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不具者の世界歴史(連載第11回)

2017-04-04 | 〆不具者の世界歴史

Ⅱ 悪魔化の時代

心を病む君主たちの苦難
 現代では為政者の在職要件として心身の状態が執務に適することを法で定めることが多いが、前近代にあっては世襲の君主制が圧倒的に多く、そこでは執務能力より血統が優先されたため、精神疾患を発症した君主を廃位することは容易でなかった。
 中世ヨーロッパではしばしば精神障碍に苦しむ大国君主が現れたが、いずれの治世も困難を極め―逆に、国難が精神疾患の発症・増悪にも作用したかもしれない―、国の歴史を大きく変える契機となっている。ここでは、そうした四人の君主を取り上げる。
 まずは「狂王」の異名を持つフランスのヴァロワ朝第4代シャルル6世である。シャルルは12歳ほどで即位したが、20歳を過ぎた頃から精神疾患の症状を示すようになった。年代記にはその異常な言動が多く記録されているが、自身がガラスでできているとか、自分を聖ゲオルギオスであるなどと錯認する妄想、自身や王妃の名前や顔を失念するといった記憶喪失、被害妄想による下僕への暴力などが見られる。
 シャルルの症状は改善と悪化の波を繰り返しながら、結局40年以上在位したが、当然執務は取れず、宮廷はブルゴーニュ派とアルマニャック派の二大派閥に分裂し、熾烈な権力闘争から事実上の内乱に陥った。
 それに付け込んでフランス王位を主張し介入してきたのが百年戦争の相手イングランドであり、時のイングランド国王ヘンリー5世はフランスを破ってシャルル6世の娘を娶り、フランス王位を認めさせることに成功した。
 ところが、ヘンリー5世は間もなく世を去り、後を継いだのが幼少の息子ヘンリー6世であったが、このヘンリー6世も精神疾患に苦しんだ。ヘンリーは温和な平和主義者であったが、30歳を過ぎた頃から統合失調症と見られる症状を示すようになり、内に閉じこもり、周囲の状況に反応できなくなった。
 ヘンリーの症状にも波があったが、彼もまた母方の祖父に当たるシャルル6世と同様、中断をはさみ40年に及ぶ長い治世の中で指導力を発揮できず、ランカスター派とヨーク派の内戦が激化した。政治の実権はマーガレット王妃に握られた末、英仏戦争にも敗れ、自身も内戦渦中で敵のヨーク派の手に落ち、廃位のうえ最期はロンドン塔に監禁され、死亡した。
 他方、大帝国を築く直前のスペインでは、「狂女フアナ」の異名を持つフアナ女王が知られる。彼女はスペイン王国の基礎となったカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の結婚で生まれたまさにスペイン誕生の所産であった。
 女王はハプスブルク家出身のブルゴーニュ公フィリップを王配としたが、美男子をもって知られた夫の浮気を契機に精神疾患の症状を示すようになり、夫の急死後に症状は悪化、夫の埋葬を許さず、棺を馬車に乗せて国内を流浪するような常軌を逸した行動を示したため、父により修道院に幽閉され、死去するまで40年以上を過ごした。
 ただ、フアナとフィリップの息子カルロス1世は1516年以降、母の存命中から共治の形で実質的に政務を取っており、強力な手腕を持つ彼の治下で「太陽の沈まない」スペイン大帝国が築かれることになる。
 このカルロス1世に始まるアプスブルゴ(ハプスブルク)朝スペインは17世紀まで続いていくが、その最後の王が1世と同名のカルロス2世であったことは歴史の皮肉であった。このカルロス2世には重複障碍があった。
 残された肖像画からも極端に顎の長いカルロス2世は先端巨大症と見られるほか、精神障碍に知的障碍も合併していたと考えられている。時の人はこうしたカルロスの重複障碍を悪魔化して「呪われたもの」と冷たくまなざしていたが、それを理由に廃位することはできなかった。
 カルロスはまともに執務できず、3歳で即位した彼の治世の大半を母のマリアナ王太后が摂政として政務に当たった。彼は二度の結婚によっても世子を残すことはできなかったため、死の直前の遺言により、ブルボン朝フランス国王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップに譲位するとした。これにより、フィリップがフェリペ5世として即位し、以後のスペインはボルボン(ブルボン)朝となる。
 しかし、このフランス主導の王位継承に異を唱えた本家のハプスブルク朝オーストリアは反仏派のイギリスやオランダを引き入れてスペイン‐フランスに対し、戦争を発動する。これが北アメリカをも舞台に1714年まで続いたスペイン継承戦争である。


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