近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

4/25中島敦「山月記」研究発表

2016-04-25 23:57:58 | Weblog

こんにちは。
4月25日に行われた中島敦「山月記」の研究発表についてのご報告です。
発表は3年今泉さん、渡部くんに担当して頂き、司会は3年の山内が務めさせて頂きました。

今回の副題は「同情される〈李徴物語〉」です。
簡潔に内容を説明させて頂くと、語り手は李徴の独白を間接話法を用いて自己批判的に語り直した上で、これらを「自嘲癖のある男」の「自嘲」と規定し、都合の良い聞き手としての温和な友人や読者に同情を求めているのではないか、ということが発表者の主張でした。

しかしこの「語り手が同情を求めている」という点について、質疑応答において「読者の同情を煽るよりはむしろ批判を促すのではないか」という鋭いご質問がありました。
この部分につきましては、岡崎先生からも「読者が語り手の語りに従って読むとは限らない」ということと、いくらでも全知のふりをできるはずの語り手があえて限界性を窺わせているのは、「山月記」が読者を限定的に導こうとする小説ではないからではないか、というご指摘を頂きました。
また、作中に語り手も含めて〈李徴物語〉を批判する者がいないということは、読者は同情よりも客観的に李徴に向き合うことが要請されていると読む方が自然なのではないかというご意見もありました。
一方で、「同情と批判が同時に行われてはいけない」という前提で議論が進んでいたことに疑問を呈して下さった方もおり、質疑応答を盛り上げてくれる良き問題提起だったのではないかと個人的には感じています。
ですが、「同情する読者もいれば批判する読者もいる」といった読者の自由を尊重するのであれば、やはり一定の方向に読者を誘導する性格の語り手とは言えないのかも知れません。

そしてこの「山月記」は国語の教科書にも採用されていることで有名ですが、かつて国語教育の現場において、温和な友人が李徴の詩に下した「非常に微妙な点に於て」何かが欠けているという評価に、李徴が自己分析の末に発見した「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を安易に代入してしまっていたことの問題について岡崎先生からお話を頂き、「山月記」というテクストの在り方を見直す時間もありました。

他には、「山月記」というタイトルの解釈や、李徴が虎になったことは悲劇なのかという提言、冒頭の「虎榜」という語に関する考察という斬新なご意見などが話題に上がりました。
特に「山月記」のタイトルについては、「人虎伝」(「山月記」の素材となった中国唐代の伝奇)との比較や主題的解釈など、短い時間でしたが多くのご意見が寄せられました。

最後に岡崎先生からは、「李徴が虎になったことは悲劇なのか」もとい「虎になった方が幸せなのか」という問題について、李徴は虎になり人間の意識を失ってしまうことを恐れていたのは本文に明らかで、最後までそのことに抵抗していた李徴を慮るべきであり、そしてタイトルの「山月記」については、最後の場面における情景の特権化をすべくタイトルが構えられていたのではないか、「自意識の空転のドラマ」が描かれているのに、「山月記」というタイトルで締め括られてしまったことの哀切さが読めるのではないか、というお話を頂きました。


以上、「山月記」研究発表のご報告でした。
見学にいらして下さった方からも積極的に発言して頂き、研究会として充実した時間を過ごせたのではないかと思います。

次回は5月2日に太宰治「走れメロス」の研究発表を予定しています。



平成二十八年度四月十八日 井伏鱒二「山椒魚」 読書会

2016-04-19 16:12:16 | Weblog

四月十八日より、平成二十八年度の活動が本格的にスタートしました。
心がけも新たに、研究会の活動にいそしんでいきたいと思います。

さて、今回は井伏鱒二「山椒魚」の読書会を行いましたので、ご報告させていただきます。
司会を務めさせていただいたのは、わたくし、三年の小玉です。

先ず、「山椒魚」という作品について、僭越ながら、簡単にご紹介させていただきます。
「山椒魚」は、井伏の習作期の作である「幽閉」を改題、改作したもので、昭和四年五月「文芸都市」に掲載され、世に広まることになりました。その後、井伏は生涯に渡りこの作品に向かい続け、昭和六十年十月、米寿の記念に新潮社より発刊された『井伏鱒二自選全集』では末尾の数十行を削除するという大改訂を行いました。この場面は従来〈和解〉の場面としてとらえられており、学校教育においてもこれに倣った指導がなされてきました。このことから、この場面を削除するということは、当時にあって大きな反響を呼ぶことになりました。この問題は、生成論という観点が広まってきている現在にあって、今一度、見直されるべき問題であると考えられます。

前置きが長くなりましたが、このような問題をはらむ「山椒魚」はいかようにして読むことができるのか。今回の読書会の論点になったのは大別して二つあります。一つは、語り手の問題。もう一つは、前述の「山椒魚改訂問題」についてです。
まず議論の対象になったのは、語り手についてでした。会員からは、作品が後半になるにつれて会話文が多くなり、地の文が影を潜めることから、語り手に何らかの変容が起こっているのではないかという発言がありました。これを発端に、山椒魚に自我が芽生えたため、語り手の統御を離れてしまったのではないか、という意見や、「山椒魚」というテクストを一つの劇であるととらえ、蛙という飛び入り役者のために脚本家たる語り手の世界が崩壊していったのではないか、というユニークな意見も登場しました。ただし、岡崎先生をはじめ、他の会員からも、事態のあらましを先取りして語ってしまうこと、山椒魚の推測を代弁してしまうことなどの一貫した語り手の語り口から、語り手の変容は読み取りづらいのではないかというご指摘がありました。このことから、むしろ、斎藤知也氏の論文(「「嘲笑」めぐって‐井伏鱒二『山椒魚』を読む」 「日本文学」二〇〇五年七月)を援用して、「外界を嘲笑してしまう山椒魚と、山椒魚を嘲笑してしまう読者とをだぶらせて語る語り手」という構造を読んでいくのが生産的であろうという意見も出されました。

後半に話題にあがったのが、末尾の削除された部分についてでした。この話題は、場面の大半を占める会話劇の解釈を通じて進行しました。
まず、蛙を閉じ込めることにより発生するこの場面に、「よほど暫くしてから」という山椒魚にとって初となる他者へ向けられた思索の時間が書き込まれることや、蛙の「今でも~怒っていないんだ」という以前より「怒っていない」事が明らかにされることによって、山椒魚の協調性の回復と蛙の許しが読まれることになるとの指摘がありました。ここから、明確に〈和解〉と読めてしまう文脈を削除することによって、いわゆる「開かれた終わり」になるのではないかという意見が出されました。ただし、この意見には、読みの限定されない文章をどのように扱えばよいのか判断に困る、という素直な意見も寄せられ、今後の課題として残されることになりました。
またこのほかにも、前出の語り手の話と絡めた意見も出されました。語り手はもともと山椒魚を「嘲笑してはいけない」ということで「諸君」を山椒魚を嘲笑するステージに立たせていたが、蛙の登場によって話し相手を得た山椒魚の溌剌とする様子には「嘲笑」という言葉を用いず、「嘲笑という話題に触れない次元」にシフトしているというものでしたが、司会として興味深く聞いておりました。

また、岡崎先生からは「身体性の発見の物語」として読むことができるという新たなご指摘をいただきました。
短く、ほのぼのとした文章ながら、難解であり、かつ未だに多くの可能性を秘めている文章だと痛感いたしました。

今回の読書会は、多数の新入生にも参加していただきました。また新入生の方からも活発な意見活動が見られました。近研の新しい力になってくれるであろう新入生に対して心強く感じるとともに、こちらも負けてはいられないと奮起することのできるよい会になったと思います。

12/21 泉鏡花「夜行巡査」研究発表

2016-04-16 17:05:59 | Weblog
こんにちは。
12月21日に行われた泉鏡花「夜行巡査」の研究発表についてご報告させていただきます。



 発表者は2年渡部さん、1年吉野さんで、司会はわたくし1年鷹觜が務めさせていただきました。
まず、「箱庭的世界の中の物語」という副題のもと行われた今回の発表の内容をおおまかに述べさせていただきます。今回の発表では、八田の言動を個人の性格からきたものとした上で、あまり触れてこられなかった語り手の存在に注目し、物語内でどのような働きをしているかについて論を進めていきました。

まとめとしては、この物語は限定的な箱庭空間で展開され、主観によって意見を変える語り手は、一般的な感性を持つ人格ある一個の登場人物として物語を観察し語っていることや、この箱庭的世界で展開された物語の情報は、その外側にある社会から知る術がないこと、しかしこの時間以前から八田を知っている叔父の発言を聞くことによって、八田を個人として捉える視点が生まれ、その視点から八田が社会一般から受けた評価とは違う見方を語り手は提示し、冷淡な行動も、職務に執着しかつ恋愛にも一途な行動も、八田個人の人間性によるものだと証言しつつ、物語を閉じていくことなどが述べられていました。

次に、質疑応答では、本当に語り手が登場人物化されているのかという議論がなされました。限定的な視点の三人称小説であり、叔父の話を聞いただけで干渉しておらず、登場人物としてみるのは無理があるのではといった点が強く指摘されました。また、一人の恋愛事情に左右される箱庭的世界のゆらぎや、三部に別れた構成の不自然さについて議論が進んでいきました。

最後に岡崎先生からは、この小説は発表の中で箱庭的世界と言われていたが、八田個人の内面のドラマであり、機械的な様子が強調されていた八田の人らしいゆらぎにどのような意味があるのか考える重要性や、実際の物語と新聞等による社会の情報量の寡多から起こる評価のズレ、当時の近代主義的な時局の中の巡査という立場、社会から圧殺された八田の悲劇についてなどのご指摘をいただきました。

 それでは失礼いたします。

2年鷹觜