近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

11/24 谷崎潤一郎「刺青」研究発表

2014-11-25 10:00:29 | Weblog
おはようございます。昨日11/24の研究会は谷崎潤一郎「刺青」の研究発表でした。発表者は1年渡部くん、3年斎藤さん、司会は3年田中が務めさせていただきました。

今回は「〈娘〉からの転身」という副題のもと、〈娘〉に着眼点を置いた発表でした。清吉が〈娘〉に彫った刺青が〈女〉へ転身させるファクターとして機能しており、物語の冒頭部の一文「すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。」の通り〈娘〉は「臆病な心」で覆われていた魔性の〈女〉の本性を顕在化していきます。それは悪の美しさとも言える転身を遂げた、との主張でした。

質疑応答では、清吉が〈娘〉に刺青を入れることで起こる変化は物語から明白なことであり、〈娘〉に名前のないことから転身を望んでいるのはこの〈娘〉に限ったことではない、という〈娘〉の匿名性に言及するなど研究方法に問題点があるとの指摘や、物語の最後「女は黙って頷いて肌を脱いだ。折から朝日が刺青の面にさして、女の背は燦爛とした。」を輝かしい未来の象徴と表現してよいのか、象徴論でまとめてしまってよいのか、などありました。

最後に先生から、〈娘〉に着眼点を置いたが故に清吉に寄り過ぎている語り手を信頼しすぎてしまったことで麻酔を使って刺青を入れる反社会的な暴力性を美に収束させる語りの芸術至上主義、また「すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。」の前にある女定九郎などは男が演じており、必ずしも女の美しさでは無く、あえて女の刺青に触れない、従って刺青は特権的なものではなく、「刺青」の時代設定も単なる江戸ではない刺青が評価される時代を作り出している語りの隠蔽に着目すべきではないか、とのご指摘をいただきました。

来週12/1は川端康成「水月」の研究発表です。それでは失礼します。

3年田中

井伏鱒二 「屋根の上のサワン」 研究発表

2014-11-22 17:14:56 | Weblog
11月17日の例会は2年櫻井、1年今泉による井伏鱒二「屋根の上のサワン」研究発表でした。
司会は1年小玉が務めさせていただきました。

発表者は「私」と「サワン」の関係、その対比に着目し「くったくした気持」がどういったものだったのか。また、その対比における象徴性について考察していきました。結論として、「私」の「くったくした気持」は人間一般に普遍的な感情であるとし、逆説的に多くの読者の共感を獲得する作品であるとしました。

質疑応答では、まず本文冒頭の一文にはどういった意味があるのかといった意見が挙がりました。「私」を少女と設計することの意味はあるのか、本当にこの一文は必要だったのかということです。これには、もともと少女雑誌「わかくさ」に投稿する予定だったものであるから、という作者井伏の状況に理由があるだろうとする見方と、作品に詩的な余韻を強めたかったとする意見がありました。ただ、「私」の発言や行動を追っていくと、少女というよりは少年色が強く表れているうえに、作品全体として少女である意味合いが見られないことからあまり推敲された部分ではないのではないか、というところに落ち着きました。
次に文体として過去回想体であり推量・断定を多く用いていることへの言及がありました。発表者はこのことについて、空想に取りすがる「私」が「サワン」と分かり合えないことの表現であるとしました。会員からは推量の域を出ないところの部分を語り直しているので、文中で語られる時間と語っている時間では「私」の考え方が変わっているのではないか、という意見がありました。

岡崎先生からは、「私」を少女と設定しているのはこの小説を私小説として読まれることを避けたかったのではないか、ほかの小説の作者としての井伏をこの小説に代入してほしくなかったのではないか。私が相対化されて語られているということを明確に読者に伝えたかったのではないか、とのご指摘を頂きました。また、過去回想体の文体についてもこの小説の相対化の度合いを絶妙なものにしている、ともされました。


次回は谷崎潤一郎「刺青」の研究発表です。

横光利一「頭ならびに腹」研究発表

2014-11-06 09:50:10 | Weblog
おはようございます。10/27に行われた研究発表「「頭ならびに腹」論―近代的合理主義社会―」の報告をいたします。
発表者は三年黒田さん、二年清水さん。司会は一年眞鍋です。

今回の発表では、研究史において列車や腹の意味はほぼ決定されているのに対し、小僧は多様な読まれ方がなされていることに注目し、「語られ得ない小僧」という存在を設定して、先行論で取り上げられることのなかった語り手について考察していきました。
結論として、群衆の心理や状況が断定的に書かれる反面、小僧に推量が使われるのは、小僧の異質さを際立たせると同時に、語り手が制御できない存在を提示している、ということでした。

先生からは、特別急行列車に乗っているのに急いでいる様子もなく、「群衆」に含まれていない小僧は、謎として設定され、意味付けしようとすればするほど本質から遠ざかってしまう。それは意味からの離脱であり、意味を追い求める合理主義社会への徹底的な批判を読める、というお話をいただきました。

一年生から、語り手はどこまで権限を持つのか、という質問が出たほか、レジュメの先行論のまとめについて、研究史を完全にするために、ほとんどの論文で取り上げられる片岡鉄兵の論も載せる必要があると指摘がありました。

次回11/10は川端康成「禽獣」、梶井基次郎「闇の絵巻」、夏目漱石「文鳥」の卒論中間発表です。