近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

平成28年12月12日 内田百閒「道連」研究発表

2016-12-15 21:17:19 | Weblog
こんにちは。
先日行われた内村百閒「道連」の研究発表についてご報告させていただきます。
発表者は三年渡部さん、二年鷹嘴さん、前原さんです。司会は一年宇佐美が務めさせていただきました。


今回の発表は「内田百閒『道連』―歩行の場の崩壊」という副題で発表していただきました。
先行論では夏目漱石の「夢十夜」との比較により夢の話としてとらえる論が多く、また作中に登場する兄の存在や、同時期に発表された「冥途」に父が登場することから家族に対して述べている論も見られました。

発表者さんはまず、「私」が暗闇という視覚情報が限られる場所において、傍らを歩いているはずの「道連」に対する情報が足音と声のみであることから、この物語は「語る私」によって聴覚による認識を主体にした物語世界であると論じました。つぎに「私」は物語が進むことにより、「道連」と一体化が進むが、「私」は「道連」を兄とは呼ばず、また「私たち」という表現を使わず「私」と「道連」の行動を別々に語っていると述べました。そして最後に「道連」は非存在であるから「私」に兄と呼んでもらうことで血縁関係を求めるが、「私」は聴覚を中心としてこの場において「道連」と「私」の声が同じであることを自覚したため、自身と「道連」の境界線が曖昧になり、兄と呼ばれることを求める「道連」と意識の一体化を深める「私」はすれ違い、最終的には二人の関係は歩行の終わりとともに未遂に終わってしまうと発表してくださいました。

質疑応答では「道連」が求めたことによって「兄」の存在を認める「私」と「道連」と自身の声が同じであると気づいたことにより、その二人が同じ存在であるという一体化に進む純粋な「私」の認識の差についてが追及されました。また、「兄」を認めていない「語る私」と認めている「語られる私」の関係についても追及されました。一体化がどこから始まったのかについては「道連」が私の心を読んだ物語の初期から同化が始まっていたという意見もありました。作中における「歩行」という行為について「道連」は歩行するからこそ道連であり、物語の終盤「私」が「道連」に縋り付こうとし、歩行をやめてしまったことにより「道連」が消滅してしまうという意見も出ました。この物語の情報が客観的であることのも言及され、触感もなく聴覚のみの情報であることはこの物語が夢文学であることの証明になるという意見も出ました。

以上簡単にですが「道連」の研究発表についてまとめさせていただきました。
今回の作品である「道連」の原型は「土手」という作品でありますが、それ以前に書かれた小説に「道連」という題のものがあります。こちらの「道連」は結末が後々の「土手」および現在の「道連」とは大きく違っていますがこちらの「道連」とのつながりに対して述べている先行論もあるのでぜひ一度目を通していただければより作品に対して深い読みができるかと思い紹介させていただきます。

来週は梶井基次郎「闇の絵巻」です。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
内田百閒全集を譲ります (吉 野 修 司)
2019-12-02 19:31:06
國學院大學を50年も前に出たものです。内田百閒は私の生涯の研究でした。すでにもう必要がなくなりましたので
新輯 内田百閒全集、福武書店 33巻を熱心に研究される方に無料にてお譲りしたいと思います。横浜市まで取りにこられるかたにお分けしたいと思います。できれば國學院大學出身であればいいですが、別に出身は問いません。

横浜市旭区中希望が丘94番地  第一下渕ビル
土地家屋調査士事務所をしております。
土地家屋調査士 吉 野 修 司
TEL 045-364-9320 FAX 045-366-2728
携帯 090-3593-4551
返信する

コメントを投稿