近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

梅崎春生「蜆」読書会

2013-09-29 00:04:15 | Weblog
こんばんは。
9月23日に行った梅崎春生「蜆」の読書会についてご報告いたします。
司会は今井が務めました。

論点は、大きく3つ挙がりました。
1つ目は、最後の場面で「俺」はどのような価値観を手に入れたのかです。
それまでの自分の生き方に疑問を持った「俺」は「浅墓な善意や義侠心を胸から締出して、俺は生きて行こうとその時思ったのだ。」と話し、自分の生きることを最優先にする生き方を選ぶ決意を表明します。しかし、そのあと「翳の多い笑い」を浮かべ、「一寸厭な顔」をしていることから、「新しい出発」は一筋縄では行かないものであることが示されています。「俺」の変化がどのように進行していったのか、要所を拾い確認・議論をしました。

2つ目は、「僕」の人物像と入れ子構造です。
最後に「僕」が「俺」の「新しい出発」を祝うと言い、最初は馬鹿にしていた「粕取焼酎」を「俺」が共に飲んでいることから、「僕」と「俺」とは同士的な繋がりを獲得したといえ、価値観に共感があったと考えられます。そうは言っても、「新しい出発」を決意する「俺」とは違い、「俺」から外套を与えられたり奪われたりしてもそう動じず、話を聞いても否定も肯定もしない「僕」は出発できず、「俺」の出発をただ眺めることしかしません。そんな「僕」が話を聞くという入れ子構造は、「俺」の話を相対化する効果があるのではないか、客観的に聞く存在を入れ込むことで戦後を生き抜くための価値観を風刺しているのではないかと話し合われました。
人物に固有名詞が無いことは、こうした話が作品が発表された当時の日本社会のどこであっても不思議ではない、普遍性を与える効果があるという意見が出ました。

3つ目は、外套・蜆・ボタンは何を象徴し、どう作品に機能しているのかです。
外套は、「鎧」と2回表現されていることや、追剥の前後で象徴する意味が変化していることの指摘がされました。それから、「俺」にとって外套は悪人を装える「鎧」であり、それを最後に売るということは、もう「鎧」を纏って装わずとも「鎧」の中で守られていた本体・「俺」が善行に固執しないで自分の生きることを最優先にする生き方を選ぶ決意をしたためにいらなくなったのではないかと議論されました。
蜆は、戦後の日本人像が重ねられていますが、それが思わぬところから出てきてしまうことは何を意味するのかに意見が集中しました。売って糧としつつ自分の身から離そうとしているにも関わらず、気づかぬうちに身近なところに潜んでいて捨て去れないという蜆の描かれ方は、「俺」の「新しい出発」の困難さと繋がるものと思われます。
ボタンは、猟師であった叔父とそうした親族を持つ「俺」の誇りを意味するものだと捉えるなら、そのボタンが無くなっていくのは「俺」の誇りが無くなっていくことを表現していると考えられます。そうすると、最後の場面でボタンが子供の遊び道具になった挙句に飽きられることは、「俺」にとっての誇りが取るに足らない意味のないものとなってしまったと言えるのではという指摘もされました。


岡崎先生からは、作者の評論や戦後という現在からは想像もつかない状況を理解するための同時代の資料にあたる必要性のご指摘や、蜆という盗品が身から離そうとしても離れないことは、盗みを働いた経験が無意識にあり続け離れきれないことを表しているのではないかなどのご意見をいただきました。


次回は安岡章太郎「ガラスの靴」研究発表1週目です。
では、失礼します。

3年今井

2013 勉強会

2013-09-24 12:15:48 | Weblog
こんにちは。
更新が遅くなってしまい申し訳ございません。
9月14日に行った勉強会のご報告をさせていただきます。司会は今井が務めました。


・井上靖「姨捨」研究発表
発表者は3年神戸さん、能登さん、2年黒田君、田中さん、松尾君でした。

今回の発表では、「―「家」と血―」という副題のもと、家制度の在り方の変化や家族に対する「私」の捉え方、捨てる捨てられるという関係性を作り出す姨捨の意味などが中心に分析されていました。その上で、「戦後という時代に翻弄され変化していく家族の在り方や離散しようとする家族に戸惑いを見せていた「私」は、姨捨を考えることで家族が歩んできたそれぞれの人生に理解を示し、受け入れる。離れ行く家族に対してその「血」の繋がりを自覚することで、「私」は新たな「家」の在り方を構築している。」という結論を導き出していました。

主に論点となったのは、最後の場面で清子に「私」が手紙を認めていることと、雨が烈しくなることがどう読めるかでした。
発表者が言うように「私」が厭世の血に繋がりを見出したのなら、ここで清子を呼び戻すことはしないのではないかという質問や、自分の中にある厭世の血の自覚も理解もしたが結局は家族を愛し労わらずにはいられないということが表れているのではないかという意見が出ました。
また、実際に存在する姨捨伝説や『姨捨山新考』と作品に描かれた姨捨伝説との違いから何が読み取れるかにも議論が及びました。

岡崎先生からは、最後の場面はそれまでの文脈を追っていくと、おそらく前の夫に囚われているために東京に戻りたくても戻れない清子に、「私」が望む生き方の後押しをしている文脈になっているもことがわかる。雨の描写は、ほかの親類と同じように清子もこれから過酷な人生を歩み続けるようになることが暗示されているのではないか。などのご意見を頂きました。


・織田作之助「可能性の文学」読書会
普段の活動では短編小説しか扱わないので、勉強会では評論を扱ってみようということで「可能性の文学」が選ばれました。

私事ですが、作家の書いた評論やエッセイはほとんど読んだことが無かったので新鮮でした。作家自身が作品と自分、作品と実生活とがイコールで繋げないことをここまで叫ばねばならなかったこと自体が、今文学研究をする身としては驚きでした。授業や研究会で自然主義文学や私小説の特色や思想などは聞き及んでいたのですが、実際にその時代の人が書いた評論を読んで、その生の叫びを身に受けると考えさせられるものがありました。

予備知識として海外文学や同時代の他の日本文学、文学理論が必要だったこともあり、やなかなか意見が出にくかったです。文学史や私小説に対する見解や、文学の流行などについての意見が主でした。

知識不足など様々に反省点の残る読書会でしたが、これを糧にして頑張ろうと思います!

では、失礼します。
3年 今井