近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

平成29年12月27日 文学さんぽ 田端文士村記念館

2017-12-30 17:10:40 | Weblog
こんにちは 3年吉野です。
12月27日に行われた、田端文士村記念館の文学さんぽについてご報告いたします。

田端は、明治中ごろまでは田畑の広がる農村地帯でした。
明治22年、上野に東京美術学校(現東京藝術大学)が開校すると、
そこで学びたい若者・学ぶ若者が田端へ住み始めます。
最初は小杉未醒や板谷波山などの芸術がが主に入居していましたが、
そのうち芥川龍之介や室生犀星ら、私達もよく知る文人たちが転入してきます。
そのような有名文人がさらに人を呼び、田端はおよそ半世紀にわたって100人余りの文士芸術家が住む町となっていきました。
しかし昭和20年の大空襲で大きな被害を受けたことにより、「田端文士芸術家村」は終焉を迎えました。
田端文士村記念館は、そんな当時の田端の様子やそこに住んでいた文士・芸術家、その関係性などを年表や写真も交えて紹介しています。

今回、研究会の企画として開催するにあたり、近研OBで田端文士村記念館に勤務されているTさんに展示の解説や、田端に残る文士・芸術家ゆかりの場所を散策する文学散歩のご案内をしていただきました。Tさん、本当にありがとうございました。

また、田端文士村記念館では今、特別展「芥川龍之介の結婚と生活」が開催されています。2018年2月2日の、芥川龍之介と塚本文の100回目の結婚記念日にあわせた企画で、芥川が 文に宛てたラブレターも初公開されていました。原稿用紙を切ったものにしたためられたラブレターで、芥川の想い、また文さんがいかにそれを大事に持っていたかが伝わってくるようでした。
その他にも精巧に再現された芥川邸模型(芥川や息子の人形、書斎も完全再現されています。※常設展示)や、芥川の主治医下島勲に関する展示、また芥川が世話になったという天然自笑軒の紹介などもありました。芥川が犀星にもらった鉢の展示(犀星はこれに羊羹を盛るように言ったという逸話付き。芥川の家族はこの鉢を正月などに使っていたそうです)や、芥川の好きな食べ物などの紹介もあり、芥川龍之介の人柄を身近に感じられる展示でした。
他にも芥川の生前のエピソードや人柄などを基にした現代の作品や、海外で翻訳出版されている芥川作品なども紹介されており、芥川龍之介という作品、また作家が今もなおこんなにも愛されているということを実感いたしました。

記念館の展示を見たあとは、皆で田端の町へ繰り出し、文士・芸術家ゆかりのスポットをめぐりました。犀星宅の庭石(やはり犀星といえば庭ですね)が保存されている童橋公園や、芥川の住居跡、美術家たちのつくったポプラ倶楽部跡(現田端保育園)、正岡子規や板谷波山の墓がある大龍寺などを巡りました。
先述したように、田端は昭和20年の空襲で大きな被害を受けてしまったため、芥川邸などの建物はほとんど残っておりません。そのことはとても残念ではありますが、それでもこのように記録され、その場所に我々が行ってその名残を感じることができるというのは、とても貴重な体験でした。芥川邸跡はマンションが建ってしまっているのですが、区画が不思議な形をしており、「もしかしたらこれが芥川邸の名残なのでは!?」と一同盛り上がったりもしました。
田端は坂が多く、芥川邸近くの上の坂やポプラ坂など、文士たちゆかりの場所も多いです。そんな道を登ったり下ったりしながら、この道をあの文豪たちも通ったのだなあと想いを馳せたりしました。


私達は普段、作品を研究しているため作家自身を知る機会がどうしても多くありません。合宿や文学さんぽなどの企画を通して作家自身についてや、その作家が生きていた時代背景などを知ることによって、より日ごろ研究している作品についての理解も深めていきたいと思います。個人的には今回1年生から4年生まで、大勢の会員が参加してくれたのでとてもうれしかったです。親睦を深めるいい機会にもなればと思います。


ちなみに文学さんぽのあとは忘年会でした。Tさんを始めとしたOB・OGの方にもご参加いただき、2017年の締めくくりとしてとてもいい1日になったと思います。


年度の活動も残りわずかとなって来ましたが、2018年も頑張っていきたいと思います。

次回の例会は年明け、タイムリーなことに芥川龍之介「奉教人の死」の研究発表です。
今年度最後の研究発表となります。

平成29年12月25日 原民喜「夏の花」研究発表

2017-12-26 11:02:46 | Weblog
 こんにちは。
12月25日に行われました、原民喜「夏の花」研究発表についてご報告いたします。
発表者は三年春日くん、一年中島くん、星くんです。
司会はまたもや三年長谷川です。

 今回の発表は、語る「私」の〈観察者としての眼〉と〈詩人の感性〉、結末部における一人称から三人称への変化に着目し、〈家族〉の物語、〈妻恋い〉の物語を読み取るものでした。

 質疑応答では、「N」のエピソードの挿入部分が果たして特権化された三人称の語りといえるのかという質問が出ました。詩の挿入以降、女中が死ぬまでは「私」の視点から語られており、「甥」のエピソードは伝聞として語られています。発表者は、一人称の語りが徐々に三人称的語りに変容してゆき、「N」のエピソードに至って「N」に内的焦点化し、彼にしか知りえない情報を語る三人称の語りに変化していると論じました。
 また、〈観察眼〉と〈詩人の感性〉を対極的なものとして捉える発表者に対し、対極的なものといえるのかという質問が出ました。これは発表者のなかでも意見がわかれたらしく、カタカナの詩に移行する場面を、散文表現の限界を感じ詩の表現に逃げたと捉えるか、表現を追い求めた結果として詩の表現に行きついたと捉えるかで議論になったそうです。
 発表者はカタカナ詩の効果について、「意味や形をはぎ取った音そのもの」であるカタカナによって「破壊され意味をはぎ取られ物質化された世界を雄弁に語っている」と論じました。これに対して先生から、カタカナは読みのスピードを遅延させ、ゆっくりと噛み締めるように享受させる効果もあるとのご指摘をいただきました。これによって、言葉が迫ってくるような喚起力が与えられるといいます。
 また、先生からは、被爆者に対する冷徹なまでの〈観察眼〉について、感情をあえてはぎ取り状況に溺れない語りを自分に強いる語り手の、書き記すことへの使命感・意識の強さについてのご意見をいただきました。他人を置き去りにしていく場面では、感情をあえて書かず、事態ののみを叙述していく背後に、「私」の感情世界が広がっているといいます。出来ること出来ないことを切り分けていく合理性の裏に見える「私」の並々ならぬ感情をこそ読み取らねばならないとのご指摘をいただきました。被害者を語る上で躊躇われるような言葉を淡々と記すことこそが誠実な姿勢なのかも知れません。これは以前扱った「いのちの初夜」にも通ずるものであると思います。
 当時の楽観的な考えを後から訂正せず、偽らざる当時の「私」の心境を語る誠実さについては発表者も着目するところでした。このような極限状態において家族のことを淡々と述べていくことにも、家族への感情のつながりが見えるといいます。
 最後に、今回の作品も時代性に目を向けざるを得ない作品であったとの感想が出ました。

 今回は、発表者が「第二次世界大戦時軍用施設配置図」を用意してきたため、「私」や「N」の辿った足跡を地図上に照らし合わせて見ることができました。避難の道のりや、広島を一望できる高台の情景を、より実感を持って読むことができるようになりました。

 2017年を締めくくるに相応しい、充実した内容の発表でした。今年度残る二回の例会も有意義なものといたしましょう。

平成29年12月11日 志賀直哉「灰色の月」研究発表

2017-12-20 10:04:58 | Weblog
 こんにちは。
12月11日に行われました、志賀直哉「灰色の月」研究発表についてご報告いたします。
発表者は二年望月くん、一年坂さん、岡部さんです。
司会は前回に引き続き三年長谷川です。

 今回の発表は、主に「私」の語りのあり方と、少年工が体現する〈死〉という禁忌に着目したものでした。
 「私」の語りは、一見客観的事実の列挙に思われますが、その実主観的な面が多分に含まれています。発表者は、「見たものを精確に描きだすことは、自身の精神状態を精確に描きだすことでもある」と述べました。また、自己の感覚がそのまま対象への評価につながる点を指摘しました。
 次に、敗戦後の食糧難とそれによる救いようのない死の予兆は人々にとって暗黙の了解であり、口にされることのない「タブー(禁忌)」であると述べました。この〈タブー〉は、「私」による描写と、乗客同士の会話から意味付けされていきます。先行研究史において特に着目されていた、「私」が少年工を突き返す場面では、このような〈タブー)を身体に有する「少年工を身体で受け止めることを、反射的に拒否してしまった」のではないかと述べました。
 また、最後に日付を明記することで、終戦直後であることを伝え、「一つの歴史的事実として語り収められる」と述べました。タイトルである「灰色の月」は〈タブー〉を照らし出すものであり、山手線の周回と照応して繰り返し続けるものであるとしました。また「作品自体が敗戦直後の状況を語る身体記号」を有しているとしました。
 他に、同時代の受容を考えるとき、当時老大家である志賀直哉の作品であるということを無視しきれないという意見も出ました。

 質疑応答では、先生からは、時代背景の補足説明をいただきました。終戦により職を失った少年工の置かれた立場、行き場をなくした人が集まる場としての上野地下道・上野公園、住所がないため配給を受けることができない浮浪者、闇市などの非合法な手段に出なければ生きていけない実状などをお話しいただきました。前回に引き続き、時代背景の理解の大切さを考え直すことができました。
 また、主観・客観の把握についてや、作家の情報を読み込むことの正当性について指摘がなされました。

 更新が遅れてしまい申し訳ございません。
 今年最後の例会は原民喜「夏の花」研究発表です。第二次世界大戦を別の観点から捉えた作品として、「灰色の月」と併せて考えていきたいと思います。

平成29年12月4日 北條民雄「いのちの初夜」読書会

2017-12-08 17:01:02 | Weblog
こんにちは。
12月4日に行われました、北條民雄「いのちの初夜」読書会についてご報告いたします。
司会は三年長谷川です。

「いのちの初夜」は昭和11年2月、「文学界」にて発表された北條民雄の文学界賞受賞作です。発表を手引きした川端康成によって、「最初の一夜」から「いのちの初夜」に改題されています。同年12月には創元社刊の同名の短篇集に収録されました。

ハンセン病患者である作者が書いたこの作品は文壇に衝撃を与え、多くの議論を呼びました。ハンセン病患者が書いた〈癩文学〉であることは、発表当時から作品の受容に大きく関わっていたようです。しかし作者自身は〈癩文学〉というレッテルを酷く忌み嫌っていました。

読書会ではまず、同時代評から先行論まで多くの論で言及されていた〈リアリティ〉の問題について話し合いました。生きるか死ぬかという、人間誰しもに関わる普遍的な問題が描かれている点にリアリティを感じるという意見が出ました。それに対し、本作で描かれている生死の問題はあくまでハンセン病問題に基づいたものであることを抜きにしては語れないという意見が出ました。
先生からは、さまざまな病気の中でも、ハンセン病は社会的な差別の背景を背負っている特殊な病気であることを理解しなくてはならないというご意見をいただきました。ハンセン病差別の歴史を知らなければ、例えば夢の場面についての深い理解には至りません。また、主人公が当事者であることによって患者に対して容赦のない視線が書きえた、それがリアリティを生み出しているというご意見をいただきました。作中には主人公の差別意識がありありと描かれていますが、その差別意識は自分もいつかそうなるかも知れないという恐怖に立脚したものであり、他人事ではありえないものです。それが作品に生々しいリアリティを与えていると考えられます。
また、先生からは過剰な自粛の危険性についてのお話もいただきました。過剰な自粛により、実際にあった差別の歴史が隠蔽され、その結果新たな差別を生んでしまう危険性があるとおっしゃいました。その点において、作者の意には反することかも知れませんが、本作はハンセン病差別の歴史を物語として後世に残すという意義を有していると思います。

次に、差別する側の心理を否定しない点において本作は特異だという意見が出ました。それに関しては、差別されて仕方がないものという意識が患者自身にあったという歴史的背景を考慮に入れなくてはならないと思います。今を生きる私たちは、差別を受けて当然な病気などないことを忘れてはならないでしょう。
また、患者たちの醜悪な姿だけでなく、牧歌的な日常の美しさが書き込まれている点に目を向けなければならないという先生のご意見をいただきました。女性への興味や情欲など、卑近な感情も書き込まれているという点に好感を持てたという意見も出ました。

また、義眼の場面の衝撃についての意見が出ました。尾田が義眼について言葉少ななことによって強調される恐怖、美しい方の目が偽物であったという反転の恐怖などについて話し合いました。
佐柄木が義眼をすることで人相に執着していることは、〈いのちの理論〉との矛盾なのではないかという意見も出ました。〈いのちの理論〉は強がりであり、佐柄木にさえも到達し得ない地点であるのではないか。出来ないことを前提にしてもそれに縋らずにいられない姿が、佐柄木の不気味さのひとつの要因なのではないか。
他に、佐柄木の言葉が絶対視されない点についての意見が出ました。佐柄木の世界は結末で「到達」すべきものとして提示されていますが、〈いのちの理論〉を佐柄木が語る場面では「この男は狂つてゐるのではないか」と尾田に疑われます。尾田と佐柄木は相互に相対化され、絶対的なものとしては語られない点がこの作品の深みを持たせていると思います。
しかし、佐柄木の思想はこの先生きていくことを表明する点において尾田より一歩先んじており、その思想を肯定する結末となっている点は見落としてはならないでしょう。
また、先生からは「最初の一夜」から「いのちの初夜」への改題によって、尾田の視点から佐柄木の考えに重点が置かれる結果となったことをご指摘いただきました。

次に、三人称に仮構した一人称小説である点について話し合いました。これは、三人称にすることによって、主人公を作者から突き放し、あくまで虚構作品であることを強調する必要があったのではないかと推測できます。しかし、その甲斐虚しく、本作は私小説的作品として受容されることとなります。
また、尾田だけでなく佐柄木も作者の分身であったのではないかと考えられます。それは、佐柄木が小説を書く人物、書かずにはおられない人物として形象化されている点から推測できます。
先生からは、当時のハンセン病患者たちにとって、書くことは残された出来うる自由のひとつであり、固有の悲しみを社会化することによる救済を得られるものであったとご指摘いただきました。

また、文学研究における姿勢についても話し合いました。近年、私たちが生きる社会に問題提起を投げかけるものとして作品を価値づける、社会学的アプローチが文学研究の一部として認知されてきています。先生からは、作品を詳細に読み解いた上で社会に対しての意義づけをしていく文学研究がこれからは要請されるのではないかという意見をいただきました。

司会者は今回、国立ハンセン病資料館に赴き、ハンセン病についての歴史を学んでから読書会に臨みました。写真は多磨全生園で見た夕日です。作品が書かれた社会的背景を知ってから作品を読むことは、作品のより深い理解につながるのではないかと思います。
今回は、作品の読解だけでなく、今までの研究会の活動で等閑視されがちであった社会背景の理解の重要性に気付くことのできた、有意義な読書会になったと思います。
次回は志賀直哉「灰色の月」研究発表です。