今週は織田作之助「四月馬鹿(エイプリールフール)」の二回目の発表でした。作者の描きたかった、作家としての〈武田さん〉像など前週指摘された部分を中心に言及していってもらいました。
〈武田さん〉は〈大阪で一番汚い男〉と形容されます。だからこそ、作家〈武田さん〉は市井のリアルを捉える眼をもつ作家たりえます。しかしその〈現実の底の底まで見透かす〉作家の眼は〈やられて〉いきます。実際の眼の負傷は作家としての眼の負傷を暗示し、作家〈武田さん〉はリアリズムから抜け出し、その果てに象徴の門に辿り着いた。と〈はしがき〉で言われるに至るという指摘がなされました。
一方で人間〈武田さん〉は〈デマ〉を吹聴するのを楽しむ人物として描かれていきます。そして私は武田さんとその〈デマ〉を共有し、楽しみを分け合った存在であったことが二つに分かれた5銭札と2円50銭の時計の共有のエピソードによって暗示されていると指摘されました。〈デマ〉は〈武田さん〉の象徴として〈武田さん〉像を形成し、〈不死身〉の〈武田さん〉像を生んでいきます。そして、四月馬鹿の日に武田さんの急逝記事が新聞に載ります。四月馬鹿は〈デマ〉好きの〈武田さん〉の象徴の日でありその日に急逝記事の載るこの出来事は〈武田さん〉は最後まで〈武田さん〉らしくあったというこれまでの〈武田さん〉像の集大成として作品を締めくくります。
作者はこの作品を〈武田さん〉の書いた〈「弥生さん」〉の真似をして書き始めます。3月の弥生から4月のエイプリールフールへ。作者はいかにして武田さんの方法を踏襲し、作家〈武田さん〉の〈追悼〉としてこの作品を創りあげているのか。発表者のまとめで言われた〈武田さん〉の意志を受け継いでいこうとする私の意志とは具体的にどのようなものであったのか、この部分に関するさらなる言及が期待されました。また、今後の課題として、〈大阪一汚い男〉と形容される〈武田さん〉や、〈武田さん〉をこのように描いていく作者の意識をいかに読んでいくかという問題がだされました。作者織田作之助とは。作品の書かれた時代の背景とは。私達はそのあたりをもっと把握して読んでいかなければ、作品の中で描かれている光景がいかなる意味で読めるのか理解していくことができなくなってしまうのではないかという問題です。今一度、作品のみに終始せず、作品周辺を把握したうえで作品を「よみ」をつくりあげていく意識を持つことが求められました。
織田作之助は武田麟太郎にいかに近似していこうとしていたのか。また井原西鶴と武田、織田のそれぞれ近似の仕方などにも興味がわくところです。そのうえで、作品の「おもしろさ」をいかに発表の資料のなかで伝えていくか。後期はこのあたりをもっと意識して作品に向き合っていきたいですね。それでは、浅井でした。
〈武田さん〉は〈大阪で一番汚い男〉と形容されます。だからこそ、作家〈武田さん〉は市井のリアルを捉える眼をもつ作家たりえます。しかしその〈現実の底の底まで見透かす〉作家の眼は〈やられて〉いきます。実際の眼の負傷は作家としての眼の負傷を暗示し、作家〈武田さん〉はリアリズムから抜け出し、その果てに象徴の門に辿り着いた。と〈はしがき〉で言われるに至るという指摘がなされました。
一方で人間〈武田さん〉は〈デマ〉を吹聴するのを楽しむ人物として描かれていきます。そして私は武田さんとその〈デマ〉を共有し、楽しみを分け合った存在であったことが二つに分かれた5銭札と2円50銭の時計の共有のエピソードによって暗示されていると指摘されました。〈デマ〉は〈武田さん〉の象徴として〈武田さん〉像を形成し、〈不死身〉の〈武田さん〉像を生んでいきます。そして、四月馬鹿の日に武田さんの急逝記事が新聞に載ります。四月馬鹿は〈デマ〉好きの〈武田さん〉の象徴の日でありその日に急逝記事の載るこの出来事は〈武田さん〉は最後まで〈武田さん〉らしくあったというこれまでの〈武田さん〉像の集大成として作品を締めくくります。
作者はこの作品を〈武田さん〉の書いた〈「弥生さん」〉の真似をして書き始めます。3月の弥生から4月のエイプリールフールへ。作者はいかにして武田さんの方法を踏襲し、作家〈武田さん〉の〈追悼〉としてこの作品を創りあげているのか。発表者のまとめで言われた〈武田さん〉の意志を受け継いでいこうとする私の意志とは具体的にどのようなものであったのか、この部分に関するさらなる言及が期待されました。また、今後の課題として、〈大阪一汚い男〉と形容される〈武田さん〉や、〈武田さん〉をこのように描いていく作者の意識をいかに読んでいくかという問題がだされました。作者織田作之助とは。作品の書かれた時代の背景とは。私達はそのあたりをもっと把握して読んでいかなければ、作品の中で描かれている光景がいかなる意味で読めるのか理解していくことができなくなってしまうのではないかという問題です。今一度、作品のみに終始せず、作品周辺を把握したうえで作品を「よみ」をつくりあげていく意識を持つことが求められました。
織田作之助は武田麟太郎にいかに近似していこうとしていたのか。また井原西鶴と武田、織田のそれぞれ近似の仕方などにも興味がわくところです。そのうえで、作品の「おもしろさ」をいかに発表の資料のなかで伝えていくか。後期はこのあたりをもっと意識して作品に向き合っていきたいですね。それでは、浅井でした。