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近代革命の社会力学(連載第32回)

2019-10-23 | 〆近代革命の社会力学

五 ハイチ独立革命

(3)革命の初動とブードゥー教  
 近代の入り口となる18世紀以前の近世期革命では、革命を起動させるうえで何らかの信仰が精神的な力動となるが、ハイチ革命の場合は、ブードゥー教であった。ブードゥーは、元来西アフリカの民間信仰で、当地から連行されてきた黒人奴隷がサン‐ドマングに持ち込んだものである。  
 本来のブードゥーは教義や教典もない、宗教というよりは古来の民間信仰であるが、サン‐ドマングでは、カトリック系の白人支配層がブードゥーを邪教として禁圧した。それでも、ブードゥーは過酷な奴隷生活を支える霊的な基盤として奴隷たちの間で生き続けるとともに、部分的にはカトリックとも習合し、独自の発展を示した。  
 こうして、言わばハイチ・ブードゥー教と呼ぶべき新たな宗教が成立した。特に、法外の存在であった逃亡奴隷集団マオゥンがハイチ・ブードゥー教の発展に寄与したと見られ、本来は組織性のない民間信仰であったブードゥー教に上級と下級の二階級を持つウンガンと呼ばれる司祭の制度も形成された。  
 ブードゥー教がハイチで政治性を帯びたのは、革命前の18世紀半ば頃、逃亡奴隷出自のウンガンであったフランソワ・マッカンダルが逃亡奴隷の組織化を主導した時である。元来マオゥンは白人農園を襲撃・略奪するアウトロー集団にすぎなかったが、マッカンダルはこれを政治性を備えた武装組織に発展させた。
 彼は農園の黒人奴隷たちともコンタクトを取り、逃亡奴隷と現役奴隷のネットワークを結成し、現役奴隷の協力・手引きのもと、農園を襲撃するのみならず、飲食物に毒を仕込んで白人農園主らを殺害するというテロ手法で数千人の白人を殺害した。  
 マッカンダルが革命を企図していたかどうかはわからないが、白人を殺害するために現役奴隷をも組織化した彼は、ある種の「革命」を夢見ていたのかもしれない。しかし、このようなテロ手法は長続きせず、当然にも事態を重視した植民地当局によって捕縛され、火刑に処せられた。  
 マッカンダルの処刑は1758年と記録されている。この時代、本国フランスでも革命はまだ30年先であり、マッカンダルの「革命」は時間的に早すぎたのだった。しかし、彼の記憶は残り、残党のマオゥンは散発的に武装活動を続けていた。  
 そうした中、フランス本国で革命が勃発する。しかし、サン‐ドマングの白人支配層は反革命派であったから呼応はしなかった。フランス革命の1789年から二年遅れで決起したのは、またもやブードゥー教ウンガンのデュティ・ブークマンに指導された奴隷たちであった。  
 ブークマンもマッカンダルと同様、マオゥンの指導者であったが、マッカンダルとの違いは、より戦略的であったことである。彼は1791年8月、ブードゥー教の儀式を大々的に挙行し、そこで奴隷たちの蜂起を雄弁に訴えたのである。反乱軍は、たちまち奴隷制農園が集中する北部全域を占領した。  
 植民地当局は11月にはブークマンを捕らえて処刑し、見せしめのため首をさらしたが、効果なく、奴隷反乱は全体規模のものに発展した。ハイチ革命の本格的な始まりである。革命の初動は、弾圧を生き抜いた“邪教”ブードゥー教の力によったのである。

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