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「女」の世界歴史(連載第28回)

2016-06-03 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(3)封建制と女の戦争

③戦国日本の女性城主たち
 封建的な社会体制において、どこよりも激しい内戦状態を経験した日本の戦国時代にあっても、女性城主として主体的に内戦に関与する者たちがいた。おそらく記録に残らない例まで含めればかなりあると見られるが、ここでは記録されている著名な例をやや箇条的に見てみる。
 まず最も初期の例として、赤松政則の後室だった洞松院がある。彼女は室町時代守護大名で、管領として強大な権力を持った細川勝元の娘で、弟の政元の差配により尼僧から還俗して、嘉吉の乱で一度没落した播磨守護大名赤松氏を中興した赤松政則に嫁いだ。
 しかし、男子を産めず、年少の娘婿赤松義村の後見人として、事実上の城主格となる。以後、洞松院は20年以上にわたり、自ら文書を発給し、単なる城主を越えた女性戦国大名として自他共に認めていたようである。
 だが、成長した義村と対立し、家臣の浦上氏と組んで義村を暗殺した。このような策動は、洞松院の没後、浦上氏に下克上され、赤松氏が衰亡する要因を作った。
 次いで、織田信長台頭期になると、信長の叔母でもあったおつやの方がいる。彼女は、武田、織田両氏に両属する美濃の中小国人領主である岩村遠山氏に嫁いだが、子どもを残さなかった夫の死後、信長庶子勝長を養子とし、後見役として事実上の岩村城主となる。
 彼女は、当時勢力争いをしていた武田信玄と自身の甥信長との間に入って、微妙なバランスを維持した。しかし、武田方から攻め込まれると、信長を裏切って武田方武将と再婚したことから、信長に岩村城を落とされた際、残酷に処刑される運命をたどった。
 おつやの方の同時代には、今川氏親正室の寿桂尼も活躍した。彼女は公家出身ながら、夫の死後、二人の息子氏輝、義元、さらに孫の氏真の各代にわたって後見役として実権を保持し、女性戦国大名とみなされていた。
 彼女は特に行政的な手腕に優れていたようで、夫が病床にあった頃から、今川氏家政を指導し、息子義元の時代を頂点とする今川氏の全盛期を演出した。それは外交上、武田氏との連合関係によって保証されていたが、寿桂尼の没後は武田氏との関係が断絶、孫の氏真の失政などもあり、武田‐徳川氏の侵攻を受けて没落することとなった。
 もう一人の同時代人に、遠江発祥の国人領主井伊氏の女性当主井伊直虎がいる。彼女に関する史料は乏しいものの、宗家が今川氏の攻勢により存亡危機にあった時、一度は出家した身から還俗し、男性名直虎を名乗って、当主となったとされる。
 直虎は「女地頭」の異名をとるほど、領国経営で手腕を発揮するとともに、今川、武田の両雄の狭間にあって、何度も本拠井伊谷城を奪われながら、そのつど奪回・復権してみせた。彼女は、当時台頭していた徳川家康と結ぶ先見の明もあったことから、井伊氏は弱小ながら徳川譜代に昇進し、近世には彦根藩を領する譜代大名筆頭に列した。
 以上の例は、いずれも当主幼少等の事情から家系継続のため中継ぎ的に登場した女性城主たちであったが、九州の有力武将家立花氏のぎん千代は7歳にして正式に立花家女性当主となった稀有の例である。当時の立花氏は九州の有力大名大友氏の配下の城督という方面司令的立場にあった。
 ぎん千代は動乱状態の九州にあって、自ら女性軍団を組織したと言われるほど、戦士的な性格もあったようである。彼女は短命ながら、立花氏を主家大友氏から独立させるうえで貢献した。不仲だった婿養子の夫宗茂は関ヶ原の戦いで西軍につきながら赦免され、旧領で復権した唯一の大名となり、立花氏は近世柳河藩の大大名に栄進した。
 こうした女性城主の最後を飾るのは、豊臣秀吉側室の淀殿である。よく知られているように、浅井氏から秀吉に「保護」されて側室となった彼女は、秀吉死後、実子秀頼の後見役として、事実上の大坂城主格となる。彼女の生は徳川時代初期にまでまたがるが、形としては、戦国時代型の女性城主である。
 淀殿の政治手腕については賛否があるが、少なくとも、権力を確立しつつあった徳川氏に対して挑発的な姿勢を貫いたことは、幕府の豊臣討伐を早める契機となったであろう。
 その点では、城主ではなかったが、秀吉正室の高台院が交渉力に長け、豊臣家滅亡後も徳川氏から丁重に遇され、兄と甥は秀吉から与えられた木下姓のままそれぞれ西日本の小大名として存続を許されたのとは対照的である。


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