こんにちは。
5月22日に行われました、菊池寛「父帰る」の読書会についてご報告致します。
司会は三年長谷川が務めさせていただきました。
「父帰る」は大正六年一月、「新思潮」にて発表された一幕の戯曲です。二年後の大正八年一月、新潮社刊の創作集『心の王国』に収録されました。
翌大正九年十月には、新富座にて二代目市川猿之助主演で上演されました。この上演は好評を博したようで、招待客であった芥川龍之介、久米正雄、小島政二郎、佐々木茂索、そして作者自身までもが涙したそうです。この上演により、菊池寛の劇作家としての立ち位置が確立されました。
作者は「父帰るの事」というエッセイで、「「父帰る」は私の作品の中では、功成り名を遂げているもの」「十年や二十年の後まではきっと残るに違いない。少なくとも、私の作品の中では、一番最後に亡びるものだろう」として、本作に対する自信のほどを述べています。
発想については、イギリスの劇作家ジョン=ハンキンの『The Return of the Prodigal(註:放蕩息子の帰宅)』から、「蕩父だって帰ってくる」という逆説的な考えを得て制作したと述べています。
作者は戯曲においてテーマを重視しており、藤森淳三が「舞台のことが分からなければ戯曲は書けないだろう」と言った際には「舞台なんか知らなくてもいい、テーマさえよければ書ける」と答えたそうです。このような言及が、研究初期の主題探求の優勢を招いたひとつの要因と考えられます。
発表当時は同時代評がほとんどなく、注目度の低い作品でしたが、春秋座の上演以降一躍脚光を浴び、多くの評価を受けることになります。菊池寛の他の戯曲や後に出された長編通俗小説と比較し、「父帰る」は優れた作品であったと評価するものがいくつかみられました。
研究初期はその主題や作劇術が評価されています。
先行研究に多く見られるものとして、それまでの封建的家父長制や儒教道徳に対して、近代合理主義的立場からの転換を図った点を評価したものが挙げられます。これらの論では、賢一郎が父を探しに家を飛び出す幕切れを、合理主義的考えをもつ賢一郎にもあたたかな人間性があったと解釈しています。
幕切れについては先行研究で最も着目されている要素のひとつであり、この幕切れをどう捉えるかが、作品の評価を左右しているように思われます。
他には、心理学的見地から本作に描かれた〈家族〉を論じたもの、本作にあらわれた家父長制をジェンダー論的視点から論じたもの、作中人物の〈涙〉や本作がもたらす〈感動〉について時代背景や人間心理を交えつつ論じたものなどがみられます。
読書会ではまず、戯曲特有の書かれ方についての意見が出ました。ト書きの中に語り手をみることはできないか、セリフの前に書かれている名前の表記ゆれについてなどです。また、時系列順に物語が進んでいく中で、回想シーンを織り交ぜることなく過去の情報を開示していくことの見事さが指摘されました。
先行研究でも着目されていた賢一郎による父親の拒絶についての意見も出ました。これには岡崎先生が当時の時代背景を交えてご意見をくださりました。賢一郎は、封建的家父長制や儒教道徳によって無条件に受け入れられる父親に対して、近代合理主義の立場から「権利」という言葉を持ち出しました。権利を捨てた生みの親ではなく、実際に家を支えている自分こそが〈父〉なのだと主張するこの姿勢は、言わば新しい家父長制を再編成したといえる非常に新しいものであったとのことでした。
賢一郎の合理的な考えが取り上げられる一方、賢一郎の感情的な面についての意見も出ました。物語の前半で父のことを話そうとする母を遮り、父について沈黙を貫いた賢一郎ですが、帰ってきた父を責め立てるときは誰よりも饒舌になります。ここに賢一郎の感情的な面がみられるとのことでした。
賢一郎の合理的な面と感情的な面を暴き出したこれらの意見から、幕切れについての意見も出ました。黒田家の家父長として父を受け入れられなかった賢一郎は、一方で息子として父に帰ってきてほしいという感情を隠し持っており、そのことが幕切れの展開へつながっているとのことでした。また、最後に父が見つかるところまで描くと読み手は拍子抜けしてしまうし、反対に、父が死んでしまった、あるいは帰ってこなかったというところまで描くとあまりに悲劇的過ぎる。賢一郎が父を探しに家を飛び出すところで幕切れにしたことによって、読み手は希望を残しつつ、深い感動を与えられるという意見も出ました。
また「――幕」という記号によって、舞台の幕が閉まり、観客から拍手が湧き起こる様が想像せられ、深いカタルシスをもたらすのではないかという意見も出ました。
他にも、ト書きの外面描写によってメタ的視点がテクストに織り込まれているとする意見や、演劇経験者からの意見も出ました。
最後に、菊池寛の小説は簡潔でわかりやすく、そのため読みどころが少ないといわれてきだが、様々な角度から論じる余地が充分にあるのだとわかったというご感想をいただきました。
今回は戯曲という、普段研究会で扱っている小説とはまた違った形式を扱いました。小説以外の形式へのアプローチの仕方、形式それ自体へ目を向けることの大切さについて考え直すよい機会になったかと思います。
次回は吉行淳之介「驟雨」の読書会です。
5月22日に行われました、菊池寛「父帰る」の読書会についてご報告致します。
司会は三年長谷川が務めさせていただきました。
「父帰る」は大正六年一月、「新思潮」にて発表された一幕の戯曲です。二年後の大正八年一月、新潮社刊の創作集『心の王国』に収録されました。
翌大正九年十月には、新富座にて二代目市川猿之助主演で上演されました。この上演は好評を博したようで、招待客であった芥川龍之介、久米正雄、小島政二郎、佐々木茂索、そして作者自身までもが涙したそうです。この上演により、菊池寛の劇作家としての立ち位置が確立されました。
作者は「父帰るの事」というエッセイで、「「父帰る」は私の作品の中では、功成り名を遂げているもの」「十年や二十年の後まではきっと残るに違いない。少なくとも、私の作品の中では、一番最後に亡びるものだろう」として、本作に対する自信のほどを述べています。
発想については、イギリスの劇作家ジョン=ハンキンの『The Return of the Prodigal(註:放蕩息子の帰宅)』から、「蕩父だって帰ってくる」という逆説的な考えを得て制作したと述べています。
作者は戯曲においてテーマを重視しており、藤森淳三が「舞台のことが分からなければ戯曲は書けないだろう」と言った際には「舞台なんか知らなくてもいい、テーマさえよければ書ける」と答えたそうです。このような言及が、研究初期の主題探求の優勢を招いたひとつの要因と考えられます。
発表当時は同時代評がほとんどなく、注目度の低い作品でしたが、春秋座の上演以降一躍脚光を浴び、多くの評価を受けることになります。菊池寛の他の戯曲や後に出された長編通俗小説と比較し、「父帰る」は優れた作品であったと評価するものがいくつかみられました。
研究初期はその主題や作劇術が評価されています。
先行研究に多く見られるものとして、それまでの封建的家父長制や儒教道徳に対して、近代合理主義的立場からの転換を図った点を評価したものが挙げられます。これらの論では、賢一郎が父を探しに家を飛び出す幕切れを、合理主義的考えをもつ賢一郎にもあたたかな人間性があったと解釈しています。
幕切れについては先行研究で最も着目されている要素のひとつであり、この幕切れをどう捉えるかが、作品の評価を左右しているように思われます。
他には、心理学的見地から本作に描かれた〈家族〉を論じたもの、本作にあらわれた家父長制をジェンダー論的視点から論じたもの、作中人物の〈涙〉や本作がもたらす〈感動〉について時代背景や人間心理を交えつつ論じたものなどがみられます。
読書会ではまず、戯曲特有の書かれ方についての意見が出ました。ト書きの中に語り手をみることはできないか、セリフの前に書かれている名前の表記ゆれについてなどです。また、時系列順に物語が進んでいく中で、回想シーンを織り交ぜることなく過去の情報を開示していくことの見事さが指摘されました。
先行研究でも着目されていた賢一郎による父親の拒絶についての意見も出ました。これには岡崎先生が当時の時代背景を交えてご意見をくださりました。賢一郎は、封建的家父長制や儒教道徳によって無条件に受け入れられる父親に対して、近代合理主義の立場から「権利」という言葉を持ち出しました。権利を捨てた生みの親ではなく、実際に家を支えている自分こそが〈父〉なのだと主張するこの姿勢は、言わば新しい家父長制を再編成したといえる非常に新しいものであったとのことでした。
賢一郎の合理的な考えが取り上げられる一方、賢一郎の感情的な面についての意見も出ました。物語の前半で父のことを話そうとする母を遮り、父について沈黙を貫いた賢一郎ですが、帰ってきた父を責め立てるときは誰よりも饒舌になります。ここに賢一郎の感情的な面がみられるとのことでした。
賢一郎の合理的な面と感情的な面を暴き出したこれらの意見から、幕切れについての意見も出ました。黒田家の家父長として父を受け入れられなかった賢一郎は、一方で息子として父に帰ってきてほしいという感情を隠し持っており、そのことが幕切れの展開へつながっているとのことでした。また、最後に父が見つかるところまで描くと読み手は拍子抜けしてしまうし、反対に、父が死んでしまった、あるいは帰ってこなかったというところまで描くとあまりに悲劇的過ぎる。賢一郎が父を探しに家を飛び出すところで幕切れにしたことによって、読み手は希望を残しつつ、深い感動を与えられるという意見も出ました。
また「――幕」という記号によって、舞台の幕が閉まり、観客から拍手が湧き起こる様が想像せられ、深いカタルシスをもたらすのではないかという意見も出ました。
他にも、ト書きの外面描写によってメタ的視点がテクストに織り込まれているとする意見や、演劇経験者からの意見も出ました。
最後に、菊池寛の小説は簡潔でわかりやすく、そのため読みどころが少ないといわれてきだが、様々な角度から論じる余地が充分にあるのだとわかったというご感想をいただきました。
今回は戯曲という、普段研究会で扱っている小説とはまた違った形式を扱いました。小説以外の形式へのアプローチの仕方、形式それ自体へ目を向けることの大切さについて考え直すよい機会になったかと思います。
次回は吉行淳之介「驟雨」の読書会です。