近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

庄野潤三「プールサイド小景」研究発表(1週目)

2013-10-25 23:38:20 | Weblog
こんばんは。
10月21日(月)の研究会では、庄野潤三「プールサイド小景」の研究発表第1週目を行いました。
発表者は3年山下さん/2年黒田さん/1年櫻井くんのお三方で、司会は石川が務めました。


<庄野潤三「プールサイド小景」論 一週目>
今回の研究発表では、1週目ということもあり読みの多様性を重視し、多角的に本文の分析がなされていました。
その中でも、特に「サラリーマン」という枠組み・制度に疑問を持った青木氏と「当たり前の日常」に疑問を持った夫人の二つの物語が同時並行しており、双方の疑問から生活の脆さを描き出す家庭小説として物語が立ち上がってくるという意見を提示していただきました。
他の会員からの質問・意見によって議論が交わされた点には
・最後のプールの場面が描かれることにより、どのような効果があるのか
・雑誌掲載から単行本になる過程で一部本文が削除されている点をどのように捉えるのか
・作品を戦後小説として考えた場合の意味合い
・作中夫婦の微妙な関係性、距離感について
・家庭の脆さを描く作品でありながら、タイトルが作中で描かれていた外面的な幸福を感じさせる「プールサイド小景」であることの理由
・夫人が語る「メデューサの首」という表現の解釈の仕方
などがありました。

岡崎先生からは、本作は妻の視点を中心に描かれているため、一見真実のように語られている部分でも、実際には夫の実像が見えてこない点、家庭が書かれている中で、戦争や政治といったものとは違った恐ろしさを感じられる点などを解説していただきました。
また、最終的な決定稿だけを重視するのではなく、変更される前の本文と比較し、変えられた理由を考えることも作品理解においては大切であるということ、夫の言うサラリーマンの怯えに対する更なる追求の必要性、家庭小説として描かれた中に組み込まれている現代批判的な要素に関する考察の余地など、次回に繋がる多くのアドバイスをしていただきました。


個人的には、初めての司会でしたので始まる前は少し不安でしたが、皆さんが積極的に発言してくださったのでとても助かりました。ありがとうございました。
次週も引き続き庄野潤三「プールサイド小景」研究発表の第2週目を行います。
今回出た意見や考察のポイントを踏まえ、次回も良い研究会になればいいなと思っています。
それでは、失礼します。


1年 石川

太宰治「ヴィヨンの妻」卒業論文中間発表会

2013-10-23 01:17:01 | Weblog
こんばんは。
10月14日(月)に先週行った太宰治「ヴィヨンの妻」の卒業論文中間発表会のご報告をさせていただきます。更新が遅くなってしまい申し訳ございませんでした。


発表者は4年の根本さん、司会者は3年の能登さんでした。
発表の副題は「「私」の変容」で、発表資料は研究動機、論文構成、まとめの3章で構成されていました。論文構成は①先行研究、②語る「私」と語られる「私」、③「私」と大谷、④『ヴィヨンの妻』とは(仮)の4章からなります。

〈②語る「私」と語られる「私」〉では、語る「私」の語りの意図と、語られた「私」の変容とが問題とされていました。大きく以下の3点が指摘されました。
・椿屋の亭主の長い語りを挿入することで「私」以外の視点が作品に加わり、一人称の語り手が語りうる限界を超えて物語世界に広がりを持たせられた。
・家庭に縛られ妻として大谷に従属しながらも大谷と会えずにいた「私」は、椿屋に勤め大谷と会う機会が増えてからは「椿屋のさっちゃん」へと変容し、生活が楽しいものとなる。
・大谷に対し「人でもいいぢやないの。」と言い人であると自覚させそのように生きさせようとするのは、お客に犯されるという罪を「我が身にうしろ暗いところが一つも無くて生きて行く事は、不可能だ」という認識により肯定し軽減させた上で、罪を負ってしまった自分が大谷と共に生きていくためである。出来事の叙述と現在の気持ちを述懐する語りとを交ぜつつ語る現在の「私」が語りの意図が、ここに読み取れる。

〈③「私」と大谷〉では、「私」が一貫して寄り添う放蕩無頼とされる大谷の魅力に焦点が当てられ、育ちが良く天才詩人と言われているにも関わらず自身は身分や才能を自慢することがなく、女性の母性をうまくくすぐる魅力的な男性だと分析されていました。

〈④『ヴィヨンの妻』とは(仮)〉はタイトル考で、フランソワ・ヴィヨンというテクスト外の情報を引っ張ってきて論じるかどうかを決めかねているということで、保留にされていました。
質疑応答の中で、発表者が最も大切に主張したいことは、変わって行く「私」が語られる作品の中に変わらずにあり続ける「私」の大谷への思いであるという補足がされました。

学部生と岡崎先生からの質問や指摘としては、主に次のようなものが挙がりました。
・この作品において読者への働きに言及するなら、おそらく読者の存在を想定していないだろう語る「私」と、読者の存在を想定できる作品の創造主であるところの「作者」とを混同しないように注意するべき。
・椿屋の主人の長い語りの挿入は、家庭外での大谷を「私」の言葉では語れないために椿屋の主人の言葉をそのまま持って来たということではないか。
・大谷像は、作品に直接描き込まれている他人からされた評価だけを拾い出しても掴めるものではない。家庭外で他人に見せる顔と家庭で「私」に見せる顔との違いや、なぜそのように振る舞うのか、もしくは振る舞わざるを得ないのかという迫り方をしてみたら奥にある大谷像が見えて来るのではないか。
・ラストシーンでの大谷の言葉を言い訳のための嘘だと言いきらずに信用してみると、作品冒頭で普段は子どもが体調不良だと外出してしまうのは辛そうにしている子供を見ていられないという特殊な形をした愛情だと言え、事件当夜に珍しく子どもの熱を心配し優しく声をかけるのは大谷の家族に対する愛情だと言える可能性が出て来る。


根本さんには、年明けに卒業論文最終報告会をしていただきます。


研究会が終わってから駅に行くまでの間だけでも少しずつ寒くて、とうとう今週は駅までポケットに手を突っ込んで歩いてしまいました。日に日に空は高くなるし、葉は身を縮めてきているし、秋が深まっていきますね。皆さま、風邪を召されないようにご自愛ください。

では、失礼します。

3年 今井

安岡章太郎「ガラスの靴」研究発表(2週目)

2013-10-17 13:58:00 | Weblog
こんにちは。
10月7日(月)に行われた、安岡章太郎「ガラスの靴」の研究発表(2週目)についてご報告させていただきます。
発表者、司会は1週目と同じです。

〈安岡章太郎「ガラスの靴」論 ―語る僕の意識―〉
2週目の今回は、1週目で指摘された部分(戦争の比喩・クレイゴー中佐・題)を中心に本文検討がなされていました。以下、発表内容を簡潔にまとめます。
「僕」と悦子が夏休みを過ごした接収家屋は、期限付きの虚構の場であるが、「僕」は悦子を「ずっと昔からこの家でそだてられた娘」のように錯覚するなど、米国に対して兵士のような敵意を持っているにも関わらず、そこを自分たちのものだと思い込んでしまう。しかし、「僕」はクレイゴー中佐と実際に会い、接収家屋は米国人のものであり、自分たちのものではないこと、さらに、自分と相手の力の差を理解する。語る現在の「僕」は無自覚だった当時の「僕」への皮肉として、戦争の比喩を用いている。
「ガラスの靴」という題は、虚構である御伽噺を示す言葉であり、「僕」は悦子の御伽噺をばかにしていたが、実際は影響を受けており、最終部分で悦子からの電話を待ち続けるという形で、再び虚構の世界に引きずり込まれてしまう。

議論としては、発表資料の中で何度か挙げられた「虚構」という言葉について、活発に話し合われました。たとえば、「悦子との間での虚構」と「別れた後での虚構」は、悦子にとらわれているという点では同じだが、その性質は違うのではないかという意見、そもそも「ガラスの靴」という題は「虚構」ではなく、期限のほうをさしているのではないかという意見です。

岡崎先生からは、悦子を子供っぽいとは言い切れないのではないかということ、タイトルの秀逸さをもう一度考えてみること(「ガラスの靴」は終わりと再びの始まりを意味していたり、壊れやすさの象徴でもある)、クレイゴー中佐なしでは「僕」と悦子の生活が維持できないこと(ようするに、アメリカなしでやっていきたいのに、アメリカなしでは生きられないということ)の中にもいわゆる「虚構」が存在すること、などをご指摘いただきました。
多角的に読むことによって、色々な考え方が出来るのが、文学研究の面白さであるとのお言葉もいただきました。

10月14日(月)は、根本先輩の卒業論文中間発表会です。
更新が遅くなって申し訳ありませんでした、それでは失礼します。

1年 熊谷

安岡章太郎「ガラスの靴」研究発表(1週目)

2013-10-07 02:27:00 | Weblog
こんばんは。
9月30日(月)に行われた、安岡章太郎「ガラスの靴」の研究発表(1週目)についてご報告させていただきます。
発表者は、3年:岩渕さん・佐藤さん、2年:藤田さん、1年:清水さんで、司会は熊谷が担当しました。

〈安岡章太郎「ガラスの靴」論 ―幼さの自覚―〉
今回の発表は、『磯貝論にある「半分童話で、半分小説のような」作品であるという指摘を批判する立場で、純粋な小説として作られた作品であること、また、一人称回想体の語りに注目し「僕」に焦点を当てて論じていきたい』(発表資料No.3より引用)という方針のもと、「幼さの自覚」という副題に沿って、本文の分析がなされていました。以下、発表内容を簡潔に要約します。
この作品は、「僕」と悦子の限られた期間(=夏休み)に起こった思い出について語られた、「僕」による一人称回想体の小説であり、つまり、悦子との関係の行く末を知り、彼女に対する認識がすでに定まっている「僕」が、「子供の世界」(参照:小野絵里華「安岡章太郎の短編小説「ガラスの靴」考―透明な物語に埋め込まれた屈辱・権威・〈公〉のモチーフについて―」『言語情報科学』H22.3)を語るという構図が見えてくる。その「子供の世界」について、悦子は「まったくの少女にすぎ」ず、「僕はもう、おさえきれなかった」と語っていることから、「僕」自身、『「僕」の幼さ』について自覚していると言える。したがって、この作品は、語る「僕」と語られる「僕」によって、『「僕」の幼さ』を描いた小説であることがわかる。

議論としては、発表自体が「幼さの自覚」という先行研究にはあまり見られない論の組み立て方だったこともあり、さまざまな角度から意見や質問が出されました。磯貝英夫氏の論文の中の「半分童話で」という部分を批判する形の研究発表だったが、その部分はあくまで比喩のようなものであり、磯貝氏はそこまで重視していないのではないか、という意見が出たり、「僕」は元から幼かったのか、それとも悦子に影響されたのか、ということが話題に上ったりしました。また、N猟銃店を訪ねて来た悦子と関係を持とうとした「僕」が、行為を拒まれたあと怒ったのは、「僕」は悦子と男女として付き合ってきたつもりだったからではないか、という発言もありました。
時間を掛けて話されたのは、最後の一文、「ダマされていることの面白さに駆られながら」についてで、現在形で語られていることから、意識・無意識を全て自覚(=幼さを自覚)した上での文章であるとの見解が発表者側から出され、議論が進められました。

岡崎先生と、参加して下さった先輩からは、次のようなご意見・ご指摘をいただきました。
・まとめが「指摘」で終わっているきらいがあり、そこから何が言えるのかが重要である
・期限ということについて、もう少ししっかりと考える必要がある
 →小説内の「夏休み」というのは、通常の夏休みの期限の大きさとは異なるのではないか
・比喩をもう少し詳しく読み取る必要がある
 →たとえば、戦争と結び付けられる比喩、「砲弾の飛ぶイメージばかりをしきりに思い描いた」「まるで将軍に鼓舞  された兵隊みたいに」「戦闘中に突然陣形を変えさせられる艦隊のように」などを、なぜこうした比喩、イメージが  使われているのか考えながら、「僕」の意識を読み解く
 →戦争に関する比喩は、ただ戦後だからという理由で使われているというわけではない
・クレイゴー中佐という存在は何を象徴しているのか、また、接収家屋の中で演技をするということは、何を表しているのか、考える必要がある
・幼さの自覚というより、幼いままではいられないという自覚、と考えることも出来る
・新しい着眼点にこだわりすぎず、先行論などで理解したことを深めていくことも大切である


初めて司会を担当したので、ご迷惑をお掛けした部分もあるとは思いますが、ご容赦下さい。

次回も引き続き「ガラスの靴」の研究発表(2週目)を行います。
それでは、失礼します。

1年 熊谷