近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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7/6井伏鱒二「山椒魚」研究発表

2015-07-09 00:11:56 | Weblog
 こんばんは。
 7月6日に行われた井伏鱒二「山椒魚」の研究発表についてご報告させていただきます。
 発表者は3年櫻井くん、2年小玉くん、山内さん、1年吉野さんで、司会はわたくし3年清水が務めさせていただきました。

 まずはじめに、「語りが招く語りの崩壊」という副題のもと行われた今回の発表の内容をおおまかに述べさせていただきます。今回の発表では、改稿前のテクスト(『井伏鱒二自選全集』所収のもの)を底本として扱い、語りの手法からのアプローチが積極的に行われていました。まとめとしては、語り手は山椒魚を擬人化して語り始めるが、擬人化させられた山椒魚は自我を芽生えさせ、結果語り手は自ら語ることのできない対象を作りだしてしまったということや、それでも語り手は対象を絶対的に捉えられているという意識から、山椒魚の自意識の萌芽については気づくことができなかったいうこと、改稿以前のテクストは山椒魚と蛙の「和解」ととることができるような結末になっているが、最後の蛙のセリフも語り手がしゃべらせているにすぎず、あくまで他者への「不理解」が示されているにすぎないということなどが述べられていました。
 次に、質疑応答では、専ら語りの手についての議論がなされ、本来しゃべるはずのない山椒魚や蛙がしゃっべっている点において、鍵括弧で括られたセリフは語り手がしゃべらせているにすぎず、だとしたらそのズレはどこにあるのか、あるいはどこにもないのか、それとも自由にしゃべることができるという設定で、だとしたら山椒魚や蛙は語り手の手中に収まっていないということになるのか、といった点で話が進んでいきました。
 最後に、岡崎先生からは、作中に登場する動物たちと語り手の語る動物たちのズレを本文から見出すことができれば語りの失敗がみえてくるということや、最終場面において語り手は蛙についてはその様子しか語ることができていないが、山椒魚についてはその心理まで語ることができており、よって山椒魚のことはまだ捉えられていると考えられるということ、また発表ではあまり触れられていなかったが、個の限界を性への陶酔や営みに結びつける大正生命主義の色が出ているということなどのご指摘をいただきました。

 今回は前期最後の例会でした。新入生のみなさんも無事発表を終え、また上級生も改めて気が引き締まる前期例会だったのではないでしょうか。
 次回は夏期合宿ということになります。初の岩手が今から楽しみです!
 それでは失礼いたします。

3年清水