近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

平成30年度 卒業論文最終報告会

2018-02-13 15:15:57 | Weblog
こんにちは、3年吉野です。
投稿が遅くなってしまいましたが、1月28日に卒論最終発表を行いました。
発表者は眞鍋さん、小玉さん、武田さん、山内さん、今泉さんです。

眞鍋さんの研究作品は泉鏡花「化鳥」です。副題は「語りの動きを追う」です。
発表では、まずその特徴的な「語り」に触れられました。「化鳥」は形式的には過去回想形式でありながら、<語る現在>と<物語現在>の意識の境界が曖昧で、融合しているような語り方で、更に物語の内容は連想・回想によって自由に展開され、整序されていません。また、言動の矛盾も多く見られます。発表者は「私」の意識上の「母」と読者から見た「母」のイメージの間に落差があることを指摘し、物語の二重性を浮かび上がらせました
また、必ずしも語られる必然性のない<化鳥体験>に注目し、<語り>を時系列順に並べなおしていくと、「私」固有の体験が母とは違う「私」独自の世界観形成のターニングポイントになっていると解釈しました。そして繰り返す回想によって、新たな気づきを得ている回想の可能性についても指摘しました。
質疑応答では、各出来事ごとの時間の隔たりのレベルが語りにどう影響しているか、という指摘がありました。岡崎先生からは、<化鳥体験>の描き方が単なる母乞いものに終わらないこと、近代批判的な廉の視点と人間のおぞましさを身を持って体験している母の視点の違い、近代小説の限界を突破して、むしろ能などの文脈で個の内実の不可解さを描いている作品であるなどのご指摘を頂きました。


小玉さんは、中間報告となります。作品は井伏鱒二「朽助のゐる谷間」です。
本作品は、改稿前/後で大きく内容が異なる箇所があり、そのふたつのテクストをどちらも取り扱う生成論的な視点で研究していくという指針が発表されました。


武田さんの研究テーマは特に近世の「大山(伊勢原市)信仰」でした。
大山・大山信仰は山岳信仰ですが、近世の山岳信仰の形態はおもに①江戸幕府の庇護を受けた山岳 ②民衆の信仰に依存した山岳に分かれるそうです。大山信仰はその中でも①の形態から②の形態に発展し、大衆化していった関東の山では珍しいケースです。
山神・水神信仰があり農耕守護神的性格があり、また祭神が鳥之石楠船神がいることなどから、漁業・航海の守護神としても信仰されてきたそうです。そのうちに、本来の大山信仰とは無縁の現世利益神的な性格が発生し、「大山詣で」が流行したそうです。
当時の大山参詣は、伊勢に行くことは難しい庶民たちにとって一種の娯楽と同等の役割を果たしていたとも考えられる、とまとめられました。
質疑応答では、民俗学的に研究したいのか、神道的に研究したいのかというご質問がありました。また、元々は山岳信仰だったことから、現代の修験者についてもお聞きしました。

山内さんの研究作品は菊池寛「恩讐の彼方に」です。副題は「意味と交換」です。
物語の始まりでは市九郎が「主殺しの大罪を犯した者」、実之助には「仇討ちをする者」という意味が与えられます。しかし物語が続くにつれ、市九郎は「極重悪人」となり、それを自身が自覚し、出家することで「了海」となります。過去を反省し、衆人救済を目指して岩を掘り続ける「了海」という意味を実之助が受け取ったことにより実之助の仇討ちは失敗します。しかし実之助が現れたことで了海の目的もまた、「洞門を完成させ、実之助の願いを遂げさせること」に変容しているため、仇討ちの失敗は同時に了海の「志の非達成」でもあると指摘しました。また、実之助に仇討ちを待ってもらっているという「恩」と、それに報いるための「仇討ち(讐)の達成」が行われないこと、つまり「志の非達成」の交換が行われることにより、<恩讐という文脈から逸脱した場>=「彼方」が成立可能になるという発表でした。
質疑応答では、その他の登場人物、特におよねはどのような意味を持っているのかという質問が出ました。先生からは、実之助の意味もまた変容しているというご指摘などを頂きました。
また、卒論製作の流れをまとめた、大変お役立ちなプリントも作っていただきました。ありがとうございます!


今泉さんの研究作品は大江健三郎「性的人間」、副題は「記号としての<肉体>」です。
まず発表者は、ある指向対象に<視線>を向け、自身や社会の通念を通すと、対象は言語によって交換可能な一存在として把握されてしまう、という現象を「記号化」と定義しました。そして「性的人間」テクスト上には<視線>によって形成された「記号としての肉体」があらわれると指摘しました。また、本テクストにおける他者は対象の<肉体>しか見ることはできず、その対象の<内面>とズレが生じていくと発表されました。
この物語内容の位相・物語行為の位相・物語構造は全て<肉体>を強調することを意図していると指摘し、それぞれ<内面>を抱えているはずの人々がテクスト上で「性的人間」とひとくくりにされることで、その<内面>が捨象され、<肉体>が「性的」であるということだけが<視線>の、語りの対象になる。登場人物たちは<内面>を捨象される「孤独」の感覚に他者にも見える「涙」を流すが、<内面>自体や「孤独」の説明はなく、<内面>が捨象されていく様を示し続けるテクストであると発表されました。
質疑応答では、作中の言語によるコミュニケーションの価値についての質問や、現実は<内面>と<肉体>を完全に切り分けられないが、それでも物語内で<内面>は切り捨てられていく悲劇性についての意見が出ました。先生からは、作品発表当時から今私達が生きている現代に至るまでの時代の特質がこの物語の中に表れているのではないかというご指摘を頂きました。


4年生の皆さん、本当にお疲れ様でした。
1年生のときからお世話になってきた皆さんが卒業してしまうのが、まだ信じられないくらいです。

とはいえまた春期勉強会(よしもとばなな「キッチン」です)や納会、春合宿などまだまだイベントは続きます。それぞれ有意義なものにしましょう!

平成30年1月15日 芥川龍之介「奉教人の死」研究発表

2018-02-05 19:39:44 | Weblog
こんばんは。
1月15日に行われた、芥川龍之介「奉教人の死」研究発表についてご報告致します。
発表者は三年鷹觜さん、一年岡部さん、一年鈴木くんです。司会は一年永坂が務めさせて頂きました。


この作品は大正7年9月に「三田文学」で発表され、その翌年の大正8年1月に新潮社から刊行された『傀儡子』に収録されました。
芥川の作品の中でも、「キリシタンもの」と呼ばれています。



今回の発表では、この作品が宗教色の強いものであるが、主題としては重きを置いておらず、「ろおれんぞ」が子どもを助けたこと(=自己犠牲)に重きを置いたものである、と発表者さんがまとめていました。
先生からは、その根拠として原典と比較し、宗教色を除いた過程を見た方が良いというアドバイスを頂きました。

また、質疑応答では、「ろおれんぞ」が男装をしていた理由や二章がある理由について話し合いました。

「ろおれんぞ」が男装をしていた理由としては、男でなければ「さんた・るちあ」にいることができず、自分のアイデンティティを安定させるためという意見がありました。しかし、破門をされた後も男装する理由は何故なのかという疑問も出ました。また、先生からは、刹那の感動を打ち立てるため、女性と明かさないとことが物語の展開上必然的になるのではないかというご意見を頂きました。

二章がある理由としては、ありもしない原典を提示することで一段物語が加わり、虚構性が強くなるということと、宗教譚にまとめるためであるという意見がでました。







個人的には、国文学者の三好幸雄氏の「刹那の感動を主題」という論を乗り越え、二章を入れる(=虚構を組み込む)ことで語り手を相対化できるのではないか、という先生のご意見が大変面白いと思いました。
更新が非常に遅れてしまったこと、拙い文章で分かり辛いであろうことを重ねてお詫び申し上げます。