近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

横光利一「頭ならびに腹」論

2012-05-30 12:27:39 | Weblog
近研2年の佐藤です。
5月28日の例会では横光利一「頭ならびに腹」の発表をしました。発表者は4年藤野先輩、司会者は佐藤が務めました。

今回の発表では、論が分かれる「子僧」の在り方を中心に論が進められました。
それでは本文分析に移ります。

冒頭部2行で、子僧が周りを気にしないこと、周りの群衆がすぐに興味を失うといった作品の基調象徴的に表現している。
子僧の行動は周囲の人々からは異質なものであるが、子僧は揺るがない意思を持っている。
電車が故障線のために止まり、修復の時間が予測不可能のため到着時間も予測できず、「一切の者は不運であった」が、子僧は電車が止まる前と変わらない。
ここでは、子僧だけが「一切の者は不運であった」という言葉から逃れている。
復旧の見込みがたたない特急電車より、到着時間の予測ができる迂回線の方が大切だとわかる。
しかし、群衆は答えがでない選択に悩む。
そこで富と自信に満ちた腹を持つ紳士が、人気があるはずだという理由で迂回線を選び、群衆も一斉にそれに従う。
「頭」(群衆)と「腹」(紳士)の状態を象徴的に表現し、この表現から「頭」と「腹」が同列のものと読むこともできる。

まとめとして、子僧の在り方は、乗客を批判する表現者の目を持つだけでなく、他者に侵害されることのない自我を持つ体現者の一面も持っている。子僧の手拭の鉢巻や唄は、他者との差別化と自我の体現の為の表現と考えられ、作者はそれを特急電車と対応させながら表現したのではないか。
とまとめてくださいました。

いただいたご意見としましては、関東大震災の翌年に出された作品ということもあり、近代化が時間を気にし、自我を失う点で視野を狭めているが、子僧は時間を気にせず、自我を持つことで無駄も大事であることを伝えているのではないか。

「頭ならびに腹」というタイトルとは、「頭」に自我や子僧を表し、「腹」に金や権力、紳士を表しているのではないか。
といったものが挙げられました。

OBの先輩方や岡崎先生からは、レジュメの書き方や、引用論文に対する自分の意見をまとめること、作品背景も研究視野に含める、といったご指摘をいただきました。

ただ、先行論を読むだけでなく作者や背景にも目を向けるとともに、先行論に対する自分の意見を持つことでより深い研究をすることができると実感しました。

次回は江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」の読者会です。
それでは失礼します。

芥川龍之介「蜜柑」

2012-05-24 01:14:16 | Weblog
こんばんは、2年の今井です。

5月21日に行った芥川龍之介「蜜柑」例会について記載させていただきます。
発表者は神戸さん、司会は今井でした。


今回の研究は、作者を含めない1つの作品として「蜜柑」を捉え、なぜ「私」は「僅に」しか退屈な人生を忘れられなかったのかを解き明かしていくという方針で進められました。
以下本文分析を要約させていただきます。

「珍しく私の外に一人も乗客はゐな」い非日常の場で、電車という卑俗から切り離された簡易的な密室空間で作品は展開していく。しかし小娘という乱入者が現れ、「私」は過剰なまでの嫌悪感を示す。小娘(=卑俗な現実)のイメージがここで確定される。
トンネル内で夕刊を照らす光が暮色から人工の電燈の光に変化すること。また「汽車の走ってゐた方向が逆になったやうな錯覚」は、一瞬トンネルという人工物に引き戻されているということであり、これらから卑俗な現実へと「私」が引き戻されているといえる。
それから「私」は現実からの逃避のために眠るという手段をとるが、小娘が電車の窓を開けたことで電車という疑似的な密室空間が消滅(現実との融解)することへの脅威を感じ、目を覚ます。窓を開けたことで「私」を襲う「どす黒い空気」は現実に苦しめられる「私」の暗喩ではないか。
日が暮色から暖かな日の色へ変化し「不可解な、下等な、退屈な人生」が暖かな日の色に染まるが、また「私」の現実は暮色に染まってしまう。しかしそこには日常の中の非日常として「蜜柑色」が登場し、現実は絵画のような芸術的美に変換される。
この光景や、自分で作り出しさも現実のよう認識している小娘の兄弟愛の物語に感動した「私」は小娘の変化を期待し「別人を見るやうに」見るが、小娘は変わらないまま存在している。それに言葉を失った「私」は「……………………」で表現されている。このような変わらず卑俗な現実のようである少女がもたらした「蜜柑色」が、「私」のなかで特異なものとしてさらに輝くことになる。
「暖かな日の色」は暮色へと変化し私の日常に根付くことはない。ここから卑俗な現実が復活したといえ、同じように「私」のなかで暖かな日常は持続しない。だからこそ蜜柑は非日常的であり、感動を与える特化した存在であった。
まとめは、小娘が投げた蜜柑は「一瞬日常の色として輝いた。だが直ぐさま「私」は蜜柑に非日常性を伴わせ、蜜柑は「鮮やかな蜜柑色」へと変化し「私」の人生を「僅に」照らすばかりである」とされました。

いただいたご意見やご指摘は「……………………」「この時」「僅に」の部分に集中しました。いくつか挙げさせていただきます。「三点リーダーの連続は単なる沈黙か、失望にもとれる」「三点リーダーは「或る得体の知れない朗らかな気持ち」を解釈しようとしているのではないか」「「僅に」は「私」の大変辛い現実と、蜜柑のエピソードのありがたみを強調している」「「私」が小娘に冷酷なのは作品の終盤を際立たせるために人工的に造形されているから」「語る「私」は感動を1度経験した以上また経験するのではないか」「三点リーダー以下がついている理由を考えるべき。マイナスではなくプラスで閉じているから、語る現在の「私」の認識も変化した状態のままだといえる」。


私の論点の飲み込みや整理が遅く、参加者の方々に大変もどかしい思いをさせてしまったと思います。申し訳ありません。また、多大なご協力をいただきありがとうございました。
まず作品をきちんと読み込んでくるところに立ち返りたいと思います。


次週は藤野先輩の横光利一「頭ならびに腹」の研究発表です。
では、失礼いたします。

志賀直哉「范の犯罪」読書会

2012-05-08 21:17:35 | Weblog
こんばんは、2年の今井です。

5月7日は「范の犯罪」の読書会を行いました。
司会は私・今井が務めさせていただきました。


議論が進むうちに「妻から逃げることで間接的に妻を殺すことと演芸中に妻が死ぬことはどう違うのか」という論点が出てきました。それに関連して「范の求める「本統の生活」や「無罪」とは何なのか」という疑問の提示もされました。
これらに対しては「妻から逃げることでは妻のことが吹っ切れず、開き直れないからではないか」「欲望に忠実で打算的な范は、妻の不義理によって得られなかった幸せな家庭を「本統の生活」と考えていて、そのために邪魔な妻を殺す」「范は法を恐れていたわけではないと言っているところから、「無罪」とは法律上の単なる無罪ではなく、特別な意味合いがあると思われる」「范は自分に一切の責任がないことを「無罪」という形で示し、自分を正当化したかったのではないか」などの意見が出されました。

他には「過殺ならそれは死んでくれればいいという「きたない考え」を持っていたことになり、故殺なら「誤りのない行為」をしようという考えに反する。結局范はどちらも選べない状態であるために過殺か故殺か断言できないのではないか」「妻の自殺という可能性は無いか」といった解釈も出されました。

岡崎先生からはフェミニズム的な読みの視点をいただいた他、根拠を持った読みをすることや故殺と決めつけることで読みの幅が狭まる危険性についてのご指導などをいただきました。また「范の「本統の生活」は自己満足の中でのみ成立し、相対化するのに必要な他の世界を范は持たない。志賀文学全体にも繋がるが、それは観念的な快・不快だけの世界であり、究極の自我肯定と言える」といったご意見もいただきました。


今後の課題は、しっかりした読みの根拠を挙げて解釈できるようにすることと、様々な読みの可能性や視点のそれぞれを意識し検討することではないかと思いました。
個人的には今回が読書会で初めての司会で、議論の方向を上手く導けなかったことや論点の整理がわかりやすく的確にできなかったことなどたくさんの反省が残ってしまいましたが、協力くださった皆様どうもありがとうございました!再来週の研究発表でも司会を務めさせていただくので、リベンジが出来たらなと思っております!

続けて見学・参加くださる方々はだんだん会に慣れてきたようで、多くの意見を出していただきました。
だんだん顔ぶれも決まってきて、入会を決めてくださった方もいらっしゃるので嬉しい限りです!


5月14日は新入生歓迎コンパを行うので通常の会の活動はお休みです。
翌週21日は神戸さんによる芥川龍之介「蜜柑」の研究発表です。頑張ってください!

では、失礼いたします。