近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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梶井基次郎「路上」発表

2012-07-29 22:44:38 | Weblog
ブログの接続の調子が悪く、更新が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
これからまた更新のほうを頑張っていきます!

それでは遅くなってしまいましたが梶井基次郎「路上」の発表は、二年生の佐藤さんと、今年から入会した三年の根本さんと二年の山下さんで行いました。司会は藤野で行いました。


この発表では、「路上」は梶井の実体験を基に書かれ、「自分」=梶井といて捉える論が多く作家論としての研究がなされてきたが、最近では「自分」と梶井とを別々の存在として分析されつつあるとし、「自分」と梶井を切り離して物語内における「自分」に着目し作品論として論じました。

そして、作中にみられる「実感」という表現を軸に発表しました。「実感」を物事をありのままに見た「形」ではなく、自らの想像や解釈を加えた新たなものの見方としていました。

人の家の内部やうつぎに感じる風情は、「自分」が「実感」を持ったことによって生まれたものとし、冬の頃に見た富士の形だけでない高さ、容積を質感を持って感じていたことを振り返り、「実感」を持ったものの見方をしたいと再び思うようになるとしている。
そして、いつもの市中へ出ていく道に、何処か他国を歩いてゐると感じ、それがその道になれたあとまでも、またしても味はふのであったというように、「自分」なりの「実感」を持ったものの見方をしているとしている。

けれど、そういった「実感」は坂路を滑って転んだ出来事を機に変化していくとしている。滑って転んだことを滑稽な芸当だと「実感」を持った「自分」は、誰も見ていなかったことに変な気持ちを抱く。ここで「自分」は自分からの視線だけでなく、他社の視線を意識し始めるとし、「自分」の「実感」に違和感を覚える。そして他社からの視線を持って得られる「実感」を求めるようになる。それは滑ったことによって得た「実感」の消失でもある。「実感」を失った「自分」は、書かないではゐられないと、深く思いった。それが滑ったことなのか、小説を書くことによって自己を語らないではいられないことのか判然としない、恐らくその両方と思う「自分」は、自己を小説に書くことで他者と「実感」の共有を求め、自らの「実感」の再確認を求めようと考えるようになるとしている。

そしてこの作品の象徴的な場面、帰って開けた鞄の中に、入りそうにも思えない泥の固まりが入ってゐたことは、鞄に入っていた泥の固まりは、滑ったという事実を記憶する役割を持つものとして捉える事が出来るとしました。


この発表のまとめとして前半部分では、「自分」はありのままの「形」に自らの想像や解釈を加えることで「実感」を持って物事を捉えていた。後半部分では、他者の視線も含めた「実感」を求めようとしたが、それが確かなものではなく、淋しさを感じる。そこで「自分」は、小説を書くことによって他者との「実感」の共有を求めようとする。泥という存在は、滑ったという事実を書くための材料となる役割を担っている
と言える、としていました。


質問や意見の内容としては、この作品にみられる「実感」とはいかなるものなのか? 「自分」が共感を求める他者とは? や、 この発表では作者と「自分」を切り離す意味・効果は? 梶井と「自分」の言いたかったことの違いは? 先行研究からこの論点を挙げた意味は? という発表の姿勢に対する質問が多く出ました。そして、安易な作家論として論じずに、作家論でなくとも関連する他作品の論点は押さえておくこと、「自分」=作家(書き手)の心理を考えるという意見が出ました。


今回の発表では、作品論と作家論についての意見が多く出ました。作品の読解にはより柔軟で、広い目を持つことが大切だと再度実感するものとなりました。今後の発表に生かしていってほしいと思いました。



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