近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

太宰治「魚服記」研究発表

2014-12-16 19:00:52 | Weblog
こんばんは。
先日12月15日(月)に行われた太宰治「魚服記」研究発表についてご報告させていただきます。
発表者は3年田中さん、1年村岡くんです。司会は1年山内が務めさせていただきました。

今回の研究発表は副題が「二重の逃避」ということで、「スワと父親の閉塞した世界」と「語り」からの逃避について言及するものでした。
「閉塞した世界からの逃避」とは、自我の目覚めたスワが父親から近親相姦を受けたことによって滝へ飛び込み、父親との閉塞した世界と決別するというものです。スワが「色の白い都の学生」が滝で亡くなったのを目撃し、それまで絶対的存在であった父親を相対化したことで、この逃避への意識が芽生えたのではないかとのことでした。そして「語りからの逃避」とは、スワの自我が目覚めたことによって、スワに寄り添っていた語り手がスワの心理の部分を語ることができなくなった点に着目したものです。
滝への投身と、先行論で「第二の自殺」とも表現された滝壺への投身は、それらの二重の逃避を生じさせているのではないかという結論でした。

質疑応答では、最初の方に「近親相姦を行ったのが本当に父親なのか」という意見が出ました。
その点については「『あの』くさい呼吸を聞いた」と指示語が使われていること(この場面に至るまでに、既に父親に対して「酒くさいいき」という表現が使われていました)、スワが「おど!」と叫んで滝に飛び込んだことを踏まえるとスワを犯したのは父親である可能性の方が高く、岡崎先生からも、近親相姦の相手を父親以外と想定することも可能だが、「あのくさい呼吸」は、父親のものと読むのが自然であるとのご意見をいただきました。
他には、レジュメで検討された「共依存関係」について、「父親はスワを女として意識せず、むしろスワが父親を男として意識していたのではないか」という意見が挙がり、それに同意される方も数人ほどいました。ここに関しては例会が進行していく中で岡崎先生からのご意見もあり、「共依存関係と断定はできない」という方向に落ち着きました。
さらに二度の投身について、「最初の投身は死を求めていたわけではなく、二度目の投身が最初の自殺だったのではないのか」という意見をはじめとして、いくつか解釈が挙がりましたが、スワの心理が語られない以上はこれらは推測の域を出ることができないとのご指摘がありました。

岡崎先生からは、鮒へと転身を遂げたスワの「うれしいな、もう小屋へ帰れないのだ」という奇妙な言い回しに、滝へ投身した後も未だに父親を断ち切れずにいるスワが表されている点や、大蛇に変身したと思い込んでいるスワが、実際には小さな鮒になって鼻先の疣をうごめかしているだけだったという様子を「……であったのに」という個人的感情の窺える表現で語り、語り手が客観的に分析することのできなくなっている点についてご指摘をいただきました。
また、スワの内面が語られないことで、読者に多様な推測の余地を与えていることを理解し、魚服記の構造を捉えていくことが大切なのではないかというお話をいただきました。


今回は今年最後の例会でした。
次回は来年1月19日(月)、岡本かの子「金魚繚乱」夏目漱石「文鳥」川端康成「禽獣」卒論最終報告会です。


横光利一「機械」研究発表会

2014-12-15 17:28:11 | Weblog
 12月8日の「機械」の研究発表会についてご報告します。
 発表者は3年藤田さん、1年小玉さん、司会は渡部が務めさせていただきました。

 発表の内容としましては、まずはじめに横光が用いた「私」を語る「私」としての四人称という形式に焦点を当て、四人称によって語られる「私」の物語がどのような影響を受けたか、という点について考察していくとしました。結論としては、機械そのものである製作所の中で展開されるこの物語は、本来語り手存在しなくても進行するが、ここに四人称者である私の自意識を介在させることでテクストとして成立しており、その語り手が徹底した心理描写を行うことにより人間の自意識の存在を提示する試みである。また、最終的には語る「私」にも語りえない語られる「私」を発見し、自意識が崩壊してしまうことで心理描写のみで語ることの限界を表しているのではないか、とのことでした。

 質疑応答では、四人称を用いた「機械」と一人称過去を用いた他の小説にはどういった差異があるのか、語り手が物語に干渉できないのは他の小説にも言えることではないか、という質問や、実際には私の自意識は崩壊しておらず、むしろ最後の場面で今までは思い込みによって隠されていた自意識の発見を成し遂げているのではないか、という指摘がありました。

 岡崎先生からはこの物語上では語る「私」が語られる「私」の心理について探求、考察しており、それには語られる「私」から離れた語り手、つまり四人称の語り手が必要とされたのではないか、また、最終的には語られる「私」が語る「私」を照射しており、語る「私」も物語から無縁ではいられなくなる、という語る「私」の限界を表しているのではないか、「私」たちを動かしている機械そのものも神の視点を持って客観的に動いているわけではなく、単なるシステムに過ぎず、それは機械主義の限界を表しているのではないか、等のご意見をいただきました。

次回12月15日は太宰治「魚服記」の研究発表会です。

更新が遅くなってしまい、大変失礼致しました。
1年渡部

川端康成「水月」研究発表

2014-12-06 10:10:58 | Weblog
 おはようございます。
 12月1日(月)に行われた川端康成「水月」の研究発表についてご報告させていただきます。
 発表者は2年石川さん、1年山内さんで、司会はわたくし2年清水が務めさせていただきました。

 まずはじめに、「京子のまなざしと語り」という副題のもと行われた今回の発表の内容をおおまかに述べさていただきます。
 今回の発表では、先行研究で近年問題とされてきた京子と夫との関係に触れつつ、まだ研究の進んでいない語りや構成の面からアプローチがなされていました。まとめとしては、語りは終始京子に寄り添いつつもあくまで三人称形式のそれであり、これは京子の一人称形式では語り得ない京子の思い込みや夫とのズレを描くためであると考えられるということや、「水月」内の初婚時の夫婦生活はすべて京子の回想により描かれており、客観性はない、よって京子は終始前の夫との実生活=空に見える月ではなく、自己の内部で再構成した記憶=水に映る月を追い求めていたのではないかということ、京子は最終的に美化した過去にすがるのではなく、現実世界を見据える眼を獲得し、時間の不可逆性を受け入れ、記憶を糧に現実を生きる決意をするに至るのではないかということが述べられていました。
 次に、質疑応答の中で挙がった主な論点についてまとめさせていただきます。
 作品の最終場面で、京子に寄り添う語りでありながら今の夫の「腹のなかの子供を信じなさい」という言葉に対して京子の反応や心情が語られることがないのはなぜかということ(→高原を訪れたことと「子供があなたに似てゐたらどうしませう」という発言により、直接的ではないにしろレスポンスがなされているのではないか等の発表者の意見)や、京子と今の夫とのズレ(→京子の思い込みでしかないと考えられる部分が多々ある等の発表者の指摘)等が主な論点となっていました。
 最後に、岡崎先生からは、注目された今の夫の「腹のなかの子供を信じなさい」という発言は果たして特権化して考えてもよいのか、三人称小説でありながら京子に寄り添った語りによって描かれた今の夫とのズレはどの部分から感じられ、それによってどうなるのか、そして最終的に三人称小説であることの意味をどう掬い取っていくのか、等のご指摘をいただきました。

 次回は、横光利一「機械」の研究発表を行います。
 それでは、失礼いたします。

 2年清水