

来週は広津和郎の「散文芸術の位置」の発表です。発表者の方よろしくお願いいたします。
風邪が流行っているようですので、皆様体にはくれぐれもお気をつけ下さい。

学部生へのお知らせ(10月14日訂正)

2009-10-09 02:41:52 | Weblog
10月26日の広津和郎「散文芸術の位置」の発表に関して、新感覚派成立の経緯をさぐるためのものとなります。そのため、その当時の時代背景をみなさんにご理解してもらったうえで、例会にのぞんでいただきたく存じます。そうでなければ、その当時の風潮をアバウトに確認しておわり、という発表になってしまい、例会での発表そのものの意味がなくなってしまうので、各自その当時の主要論文をチェックし、どのような経緯でこの「散文芸術の位置」が生まれたのか、考えておいてください。

特に菊池寛の「文芸作品の内容的価値」と、里見の「菊池寛氏の『文芸作品の内容的価値』を駁す」が、広津の評論の形成に与えた影響が大きいので、お読みになってください。それと、有島武郎の「宣言一つ」も。これは、広津が有島への反論を通じ、その結果を踏まえて、あらためて「散文芸術の位置」で自己の立場を提唱したものとして参考になるかと思います。


とりあえず広津の評論に加え、この3つの評論をお読みになっていただけると、広津の評論の時代性を読み解きやすいのではないかと思います。
以上、モロクマでした。

卒論発表

2009-10-06 12:44:05 | Weblog
後期二回目の例会は、三年生の先輩方三人の卒論発表でした。
論題は以下の通りです。
室生犀星「蜜のあはれ」論―越境する囈言―(米山さん)
原民喜「行列」―生きている死者―(西山さん)
樋口一葉「にごりえ」―お力とその周辺の諸問題―(山元さん)

*室生犀星「蜜のあはれ」論―越境する囈言―(米山さん)
一章から四章までの物語が、すべて会話文で綴られているだけでなく、
その後「後記」という形で、前半の物語の書き手である語り手「私」が、
会話文の物語に言及する形で現れるという、難解な構造を持った作品です。
米山さんの論は、会話文における二人の登場人物の相互関係と、
「後記」は会話部を意味づけるフレームとしての機能に焦点を当てたものでした。
その後の質疑応答で印象的だったものは、前後半における語り手の関係についてでした。前半と後半の関係性においても重要な部分だと思います。

原民喜「行列」―生きている死者―(西山さん)
「行列」は、短編集『死と夢』に収められている作品です。
すでに死んでいる登場人物「文彦」に焦点化される語りが展開される作品で、
風変わりな作品であると思います。
西山さんの論は、作品の分析に重きをおきながらも、結論としては原民喜という
作家特有の性質などを掬い上げようとしているものでした。
質疑で気になった点は、生と死の描かれ方についてでした。
生きているときには「幽霊のやう」と言われ、死んだ後には生きているように描かれるという「文彦」からは、どのような意味が読み取れるのか。気になります。

*樋口一葉「にごりえ」―お力とその周辺の諸問題―(山元さん)
「にごりえ」は、お力の情死までを描いた作品です。
山元さんの論は、明治期の社会情勢などの同時代資料からから作品を読み解き、
結論としてもう一度社会の側に返していく発表でした。
質疑では、発表の独自性についてなどが挙げられ、やはり有名で多くの論文がある
作品は自論の展開の仕方が難しいのだなと思いました。

発表全体を通して
卒論の発表ということで、来年卒論を書くであろう人たちも勉強になるものでした。卒論の発表ということでしたが、どの発表も作品の論じ方を中心に質問が出ていたので、論文を書く場合に留まらず、近研の例会での発表、または演習やプレゼンにも活かせそうだな、と思いながら聞いていました。今後、近研で何度か発表をするので、それに活かしていきます。
以上、川邉でした。風邪が蔓延しているようですので、皆さま体調にはお気をつけ下さい。