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貨幣経済史黒書(連載第7回)

2018-02-04 | 〆貨幣経済史黒書

File6:中世日本の徳政一揆

 現代では貨幣経済が津々浦々に定着し、絶対化している日本社会であるが、歴史的に見ると、日本における貨幣経済の普及は遅々としていた。現時点で最古の鋳造貨幣は7世紀代に遡る銀銭であるが、都市部の商人を中心に貨幣経済が普及するのは平安時代末、日宋貿易を通じて宋銭が大量流入したことが貨幣経済を浸透させる推進力となった。
 貨幣経済が浸透した社会で最初に発達するのが金融業である点は、日本でも同様である。当初は寺社関係者や富裕な商人などが余剰資金を無担保で融資する寛大な原初的貸金業―借上―が主流であったが、当然ながら焦げ付きリスクの大きな無担保融資は商業としての持続性に欠けるため、担保を取るより本格的な貸金業者が出現する。
 業者が担保物を保管する土蔵から、土倉と呼ばれるようになったこれらの貸金業者が本格的にその政治経済的な権勢を持つようになるのは、室町時代からである。土倉の財力に目を付けた幕府は土倉への課税を主要財源とし、土倉の有力者を一種の徴税請負人である納銭方に任じて徴税を行なわせた。
 土倉は一般の商人と同様に同業者組合である座(土倉方一衆)を形成して、業界利益を保持したが、幕府の財源を担うに至った土倉層は幕府と強く結びつき、その政策にも影響力を持った点で特筆すべき地位にあった。そのため、幕府の利息制限法令も効果を発揮せず、高利貸が横行した。
 土倉は幕府膝元の京都をはじめとする自治都市でも有力な町衆として市政を掌握するようになるが、中世イタリアのメディチ家のように政治的支配力まで擁する突出した金融資本一族が出現することはなく、土倉を兼業する例が多かった酒屋と並び、集団的な権勢を持つにとどまった。とはいえ、土倉の客層は上は荘園領主から下は農民まで、あらゆる階層に及び、土倉は債権者として優位に立った。
 こうした土倉資本に対する民衆の反感が爆発したのが、15世紀代に頻発した徳政一揆であった。中でも代表的な嘉吉の徳政一揆で、馬借や農民、地侍で構成された一揆勢が農民のみならず、公家・武家を含む一国平均での徳政令の施行を要求したことにも、階級を越えた土倉資本への反感が反映されている。
 この一揆では、鎮圧を命じた時の管領細川持之が土倉から多額の収賄をしていた事実が発覚し、反発した守護大名らが鎮圧への協力を拒否するという一幕もあり、金融資本と政治権力の結託構図も露呈されたのである。
 徳政一揆は、1428年の正長の徳政一揆が記録される限り最初のものであるが、興福寺の僧で、史家でもあった大乗院尋尊が正長の徳政一揆を評して「日本国開闢以来,土民蜂起これ初めなり」と記したように、金融資本に対して決起する徳政一揆が日本における民衆蜂起の最初の形態でもあったことは注目に値する。


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