近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

尾崎一雄「暢気眼鏡」研究発表

2014-05-24 18:53:54 | Weblog
こんにちは。
今回は5月19日に行われました、尾崎一雄「暢気眼鏡」の研究発表について、ご報告させていただきます。
発表者は3年藤田さん、2年熊谷君、2年清水さんで、司会は私、2年石川が務めさせていただきました。


今回の発表では、尾崎一雄「暢気眼鏡」論――暢気眼鏡の下にあるものという題で、
1.芳枝の暢気さと「私」の対応および心情
2.キャッチボールの暗示
3.暢気というよりも生きることに対いて真摯な芳枝
という3項目から作品を考察していただきました。

1の項目では、経済力のない「私」との生活の中で、暢気な振る舞いや過去に囚われた発言を繰り返す芳枝と、その姿をかわいそうに思う「私」の関係を、作品全体から拾い出しまとめていただきました。
2の項目では、先行論を参考に、芳枝と「私」のキャッチボールの場面がコミュニケーションの比喩であるという立場で、考察していただきました。
3の項目では、芳枝の陽気さの底流には生きることへの真摯な態度が現れているとの読みを提示していただきました。
これらを踏まえたまとめとして、芳枝の暢気さによって作品が明るくユーモラスになっていることや、私小説としてこの物語を見た場合、「私」と作者尾崎一雄、そして本文を読むことにより立ち現われる「尾崎一雄」とを並べて考えることが必要との意見を出していただきました。

このような発表を受けて、他会員からは、題名「暢気眼鏡」が決まっていたと本文にあるが、本当にそのような前提で物語が展開されているのかという指摘や、マネキンとして芳枝が働く描写の意味、「盲者蛇に怖ぢず」の象徴するものなどの意見が出て、議論になりました。
また、最後に岡崎先生から、「私」は芳枝がただ暢気なだけではないと本当はわかっていながらも暢気だと繰り返しており、幾重にも曲折した自己の心境表現であるという点や、芳枝の無償の愛を自覚しているが正直に語ることができない「私」などを解説していただきました。


次回は安部公房「デンドロカカリヤ」の読書会です。


2年石川

太宰治「逆行」読書会

2014-05-01 22:11:51 | Weblog
こんばんは。
4月28日に行われた太宰治「逆行」の読書会についてご報告させていただきます。
司会はわたくし2年清水が務めさせていただきました。

以下今回の読書会での主な論点および意見等を簡単にまとめさせていただきます。
・タイトルの「逆行」および各小品のタイトルのつけられ方について
→タイトルの「逆行」が何から逆行しているのかということや、「盗賊」ではなぜ何も盗んでいないのに「盗賊」というタイトルがつけられているのかということなどが疑問点として挙がりました。「逆行」の「行」が「行い」ということをふまえて、主人公が品行方正な行いをしていないとするならば、年を経るにつれて逆行の度合いも増し(少年時代は仮病を使って学校を休み(「くろんぼ」)、晩年には「思想の罪人」として留置所に入れられている(「蝶々」))、それによって社会との距離も開いていくのではないかということや、「盗賊」では何も盗んではいないが次の「決闘」では酒を盗んでいるため、前の小品のタイトルでそれを示唆することで各小品をリンクさせる役割を果たしているのではないかということなどが意見として挙がりました。
・主人公の「嘘」について
→ここでは作家太宰治自身についても話題として挙がりました。「蝶々」で「老人」が嘘をついていたことが強調されているのは、これは実人生のようにみえるかもしれないが物語にしている時点で虚構であるというメッセージとしての役割を果たしている表現だということや、「老人」は結局死ぬまで誰とも理解し合えなかったということなのではないかということが意見として挙がりました。
・コミカルな表現も含んでいることについて
→「盗賊」が最終的にはそれほど悲観的な終わり方になっていないことや、「決闘」の「君は正直だ。可愛い。」というセリフや「私」がひっくり返るシーンなど、ユーモラスな要素も含んでいるという指摘がありました。
・社会との交流のドラマでもあることについて
→一見社会から「逆行」しているようにみえる主人公だが、実は「くろんぼ」から遡るにつれて他人との交流が増え、むしろ社会の中に入っていっているのではないかということが意見として挙がりました。
・四つの各小品のつながりについて
→「盗賊」「決闘」間だけでなく、「決闘」で「百姓」が「懐のなかへ片手をいれ」ているシーンと「くろんぼ」の「太夫」が「ピストルをポケットに忍ばせてゐた」シーンがリンクしているという指摘もありました。

最後に岡崎先生からは、「逆行」は主人公が手痛いしっぺ返しを受け挫折感を味わうだけでなくどこか爽やかな部分も含んでいる作品であるということや、連作を読むポイントとして、各小品をもともと別の作品として考えて読む場合とまとめて一つの作品として読む場合では当然見方が変わってるはずであるためそのどちらの場合も考える必要があるということなどのご指摘をいただきました。


次回は石川淳「焼跡のイエス」の研究発表で5月12日になります。
それではみなさま素敵なGWをお過ごしください。
失礼いたします。


2年清水