ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

不具者の世界歴史(連載第14回)

2017-04-18 | 〆不具者の世界歴史

Ⅲ 見世物の時代

芸人としての障碍者
 不具者が悪魔化された時代とまだ並行する形ではあるが、欧州では障碍者が娯楽としての見世物に動員されるような潮流が起きてくる。大衆芸能の誕生である。大衆芸能のすべてが障碍者によって担われたわけではもちろんないが、初期大衆芸能で、障碍者は重要な役を演じた。その中心は、重度身体障碍者である。
 例えば、イタリア人の結合双生児ラザルスとヨアネスのコロレド兄弟は欧州各地からトルコまでツアー活動をした。英国チャールズ1世の宮廷にも招聘されたかれらの活動はまだ大衆芸能として明確な形を取っていなかったが、かれらより少し後の世代になるドイツ出身の芸人マティアス・ブヒンガーは、障碍者大衆芸人の草分けである。
 ブヒンガーは生まれつき両手両足を欠く重度障碍者であった。そのような障碍にもかかわらず、彼は練達の手品師でもあり、カリグラファー(西洋書道家)、楽器演奏家でさえあった。彼は当初、北ヨーロッパの王侯貴族相手の芸人として活動した後、渡英し、ジョージ1世の御目見えを願うも実現せず、アイルランドに移って大衆芸能活動を開始したのである。彼はたちまち大人気を博し、時の人となった。
 ブヒンガーは重度障碍にもかかわらず、四回結婚し少なくとも14人の子を残したほか、多数の愛人との間にも婚外子を残したと伝えられるほど、私生活もまさしく派手なる芸人であった。おそらく現代まで含め、ブヒンガーは障碍者芸人として最も成功した人物である。
 こうした障碍者芸人をはじめ奇抜な見世物で大衆を沸かせるショウはフリーク・ショウと呼ばれるようになるが、フリーク・ショウの発祥地はテューダー朝時代の英国だったと言われている。その後、フリーク・ショウは資本主義の発達とともに、19世紀の英国と米国で隆盛化し、ショウ・ビジネスとして確立されていく。
 その時代のことは後に別の形で言及するが、こうしたフリーク・ショウに動員される障碍者は上述のように重度身体障碍者が多かった。これは、重度身体障碍者の外見が悪い意味で大衆の興味を引いたからにほかならない。
 その面だけを眺めれば、フリーク・ショウは現代的基準では人権上も人道上も許容できない障碍者差別的な興行と言えるが、障碍者福祉の観念もなく、まだ悪魔化の時代も去っていなかった状況下、それまではほぼ自宅に閉じ込もるか、最悪抹殺されていた重度障碍者たちにとって、大衆芸能は生き延びる手段であった。
 その意味では、フリーク・ショウは障碍者にとってはある種の「社会参加」の萌芽であり、それが隆盛化していく時代―見世物の時代―とは、障碍者を「保護」する次代への架け橋ともなるような新時代であったとも言えるのである。


コメント    この記事についてブログを書く
« 不具者の世界歴史(連載第1... | トップ | 不具者の世界歴史(連載第1... »

コメントを投稿