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貨幣経済史黒書(連載第6回)

2018-01-14 | 〆貨幣経済史黒書

File5:メディチ銀行の破綻

 近代的な銀行の原型となったのは両替商であるが、とりわけ今日銀行を意味する「バンク」の語源を成す「バンカ」(banca)は、フィレンツェの両替商が業務に使用した机のことを指したとされるほど、銀行と両替商との歴史的な関わりは深い。中でもまさに中世フィレンツェは両替商が政治的にも支配的な金融都市国家であった。
 その頂点を成したのがメディチ家である。メディチ家の起源は欧州系名族の中でもとりわけ不詳な点が多く、医師を意味する家名と商業で成功した事績に照らせば、元来は医師を兼ねた薬売りだったと推測される。実際のところ、メディチ家は銀行業を開始する以前、様々な商品を扱う多角化商法で富を築いていた。そうした蓄積を元手に両替商に転じて大成功を収める。
 メディチ家の台頭過程そのものはここでの論外であるので、先を進めると、14世紀に銀行家として確立したメディチ家は、フィレンツェの都市政治をも支配するようになる。中世イタリアには強力な君主が存在せず、諸都市ごとに寡頭制的な民主主義が行なわれていたことも好都合であった。
 メディチ家は自派が多数派を占めるよう選挙過程を操作して市会を牛耳り、ギリシャ風の僭主として正式の公職に就かないまま市政を専制支配する体制を作り上げたのであった。その全盛期は15世紀後半に出たロレンツォの時代である。
 ロレンツォはルネサンス芸術のパトロンとして壮大な文化事業で知られ、フィレンツェは当代随一の文化都市として名を残すも、その内情はメディチ家独裁の暗黒政治であり、反対派は容赦なく弾圧された。同時に「大ロレンツォ」の通称で称えられる彼の時代こそ、メディチ銀行が破綻危機に瀕した時代であった。
 メディチ家では当主が実質的な職業政治家に転じる中、本業の銀行は支配人任せとなっていた。すでに銀行はイタリア主要都市から、ロンドン・リヨン・ジュネーヴ・ブルッヘなど外国主要都市にも支店網を拡大し、欧州随一のメガバンクに成長していたが、情報管理システムが致命的に不備な時代、こうした広域での業務拡大は各支店支配人の専横を招きがちであった。
 破綻はまずリヨンとロンドン支店に始まり、ブルッヘ支店にも及ぶ。さらに「大ロレンツォ」の文化事業は企業メセナの先駆けの側面も認められる一方、度を越せば銀行にとって浪費以外の何物でもなかった。
 ロレンツォは都市の公金を横領・私物化するクレプトクラシー(泥棒政治)にも手を付け始めた。銀行の不良債権も巨額に上ったが、ロレンツォとその早世後、彼を若くして継いだ息子ピエロの代になると、当主にはもはや銀行家として経営再建する才覚は備わっていなかった。
 政治家としては手腕を持っていた父とは異なり、ピエロは「愚か者ピエロ」という不名誉な渾名を付せられるほど、政治家としても手腕に欠け、人望もなかった。結局、彼はフランス軍の侵攻を許した不手際によりフィレンツェを追われ、流浪中に溺死して果てた。家業メディチ銀行もピエロとともに破綻し、銀行家メディチ家支配のフィレンツェは終焉する。
 その後、生き残りに長けたメディチ家は傍系一族によって再興され、フィレンツェを都とするトスカナ大公国を建設するが、これはもはや銀行家メディチ家の支配ではなく、貴族メディチ家の支配であり、金融支配力という担保はなかった。 
 銀行家メディチ家支配下のフィレンツェは金融資本による直接的な支配という点では、金融資本が巨大化した現代でも類例を見ない独異な事例であるが、それは銀行の盛衰と運命を共にする寡頭的専制政治であった。金融資本の政治的影響力が増す状況なら、現代でもあり得る先例である。


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