近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

「田園の憂鬱」読書会

2008-11-24 23:24:24 | Weblog
こんばんは。今週は、佐藤春夫の「田園の憂鬱」の読書会を行いました。読書会の要点としては、作品の中において、どうのような「憂鬱」が描かれているのか、また作者の詩人としてのスタンスや、表現技法などが話題になりました。
 「憂鬱」をとらえるとすると、長い作品なので、どこから読み取るか、というのが非常に多岐にわたって議論されました。そのかでもやはり一番核心を突いていたのは、主人公が自分の居場所を都会か、田舎か、という間でもがいている、また、自分をバラに見立てることにより自然の中に調和を図ろうとするが、結局調和できず、次第に病める薔薇になっていくというプロセスを読み取っていくのが重要だという結果でした。 
 表現技法として、作品の中では「…」やダッシュマークの多用が見られ、これらは主人公の感情の起伏を表現するのに用いられています。これらも主人公が憂鬱の頂点に達していく過程を読み取るのに大切なポイントでした。
 次回は、「西班牙犬の家」の発表会を行います。この作品は、「田園の憂鬱」と非常に関わりの深い作品です。今回の読書会を踏まえて、しっかりと読んできましょう。以上、坂崎でした。

谷崎潤一郎 「少年」第二週

2008-11-18 00:24:35 | Weblog
こんばんは。今週は谷崎潤一郎の「少年」の発表を行いました。
この発表の骨子となっていたのは主に構造、それと「語り手」としての〈私〉でしたが、発表が終わり質疑応答の時間が来るや否や、(私自身も含めて)皆さん一斉に質問をして、ひじょうに活発なものとなりました。

私が発表を聞いていて疑問に思い、どうしても発表者に訊いてみたかったのは、「語り手」としての〈私〉に、少年期を語らせるという構造に、なぜ谷崎がしたのか、という点でした。そして、その谷崎という作家にまで分析を進めるならば、どうしても「時代」というものを、調べねばならないという問題が浮上してきます。これこそ、「明治」という時代の厄介さなのでしょう。

しかし、そのような疑問はあったものの、発表者の方々は自分の発見した視野においての(つまり〈語り手〉の問題です)、研究を十分にしていたと思います。

先輩が言っていたことで、非常に自分自身の問題として考えさせられるものがありました。それは、「自分の論をまとめて、そしてその先をもう一歩突き詰めて欲しい」というもので、常に自分のまとめた論に対し、「これでいいのか?」と疑念を抱きつづけ、自分自身のなかで理論を完全なものに作り上げていく、という意味のことばだと私は受け取りました。しかし、それはなかなかむずかしいことです。「これでいいに違いない」という過信と独善――これらが自分の論を作り上げていく過程で、自身の内に生まれるのです。それと抗い、常に自分に疑念を抱く、ということは労力と精神力を必要とするのです。しかし、これがなくては所詮は自己満足な文章となってしまうのですから、私にとって戒めともなり、また引き締めてくれることばともなりました。

次週は佐藤春夫の「田園の憂鬱」です。「病める薔薇」ということばが印象的な響きを持っている作品ですが、これから寒くなります。皆さまは風邪をひいて「病めること」とならないようにしましょう。
以上諸熊でした。