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テロ等準備罪と敵基地攻撃論

2017-04-01 | 時評

春本番にはふさわしくない不穏な表題の二題はそれぞれ治安と国防に関わるテーマであり、位相が異なるように見えるが、根底には共通根がある。それは、いずれも対象が組織犯罪なり武力攻撃なりの準備を始めた段階で国家権力を発動し、これを未然に防圧しようとする発想に基づいている点である。

理屈のみで考えれば、重大な策動を準備段階で抑え込もうとするのは合理的であるように思える。しかし、準備には様々な段階と態様とがあり、しかも重大な策動ほど準備も密行的に行なわれるから、当局がそれを的確に把握することは技術的にも難しい。ともすれば、当局側も密行的な諜報手段で対象を監視し、内情を探知する必要が出てくるし、そのためには盗聴・盗撮・電子記録盗取のような危うい手段を駆使しなければならないだろう。

その点、戦後と戦前の日本を分ける大きな特徴として、国家権力が我慢強くなったことがある。つまり、治安でも国防でも、国家権力の発動をぎりぎりまで自制するということである。戦前なら、公安を害するおそれがあるというだけで人を予防拘束することさえできたし、敵基地攻撃は攻撃的軍備を保持していた戦前なら当然の戦略的選択肢であった。

しかし、戦後は国家権力の発動を自制する論理が支配的になった。治安に関しては、実行行為の概念がそれである。すなわち何者かが犯罪の実行行為に出ない限り処罰しないという原則である。国防に関しては、厳格な専守防衛論がそうした「自制」の理念となってきた。

ここへ来て、そうした「自制」の理念が取り払われ、非常に気の早い権力発動への衝動が高まっているよう見える。その背景として、国際テロリズムとか近隣諸国の危険な軍事行動などの事象があることは理解できるが、実際のところ、そうした危険事象に対して早まった権力発動をしても効果は薄く、むしろ逆効果的である。

そうした国家の衝動を抑制する如上の諸理念が効かなくなっているなら、改めて国家権力を縛る憲法の諸原則に立ち返る必要が出てくるが、それも近年の憲法軽視の風潮により無理となれば・・・

そもそも国家という観念自体の揚棄を試みるほかはない。国家という怪物は本来、自己増殖しようとする性質を備えているものだからである。こんな言説自体が「テロ等準備行為」に該当する・・・などということにならないためにも、与野党ロー・メーカー―とりわけ与党の―には賢慮が求められる。

(補記)
自民党が先月末に政府に提出した提言では、「敵基地反撃」の語が使われているが、これは外国から武力攻撃を受けた後に、第二撃を抑止するための反撃という趣旨であって、先制攻撃ではないという。しかし、第二撃以降に関してはそれを先制抑止する狙いがある以上、これも先制攻撃の亜種にほかならない。「共謀罪」を「テロ等準備罪」に言い換えたことと同類の名称操作である。


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