近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

平成30年4月16日 夏目漱石「夢十夜」第一夜読書会

2018-04-22 00:11:12 | Weblog
 こんにちは。桜が散り気候が安定してきた今日この頃、皆様の生活も新年度に慣れ安定してきた頃でしょうか。近研は「恋愛と近代文学」を今年度前期のテーマとして活動を始めました。
 本日は4月16日に行われた読書会についてご報告致します。
 扱った作品は夏目漱石「夢十夜」第一夜、司会はわたくし三年浦野です。
 
 「夢十夜」の初出は東京朝日新聞と大阪朝日新聞に同時に掲載されました。1908(明治41)年の7月25日から8月5日までの10日間、一日一夜ずつ連載されたようです。多くの人に読まれる新聞連載でロマン派の雰囲気を知らしめた一方、夢の描写を「夢らしくない」と評する同時代評も見られました。

 先行論では語り手である「自分」と「女」が恋愛関係にあることを前提に「女」の存在が「自分」に対して支配的に働いていると考えられる点を論じるものや、作中に登場する多くのモチーフを象徴論的に解釈するもの、漱石本人の精神疾患や女性遍歴に言及するものが多く見られます。しかし果たして本当に「自分」と「女」の関係を恋愛として断定してしまって良いのでしょうか。そしてそもそも「こんな夢を見た。」という語り出しで始まるこの作品ですが、そうまでして夢の中の物語であるということを強調する意義はどこにあるのでしょうか。そういった素朴な視点からの問いを新入生の皆さんと考えました。

 まずはこの作品が夢について回想的に語る物語であることを提示して始まる第一文ですが、作中に語り手であるはずの〈夢から覚めた自分〉から夢の中の自分に対する批評などは見受けられないことが指摘されました。語り手は現実的にはありえないような夢の展開に疑問を感じない夢の中の自分と一体になって夢を語ります。そのことにより「女」の言葉に従う「自分」の主体性の無さが際立ちます。「自分」の自我については台詞の鍵括弧の有無に注目して読む考えを新入生が挙げてくれました。なぜ前半部では「自分」の台詞が鍵括弧によって強調されないのかという疑問について、岡崎先生からはそこに〈私〉の揺らぎを読み取るご意見を頂きました。また、終盤の「自分は女に欺されたのではなかろうか」という文に関してそれまで「女」の言葉に疑問を差し挟むことなく従っていた「自分」の自我の目覚めとして読む意見も出ました。

 しかし「女」は物語中盤で死んだきり物語から退場し、彼女を想って待ちつづける男だけが残されます。物語のラストで「女」の生まれ変わりと思われる百合が登場しますが、それも本当に「女」本人なのかは断定し難いものです。百合の登場を「女」の帰還だと解釈し「百年はもう来てゐたんだな」と納得する「自分」の認識には自己完結的なあり方を見る会員が多く見られました。新入生からはそもそも夢は「自分」の意識の内で起こっているものなので、夢の中の登場人物である「女」も「自分」自身から切り離せないものなのではないかという意見が出ました。岡崎先生からも「女」を「自分」の夢想する理想の女性像の反映と見ることで二人の関係に他者性が無いとする見方が出来るとご指摘頂き、「自分」と「女」の間に他者を必要とする〈恋愛〉という関係が成り立つのかと議論になりました。

 他にも夢には現実の自分の事情が反映されるという考えから、何かしらの喪失や悲しみを抱えた「自分」が己を癒すために作り上げたためにあのような予定調和的な結末になったのではないかと意見してくれる新入生もおりました。

 夢とは夢の中で行動する自分と目覚めてから夢の内容を思い返して意味づけをしていく自分がいて初めて成立するものです。そして恋愛は確かに相手を必要とするものですが、その相手は夢の中の百合のように自分が自分の中に作り上げたその人の虚像であるということもままあります。自分の中に描いた自分と他人を見つめるという性格において、夢を語るという最も身近な物語行為は夏目漱石が多くの作品で描いた自己と他者の問題を示すのに最適な題材だったのではないでしょうか。

 今回は新入生が参加する初めての回でしたが、彼らからも積極的な意見をもらい新鮮でありながら本格的な議論が交わされる読書会となりました。今年度幹事学年となった私も意欲溢れる後輩たちをサポートしつつ更なる学びを得られるよう研究会に励もうと決意を新たにしたところで今回のご報告を終わらせて頂きます。