ザ・コミュニスト

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脱パワーゲーム

2013-11-23 | 時評

特定秘密(国家機密)保護法案の与野党修正協議が大詰めを迎える中、法案への全面反対運動も起きているが、政府が弁明するように、こうした法制を持つこと自体は世界の主要国の慣わしとなっている。

世界の主要国とはつまり軍事力で担保された国際パワーゲームの参加者であり、国家機密保持とはちょうどトランプで、自分の手持ちカードは見せないというゲームのルールのようなものである。その際、表現の自由云々といった「正論」は棚上げとなる。

かつては秘密外交がむしろ常識であり、公式条約でさえ秘密にされた時代もあったが、第一次世界大戦後、少なくとも表向きは秘密外交の排除が提起され、秘密条約は認められなくなった。

それでも、公式の条約化を回避する形での秘密外交は依然として廃絶されず、程度の差はあれパワーゲームの手段として世界中で行われており、そうした非公式の秘密外交を担保するための機密保護法制も、機密指定・解除の方法等に技術的な違いはあれ、珍しくない。

これまで戦後日本がこうした法制を持たずにきたのも、政府が表現の自由の保護に特別熱心であったためではなく、従来は米国の外交的・軍事的庇護下にあって国際パワーゲームの主役の地位になかっただけのことである。戦前、日本もパワーゲームの主役だった頃には、最高刑を死刑とする「軍機保護法」のような苛烈な機密保護法制を備えていたのである。

今になって「同盟国(米国)との情報共有」という名目で機密保護法制を再び備えようとしているのは、21世紀に入って米国の覇権が揺らぐ中、ある意味では米国が日本にも一定の「自立」を求めてきている証左とも言える。その限りで、米国の承認の下、日本も再び国際パワーゲームの準主役級に昇格させてもらえる状況にあるわけである。

国際政治外交の本質が諸国家間における自国の国益確保・拡大を目的とした影響力を巡るパワーゲームである間は、秘密外交の現実は変わらないだろう。

そうした現実を変革し、「脱パワーゲーム」の恒久平和を展望することは、「理想主義」として一笑に付される。世界各国の支配層・主流国民は「現実主義」という名の思考停止にどっぷりと浸っているからである。

たしかに、理想を現実のものとするには、国家という枠組みに拠って人類が地球上に分散・対峙するという当面の体制そのものを変革するという大仕事が必要になるだろう。

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