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「女」の世界歴史(連載第11回)

2016-02-23 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

③中国の宦官制度
 去勢された男性官吏・官僚としての宦官の制度は、先述したように、オリエントから古代ギリシャ・ローマ、さらにイスラーム世界(特にオスマン帝国)でも広く見られたが、中国王朝が歴史的に最も幅広く宦官を活用した。
 前回見たように、中国では伝統的に女権忌避が強い反面で、去勢され半女性化された男性が官吏・官僚として重用されたことは、女権忌避と宦官選好の間に何らかの内的な関連性があることを窺わせる。
 中国における去勢は元来、重罪に対する刑罰として用いられたが、これを宮刑とも呼ぶように、去勢は宮廷で労役に従事することと結び付けられていた。おそらく男子禁制の後宮付き奴隷としては去勢された男性が風紀上ふさわしいと考えられ、主に後宮に勤めたのが起源と見られるが、実際のところ、女官と宦官の間の密通は絶えなかったと言われる。
 しかし古代中国では宦官が後宮のみならず、表の宮廷でも実務官僚として力を持つようになった。その代表的な先例は秦の2代皇帝胡亥の時代に専横した趙高である。彼は始皇帝の寵臣として台頭し、始皇帝の死後、聡明な長男の扶蘇を後継指名していた遺言書を改竄して、自身が守役を託されていた暗愚の末子胡亥を擁立したうえ、丞相に就任し、胡亥を傀儡化して独裁権力をほしいままにした。秦がわずか二代で滅亡した原因を作った張本人とされる。
 秦に続く前・後の漢の時代にも宦官は権勢を持ったが、特に後漢では幼帝が多く、皇太后を戴く外戚の力が増大したことから、外戚への対抗勢力として宦官が対置されたことで、宦官集団の権勢が強まり、政治を左右するまでになった。後漢末になると、宦官集団は彼らに批判的な改革派官僚集団に対する大量粛清(党錮の禁)を二次にわたって断行した。こうした宦官勢力の専断は後漢の滅亡要因の一つとされる。
 宦官跋扈への反省から、後漢末の群雄実力者袁紹は宦官の大量処刑を断行し、宦官勢力を壊滅させた。袁紹に勝利した曹操が実質的に建国した魏でも宦官は抑制されたが、消滅することはなかった。
 唐の時代に宦官は再び活用されるようになる。玄宗皇帝の寵臣高力士はその代表例である。彼も強大な権勢を持ったが必ずしも専横的ではなく、玄宗期後半の動乱の要因でもあった楊貴妃の処刑を皇帝に直言し、受け入れさせたのも彼であった。しかし、唐末になると、後漢と同様、宦官の専横が目立ち、衰亡の要因となった。
 こうして宦官の権威が強まると、自ら志願して宦官となる自宮者も増大し、五代十国時代の十国の一つ南漢(広東地域政権)のように、人口100万人中宦官が最大2万人にまで達する極例すら現われた。こうした自宮者の増大に伴う宦官の多用は明の時代に最盛期を迎え、10万人に達したとも言われる。ちなみに明の永楽帝時代に南海大航海を指揮したムスリム出身の提督鄭和は自宮者ではなかったが、宦官であった。
 結局、中国王朝では満州族系の清の時代に至り、宦官が本来の任務であった後宮の后妃の世話をする下級職に限局されるまで、宦官の権勢が絶えることはなかった。なお、宦官が最終的に廃されたのは、辛亥革命後、1924年の軍閥馮玉祥のクーデターにより廃帝溥儀が紫禁城から宦官・女官もろとも追放された時であった。

補説:中国の同性愛慣習
 宦官制度とは別に、中国では古くから男性同性愛に対して寛容な慣習があった。実際、漢の歴代皇帝の多くが複数の男妾を持ち、彼らの中には皇帝の寵愛を背景に重用され、政治的な権勢を張る者も少なくなかった。
 中でも前漢12代哀帝は寵愛する男妾の董賢を政治的にも重用したことで知られる。男色の隠語「断袖」は、哀帝が自分の衣の袖の上で共に寝ていた董賢を起こさぬよう、董賢の寝ている側の袖を裁断させたという故事によるものである。
 こうした男色習慣は宮廷の文武官や地方豪族・商人層などにも広く見られたようであるが、皇帝も含め、彼らの多くは同時に子を持つ妻帯者で、女性の妾を持つこともあり、厳密に言えば両性愛者だったと言えるだろう。
 さらに、福建省には珍しい男性同性婚の風習があった。これは「夫」役となる年長男性が婚資と引き換えに年少男性を「嫁」として婚姻関係を結び、時に養子を育てることもあったという。ただし、これは現代の同性婚とは異なり、両男性がいずれ女性と正式に婚姻するまでの準備的な前婚のような風習だったようである。
 こうした中国古来の同性愛慣習は西洋からキリスト教宣教師が到来する明末頃から、同性愛を「反自然的」な罪悪とみなすキリスト教的価値観に影響されて廃れ始め、清の時代には同性愛行為を処罰する法律が制定されるに至るのである。

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