こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年5月25日 水曜日 1987-1990 空っぽの時空

2011-05-25 21:03:19 | スケッチブック

【アラーキー 「東京物語」より】

1987年3月、何の運命か1つだけ偶然としか言いようの無い引っ掛かった大学合格。

では、1つの苦しみは終えたのか?
と言えば、ある種の意味ではそうだったが、周囲が迫ってくる幻覚に襲われることは終わっていなかった。

弛緩剤を呑むと、カラダのチカラが抜けて、ろれつも回らないようなラリった状態になる。
それが、ごまかしであり、本質的な解決で無いことは重々承知だった。
しかし、そうするしか方法は無かった。

他人をうらやんだ。
普通に過ごす人々を。
なぜ、自分だけが、こういう思考のスパイラルの穴に入り込んで出られないのか?
どうして、きちがいのような日常を、しらーっとした顔をして過ごせるのか?
本心から疑問に思った頃。

***

晴れて、何もしないでも良い状況は救いだった。
ただ、自分にとっての音楽シーンは、1986年に一旦終わっていた。

何もしないでも良い状況と同時に空っぽの時空を与えられた、
そんな感じがした。

肉感が無い、とでも言うのだろうか。



その中でもあらがいとして、毎日毎日絵を描いていた。
あらゆる道具を使って、手を汚した。
しかし、大して良いと思えるものは出来なかった。
それでも、毎日毎日描いた。



むかし、三ノ輪に住んでいた頃、物干しから下町の家並みと空を見ていたことを、よく想い出しては「あそこに戻りたい」と思った。
それは、かなわないことはわかっていたが。
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2011年5月24日 火曜日 ピー助

2011-05-24 20:04:40 | 想い出かたちんば
大学の頃、ピー助は産まれた。
・・・ように思う。

庭に来ていたシロクロの野良猫メスのヒッキーちゃんと、同じ野良猫の大ボスのオスのシャム猫のかけあわせで、ピー助は産まれた。

何匹か産まれた中で、拾い上げたピー助。

母から離れて、母乳を受け入れないピー助には、当時、鶏がらスープを作り、スポイトでピー助を抱いて与えた。

そのせいで、産まれたときに欲したものが刷り込みになったのか?生涯ピー助は鶏を好んで食べた。

シャムの血を引いて、決起さかんに野良猫と血まみれになるまでよくケンカをした。
やんちゃなネコだった。

大学時代、描いた絵が出てきた。
ピー助を抱いた自分。
当時は、まだ髪があった。
相棒として、よく遊び、よく抱いた。

バックは当時よく行った草加付近の工場のエントツ。

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2011年5月23日 月曜日 雨の夜の望楼

2011-05-23 23:04:11 | 想い出かたちんば
昨夜は、0:00に床に入ったのに眠れず。

3:30までのたうちまわる。
頭の中は鬱になるような雑念渦巻きやまなかった。

7:30厳しくだるい起床。

目玉焼き、ナメコ汁、チオビタ、緑茶。

つくばへ向かうが、京浜東北線飛び込みの影響で、JR内で20数分ストップしたまま。
じたばたしても始まらないので寝る。

AMつくばの方々を歩き、話し、13:09の常総線に乗り都内に戻る。

途中で昼食。
最近、昼ご飯を食べると調子が悪くなる。

14:40都内仕事場に戻り、泥の中のムツゴロウ。

配分を考え、雨の中21:58に乗る。

***

さくりんさんへ

こちらも『ブルー・マンデイ』。



「持続力途切れ、逃避中(+_+)」
そういう時間は大事。

カフェやそういう時間の隙間を見つけて生きていかないとね。



私は、そういうのが下手くそですね。

趣味が懲り過ぎて、趣味では無くなってしまうという、神経症にはありがちなパターン。

『あの時期に、むせるほどの音・音に触れたことが支えになっているのは誰にも曲げようがない。』

自分はラジオも義務感に駆られて録音を随分としてきました。
80年代初頭、毎週日曜日のFM東京で、来日アーティストのライブを放送していました。
しかし、ロクに聞かす、テープが無くなる差し迫った際に、『貴重なはずだったライブテープ』を放棄して、上から録音するはめに…。
必死でチューニングし、FMアンテナの感度を分厚いヘッドフォンで慎重にあやつって録音に付き合った時間はゼロへ。

クラッシュ、プリテンダーズ、ゴーゴーズ、ピッグパグ、クラシックス・ヌーボー、ロキシー・ミュージック、下手くその極致だったニュー・オーダーの日本公演などなどが消去された。

まあ、よく考えれば『ロック恐怖症』の自分が、スタジオ録音のレコードを上回るライブに出会うこと自体、確率的に『打率』は低かったです。

ライブに、アルバムには無い価値を見い出だしたのは極めて少ない。
今、手元に残るは、

●トーキング・ヘッズの奇跡的にカッコ良かった日本公演のライブ。
●アッコちゃんの『また、会おね。』ライブ。
●坂本龍一&B-2UNITSライブ。
●YMO、幸宏、ジャパンの一連のライブ。
●ファンカラティーナの南洋色満載の頃のカルチャークラブのライブ。

結局、色んなライブを録音しながら『コレだ!』というものはそれくらいです。



何でも知ったかぶりをせずにはいられず、得た知識を口にするも、兄に言葉であっという間にねじふせられ、落胆した日々。

まさに、背伸びしては叩かれ、生意気言っては叩かれという具合でした。

若き日の望楼。。。。。。
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2011年5月23日 月曜日 世の中が切り捨てる物

2011-05-23 19:32:17 | スケッチブック
大竹伸朗という反逆児。
この人の発言で特に気に入っているのが「人間がある生活の瞬間の判断でゴミとして捨て去るもの。
実は、その捨てたゴミの方に何か真実が眠っているような気がする。」

さかんにゴミを拾い漁り、それを貼ったり、塗ったり・・・
そういう作品が大竹さんの作品には多い。
しかし、それに費やされた時間の濃さが作品の濃度を深める。



なかなか自分らが見ることの出来ない作品に、彼のライフワークであるスクラップブックがある。
ここには、例えばプラモデルの本体を作る為のパーツを切り取り終えて捨てられた残った「型」が貼られていたりする。
興味深深で、このスクラップブックを正直盗めるものなら盗みたい。



そうだ、盗みたい、という衝動こそが、自分(セルフ)が持つチカラかもしれない。
盗みは、法律上「違反」を意味するが、そういう盗みたいくらいの衝動こそが信じられる。
下着ドロボーは、どうしても下着を見たら盗みたくなる衝動が起きる。
それは実に、人間的なあまりに人間的な、原始的衝動。
それをしたら、世の中が乱れるからと、禁忌として法律があるだけの事で、それを思うこと・やることが「おかしい」「きちがい」というのは、そう言う方がおかしい。
已む無く法律は制御として設定されただけの事である。

鉄道好きの「鉄ちゃん」や、コスプレや、アニメにしろ・・それらが単に法律の外側にあるだけで、本質は一緒なのだ。

***

思えば歴史というものも、勝者が言う事・勝者にとって都合の良い事だけで形成されている。
敗者側にあった事実は、切り捨てられる。

様々な物事が今まで捨てられてきたのだ。

ゴミが宝に見えるという大竹さんと同じ感情を抱く場面は多々自分にもある。

自分が溜め込んだ宝物も、親が見ればゴミにしか見えず、よく小学校の頃、帰ってきたら、その宝物を親がゴミだと思って捨てられて泣いた想い出がある。

先日、母の日に家族一同集まった際に、昔ばなしになった。

兄「お前はよくネジを一杯拾ってきたよな。あと、人のラヴ・レターとか。
いつも、地面を見て歩いていた。」

家族は大笑いになったが、自分でも忘れていた記憶が他人によってよみがえる。
確かに小さい頃から、よく地面を見て歩いていた。
よく色んなものを拾っていた。

ラヴ・レターは、三ノ輪の駅の出口で拾った。



そして、色んな宝物としての、他人にはゴミで溢れかえり、実家を充満して収まらなくなったので、自分の家をほかに設けて、引越しをした訳である。

余りにもの物量に、引越しをし終えた業者のバイト君らは、いぶかしい表情をしていた。

そのなかの1人が自分に声を掛けてきた。
「何か、お店かなんか開いている人なんですか?」

1人で引越しをした人でこんな物量を運んだのは初めてだと言っていた。

***

1990年。
既にニューウエイヴは終焉し、昭和も歴史を閉じた。




【アラーキーの名作「東京物語」 1989年4月29日】

実に平坦でつまらない時代の訪れ。
「平成」という自堕落で堕ちて行く時代の始まり。

そういう中、東京湾岸を「東京ウォーターフロント」とか言って、再開発が始まっていた。
都市博が開かれるはずだったその地は、都知事になった青島が開催中止を宣言し、中途半端な残骸が転がる荒地。

そこで自分はよくアルバイトをしていた。

当時、見ることは出来なかったが、倉庫が沢山ある「東京ウォーターフロント」の1つ寺田倉庫はギャラリーだった。

そこで、大竹伸朗の展覧会とデヴィッド・シルヴィアンのアンビエントとラッセル・ミルズのアートのコラボレーションが開かれた。

下記は、そのアート展を紹介する貴重な当時のTV動画。

Shinro Ohtake/David Sylvian&Russel Mills interviews on Japanese TV
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2011年5月22日 日曜日 ZELDA特集5「開発地区はいつでも夕暮れ」

2011-05-22 17:09:57 | 音楽帳
12:30MZ師の電話に起こされる。
ひたすらだるいので寝ていた。

ノドがカラカラ。
近くのスーパーに行く。
ぬめぬめした生暖かい空気。
そして、気味悪い風が吹いている。



冷たいウーロン茶のボトルと食材を買って帰り、食べて飲む。
自分が思っているほど量を食べられない。
土日には、必ず1~2kgは減る。

室内は密閉で暗い。
しかし、暑いので已む無く、少し窓を開けるが、そこから風が入ってきて、スクリーンをバタバタさせる。
放射能風と思うと、怖い。

実に暗い日曜日。

原稿をしたためていると、スコールのような放射能雨が降り出す。



外にも出ることははばまれる。
余計に地下生活者のような暗い心境になる。

***

~ゼルダを巡る時代の断片メモ 2~

さくりんさんのゼルダのお便りには、色んCUEが潜んでいる。
自分も、1枚目のアルバム「ZELDA」を改めて聴く。



A面1の「真暗闇 -ある日の光景-」は、イントロのギターがえらいカッコイイ曲。
このギターのエコー感覚は、エコー&ザ・バニーメンを想起させる。
小嶋さちほさんのベースが、かなり強めに強調されたミキシングがされている。
「密林伝説」もそうだが、かなり土俗的であり、闇の持つ力が潜んでいる。

「街はま~っくら 街はまっしろ」

A面3の「開発地区はいつでも夕暮れ」はさくりんさん同様大好きな曲です。



平和を買いに行くけど それは高くつく
平和を買いに行くけど それは高くつく
開発地区は いつでも夕暮れ
夜になれば 風が 彼等をふぶく



佐代子ちゃん・さちほさんの、本当に東京の空気を吸い・東京を体現したところからしか産まれない音楽。

藤沢映子さんの「ZELDA物語」にこういう記載がある。
森田芳光の監督作品映画「家族ゲーム」(1983)で工場の煙突が並ぶ風景の家からのシーンで松田優作が言う。
「きみは、こんなところに住んでいていいなぁ」。



東京生まれの東京育ちの佐代子ちゃん。
「・・コンビナートや車を、自然を汚すものだとはわからずに、単純に子供の感性でそれがキレイと思っちゃう」(高橋佐代子)

***

1978年辺りからの東京ロッカーズにハマってしまった小嶋さちほさんは、
モモヨの言動に惹かれて、感性を一にして、先鋭的カルチャーを創るべく、ミニコミ誌をつくる。
それは、まったく当時の音楽雑誌にも載らない日本のアンダーグラウンド・シーンを紹介する「ロッキン・ドール」。
10ページ程度の手書きのコピーで50部発行。
それをギグに来る人に売りつける。
そこがスタート。

そして紅蜥蜴→リザートと行動を共にする日々。
その後、1979年「チェンジ2000」というミニコミ誌をつくる。
こちらは中綴じ20ページで1500部、ちゃんと200円という価格が付けられる。

「ロッキン・ドール」と「チェンジ2000」の部数・ページ数を比較すると、シーンがその間に大きくなっているさまが想像される。


【「チェンジ2000」の2000とは当然、西暦2000年の世紀末を意味している。】

小嶋さちほさんという人は不思議で、黙っている写真だけ見ると、かなり怖い人という印象を抱くが、「東京タワー」でのかわいい歌い方・ヴォーカルの声、そして「午後のサウンド」(1986年4月~)を通じてなんとも親しみのある柔和で優しい人と分かる。
表現者と表現は別だが、それが、まさに言える。
しかし、本人の優しさと表現を追及する姿勢とのギャップがとても大きい。

「チェンジ2000」は、シーンを代表する支持を受けるミニコミ誌となってったという。
その後、1979年「東京ロッカーズ」のライブ盤がCBSソニーから発売されると、さらにシーンは大きくなる。

しかし、お金は無かった。
ライブ・ハウスでギグをしても、そのお金では活動には足りない。
さちほさんは、1人1万円づつ渡して、残りをツアーの移動費・ビラ、チラシ代・練習スタジオ代に充てる。

佐代子ちゃんは喫茶店でアルバイトをし、小嶋さちほさんは、ミュージック・マガジンでアルバイト。

ゼルダの最初のシングル盤は、さくりんさんが好きな「アシュラ(Ashu-Lah)」。
しかし、小嶋さちほさんは、ギグをやることだけ考えていて、レコードを出す気はさらさら考えていなかったという。


【「アシュラ(Ashu-Lah)」自主制作シングル発売記念のギグのチラシ。】

何か世の中のコンテストに出るだの、より目の前に集まりギグで聴いてくれる相手しか視野になかった。
そして、その背景に、さちほさんの極度のマスメディア、メジャー・システムへの不信感があったという。

(*しかし、皮肉なことは、後に信頼していたモモヨがメジャー・デビューの1stアルバムの制作の中で、敵のような存在になってしまった。
そういう状況に、仲間からもファンからも批判の声があったという。)

そんなことはまだ起きない・不明な未来の段階で発売された自主制作レコード「アシュラ(Ashu-Lah)」が、1980年10月10日発売される。

発売元は、ジャンク・コネクション。
この会社は、リザードが自主制作レコードを流通させるために作ったもので、実はそのスタッフの1人がさちほさんでもあった。

初盤1000枚が完売。
再プレスされるくらいヒットしたという。
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2011年5月21日 土曜日 夜 ZELDA特集4「密林伝説」

2011-05-21 22:37:57 | 音楽帳
~ゼルダを巡る時代の断片メモ~

80年代 東京 という特殊空間。
東京という場所は、むかしむかし、おおむかし、雨が降るたびに水害が多く、そんなに多くの人が住んではいなかった、ということを、昔、本で読んだ記憶がある。
東京が明治以降様々な変遷を辿りながら、そういう歴史を大事にせず、平気でローラーで潰して、更地にして、そこに平気で「新しいもの」を作ってしまうのは、それゆえか?

ボクはそうは思わないが。
しかし、この東京という都市は、様々な流民が流入したカオスな都市であり、誰も「出て行け」とは問われない特殊な都市である。
また、人が住む場所でありながら、こんなにも「土足で」平気にここに人々が遊びにやって来ては放蕩三昧をして、ゴミを撒き散らした末に、帰っていける場所であることも特殊である。
異様なことがまかり通る都市。

1980年というのは、1つのそういう日本の首都、東京の時代の分水嶺となった年だったのかもしれない。
ここから、いびつな変遷を東京は描いていく。
そういういびつな変遷のきちがい的状況を自分は生きながら、行き倒れるようにして1986年に自殺未遂する。
限界だった。

その数ヶ月前だが、同じ時代を生きていた者の自殺に衝撃と落胆を覚えたのも、1つの自分の導火線ではあった。
「東京で生きること」に対して大きな苦しい空気が渦巻いていること・事実がカタチとなって現れたのは、1986年4月8日。
AM~昼にかけて岡田有希子が自殺未遂の後、四谷3丁目の交差点にあるサン・ミュージックの屋上から投身自殺する。
その後、後追い自殺が耐えなかった。
4月8日の夜は、ただでさえノイローゼだった自分も、体が震えて眠れなかったことはよく覚えていた。



自分の場合は、2年目の大学浪人であり、親からは「絵でメシが喰えるとでも思ってんのか」と専門学校への道より大学を示唆され、社会とのはざ間で心身をきしませていた。
兄が麻布中学・高校→東大→某大手広告代理店Hというエリートであったのも、この自分を追い詰めていた大きな要因と性格形成に影響している。

同じ1986年4月8日のうららかな午後、16:00から渋谷のNHK-FMからは、小嶋さちほさんの「午後のサウンド」第1回目の放送が流れる。
自己紹介を兼ねて、ゼルダの曲で満たされた時間。
特に、1985年秋に発売された3枚目「空色帽子の日」をこの放送で初めて聴いて、1・2枚目に無いリラックス感と完成度の高さに驚いた。
そのカセット・テープは、今も保存されている。

・自転車輪のみた夢
・湖のステップ
・フラワー・イヤーズ・オールド
・時折の色彩
・ ディア・ナチュラル

***

1980年という分水嶺の年はYMOイヤーで、どこに行っても東京には、YMOのソリッド・ステイト・サヴァイヴァーが流れていた。

その前後以降、アンダーグランドなサブ・カルチャーに惹かれて行き、どっぷり浸かる自分。
糸井重里がコピーライターとして、過去ゲバ棒を振るっていたものをペンに変えて、革命を起こす。
それは、坂本龍一とて同じこと。


【兄が広告屋になった元でもあり・80年代を変革した「広告」と言う名の「プロパガンダ」「煽動」「暴力装置」。
「おいしい生活。」By糸井重里】

当時のサブカルチャー人たちは、ビックリハウス、宝島、フールズ・メイトなどのサブカルチャー雑誌に群がっていた。
中学・高校の多感な時期を、そういうものと一緒に過ごし、「何か」を見つけようとしていた。
数少ないおこづかいをそういうものに投資し、そういう人が集まる場所をうろついた。

今のネット社会とは異なり、みな孤独だった。
そういう中、感性の似た「誰か」を探して、雑誌に投稿したり、そういうライターを雑誌に見つけて同期化しようとしたりして、孤独を紛らわせようとしていた。

例えば、香山リカは、ビックリハウス、フールズ・メイト両方への寄稿をしていた当時一般人だった。

日本の80年代の音楽シーンは、YMOとその周囲の人々は居たが、売れる曲、チャートは歌謡曲と演歌とアイドル曲だけであった。
完全に表舞台のメジャーシーンに、革新的なものが食い込むことはなかった。
YMOはヒットしたことに拠ってメジャーな場面にも出て行かざるをえなかったが、それ自体=身売り行為であり、彼ら自身も毛嫌いし遠ざけた。
そのために、1981年3月のアルバム「BGM」で、大胆なファン層の大衆切り捨てを行う。



日本の80年代前半の音楽シーンはメジャーシーンとマイナーシーンに完全に分断されていた。
メジャーシーンは、産業としての音楽しか成立し得なかった。
そこにあえて、皮肉も込めて、1981年末に解散出来なかったYMO3人は、1982年に多くの歌謡曲、アイドル曲作りに積極的に関わり、1983年、YMOを解散させるプロジェクトの中で「君に胸キュン」「過激な淑女」という口当たりの良い曲をヒットさせる。

「過激な淑女」は、元々、細野さんが作曲したもので、中森明菜の曲としてプレゼンしたもの。
そこで落選した曲を、あえてYMO自身が演奏するという過激な構図。



***

マイナーというシーン。
よくインディーズと呼ばれるインディペント・レーベルに所属するアンダーグラウンドな独立独歩の人々。
ボクらは、そこに惹かれてやまなかった。
「アンダーグラウンド」というだけで、ぞくぞくした。

しかし、イギリスがインディーズから多くの突出した音楽が生まれメジャーに出て行く中、日本のシーンではマイナーなインディーズは、メジャーには出てこなかった。
そういった事を拒否した。
インディーズに留まることが、産業音楽を否定することとイコールであり、メジャーデビューというのは、先ほども述べた身売り行為という匂いが強く、ファンも、「自分たちの思っている彼らではなくなった」と否定的だった。
それは、出来るだけ少ない人数で愉しむ秘密であることで、特権的な「他の人とは違う」という差異を勝ち得るという意識も強かったが、それだけではなかった。
やはり現実は異なっていた。

それは、昨夜紹介したように、ゼルダが1枚目のアルバム制作で、制作者側の良いように、解体されようとする場面が実際存在していた。
「お前ら売れてカネ欲しいんだろ。だったら、オレの言う通りにしろ。」
そういう脅迫・強要があったことを意味している。

***

さくりんさんへ

なかなかゼルダを一言で語るには難しいものです。
今日は、ひとまず、ある断片のシーンを書いてみました。
また、色んな時代の「キー」との絡みを思い出しながら、ゼルダを周辺との位置付けを行って行きたいと思います。

自分がゼルダを初めて聴いたのは、「密林伝説」でした。
確か、坂本龍一のサウンドストリート?だったような/なかったような?
何で聴いたのかは記憶に不明瞭ですが。
本当はアルバムの曲の間奏でホワーッという夜の風の音の部分が好きなのですが、YOUTUBEにアルバム曲が無いので、ライヴをアップします。



ライブ
1982年9月27日 テレビ神奈川放送「ファイティング80's」
場所 : 東京・蒲田の日本工学院専門学校
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2011年5月20日 金曜日~21日 土曜日 夜中 ON-LINE-DJ(真夜中の深夜便)~夕方

2011-05-21 02:20:29 | 音楽帳

【佐代子ちゃん】

上司であり同僚のSさんと、今週も案件が『片付かぬ』落胆を鉛のような重い身体に漂わせつつ2人で歩き、駅で別れる。

『0:12 北千住行』の電光掲示板。。。。。。

今夜も正規ルートでの終電が無い。

しかし、ひとまず休戦だ。

労働で死んでも、誰も何も思わない。

ただ自分が死ぬだけのこと。

『葬式』という一大イベントの会場には、当の本人が参加出来ない不思議。
そんなイベントなんか自分には要らない。
電通とヤクザが美空ひばりの葬式を仕切ったが如く、糸井重里曰くの『世の中、ぜ~んぶコピーなのだ。』

そうだ。
これも遺書に書かねば。

***

0:30南千住着。



荒涼たる夜のしじま。


【私が幼少の頃から続く、山谷ドヤ街の人々が泊まる簡易ホテル】


【野ざらしの地で、眠る人】

そこを歩き、放射能の風を感じながら、1:10帰宅。



みんなが玄関で「おでむかえ」をしてくれる。

今夜は、ビールを呑みながら、1人で「ラジオ深夜便」の如く、独りDJをしつつ更新していきたい。

***

うちは、汚い。
はっきり言って、ゴミ屋敷である。
レコード、CD、本、絵、ヴィデオ・・・・雑多なものの巣窟であり、遭難したモノに出会うには時間を要する。

今夜、やっとさくりんさんにも紹介出来る「ゼルダ物語」という藤沢映子さんが書いた1988年12月10日の初版本を発見。


【招き猫カゲキ団 佐代子ちゃんと小嶋さちほさん】

ゼルダとの初めての出会いは、1981年から毎月買っていた「ミュージックマガジン」の1982年1月号。



2:30記載:
「ゼルダ物語」には、どんなに80年代初頭のインディーズ・バンドがメジャー・デヴューに際し、困難な圧力が掛かっていたかが詳細に記載されている。
4人のレアな写真もふんだんにのっていて、これも自分の墓に入れて欲しい。



今、思えば、ファースト・アルバムの「月光飛翔(ムーンライト・フライト)」での佐代子ちゃんのヴォーカルは震えながら泣きながら歌っていたのだと、再確認する。





まさに、すさまじい圧力との闘いの末、ゼルダが永遠なる音楽を紡ぎ出してきたかがわかる。

30年越しの恋。。。。
一方的な片思いと、届かぬ・縮まぬ距離感。

それは、YMOも同じだが。


【2007年5月19日にパシフィコ横浜で見たヒューマン・オーディオ・スポンジの最後の曲。
YMO 1981年「BGM」に収録された「CUE」。】

2:40記載:
下記は、ライヴでの「月光飛翔(ムーンライト・フライト)」だが、ファースト・アルバムに収められているスタジオ録音の「月光飛翔(ムーンライト・フライト)」【この曲も、その切実さにおいて、自分の中のセルダに於いては、心に響く名曲である。】では、佐代子ちゃんの叫びのような・嘆きのような声を感じる。



3:00記載:
「・・・1981年秋から進められたレコーディングは、そんな彼女らと、制作者サイドの喰い違いがひんぱんに起こり、再三中断した。
・・・全曲オリジナルでは、いかにもマイナーな曲ぞろいで大衆性に欠けるとして、半分をモモヨの曲にしようとした。
また、彼女らの技術不足を懸念して、他のミュージシャンに演奏の助っ人を頼んだりもした。
・・・17歳だった佐代子。
ファースト・アルバムには、そんな佐代子が涙を懸命にこらえながら、震える声で歌ったヴォーカル・テイクも収められている。

彼女にいわせると、このレコーディングはまるで恐怖政治だったという。」

(藤沢映子さん 「ゼルダ物語」より)


3:30記載:
小嶋さちほさんは、私が毎月買っていた「ミュージック・マガジン」のレコード・レビューも書いていた。
その原稿料は、いわばアルバイトで、スタジオでの練習などの費用に充てられていたことが分かる。
レビューの中に、さちほさんが暮らす部屋の断片やプライベートな匂いを感じて、毎月読むのを楽しみにしていた。



さちほさんと佐代子ちゃんは、お互いを認め合い、強い絆で繋がっていたが、不思議な魅力を持つ佐代子ちゃんに惹かれながらも、さちほさんは佐代子ちゃんのお姉さんのような関係であったのだと思っている、勝手に。
かなり冷静に事に当たっていたさちほさんが、ある意味、自ら様々な厄介ごとの折衝のリーダーになっていたように思う。


4:20追記:
どうしてもビートルズ、というかポール・マッカートニーが天才であった頃の曲が聴きたくなった。
昨年、12月の暮れにも聴いていた名曲「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」。
ゼルダとは、全く関係は無い。
しかし、ビートルズもゼルダも私にとってはかけがえの無いものでは同一である。
音楽が目指す渋谷陽一さん曰くの「1つのチューン」。
この世をひっくり返すほどの音楽の力。

夜が明け、白々と。。。
まるで、何も「平成」であるかのような、何事も無いかのような朝へ向けて。

あえて、再度、この曲を、この時・この二度と戻らない時に・聴きたい。

『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』/ポール・マッカートニー

長く曲がりくねった道は 君のもとに向かう道。
決して消えることがない、前も見たことのあるこの道を。
行けば必ず、ここに辿りつく。
君のもとに辿りつく。

荒れた風の強い夜。
雨が洗い流したあの夜は、涙の水溜りを残して去って行った。
昼を求めて泣きながら。

なぜボクをここに佇ませて、去ったのか。
教えてほしい。
どっちに行けばいいのだろう?

何度も何度も独りぼっちになって
何度も何度も泣いたことがある。
そう言っても わかってもらえないだろう。
いろいろやってはみたってことを・・・・。

でもやっぱり、振り出しに引き戻されて。
長く曲がりくねったこの道に来てしまう。

君はボクをここに佇ませたまま、とっくの昔に去って行った。
もうここで待ちぼうけなんてたくさんだ。
君のもとへ行きたいんだ。

君のもとへ・・・・。

***

2010年12月29日、このように自分は記載している。

『内界=「自分」=ボク・と・外界=世界/他者=君。
君のもとへ辿りつきたいけれども、容易ではない困難な道のり。
しかし、ボクが君に辿りつきたい「想い」だけは捨てないし諦めない。』

音楽が、この世の汚れた世界の外側に「在る」。
私は、音楽と共に死んでいく所存である。
音楽と出会えた事が、この世の一番の幸福だったかもしれない。


*******************************
5月21日 暗い土曜日

16:30記載:
また夜明けまで起きてしまう。
家の近くを一回りする。
晴れている。
朝日を浴びる。
6:30だというのに、朝から必死にウォーキングやランニングをする者。

犬と散歩する人を見る。

何枚か写真を適当に撮る。


【今年の初あじさい】

スクリーンを閉ざし、睡眠薬を飲み、眠る。

・・・・起きると16:00.
まだ、だるいが、緑茶を煎れて飲む。
タバコを一服。

さくりんさんとも話した「ゼルダ」の存在と時代の関係を記載したいと考えながらも、
昨夜から夜明けのブログは、
「おい、単なるラヴ・レターのようじゃないか」
少々むずったい。

ヒントを探して、そこらに積み上がった本を、何冊かぱらぱらめくってみる。

■多重人格も無理な統合をしない■
「・・・われわれ日本人はハーモニーだと思うてる。
インテグレートはされなくても、ハーモニーがある。
違うんちゃうかと。
日本人には、調和の感覚は美的感覚としてありますわね。
日本人は倫理観という場合、美的感覚がすごく大事になってくるんじゃないか。
向こうは一神教でしょう。
だからやはりインテグレーションといいたいし、どこかに一なるもんがあるんですよ。
一なるものまで統合されていく。
こちらの場合は一なるものがなくて、いろいろあるんだけど、ハーモニーがある。
だから僕はそのハーモニーの感覚を身に付けて生きていく、
これがいいんじゃないかと思っているんですけどね。・・・・・」

(「文藝別冊 河合隼雄 こころの処方箋を求めて」より 2001年4月30日発行)


続いて、写経のように、気になる想念の断片をパソコンでうつしとっていく。
そういう周辺から、ゼルダとは何かへのぼんやりした「CUE」に至れないものかと。


「大事なものは目に見えないと誰かが誰かがいったが、その典型的なものの1つに『思い』というものがある。
そんな目に見えない『思い』の上にある日常には理屈では説明のできないことが必ず、
そして何気なく不思議と起きるものだ。

信じられる音楽家には必ず独特の『思いへの間合い感』のようなものが日常の根底に流れていて、
他人にとってはただ『適当』とか『無神経』としか思えない、
そんな『思い』が曲に余裕を与え、また適当さから生まれるそんな隙間が曲を聞き手の心につながりやすくさせるのではないか。」

(大竹伸朗 「ネオンと絵具箱」より 2006年10月8日 初版発行)


17:45
80年代東京の断面を包含した藤原新也さんの「東京漂流」

コメント (3)
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2011年5月19日 木曜日 夜 奇妙なるなまぬるい国

2011-05-19 21:45:07 | 雑記帳
国の存亡が掛かっている有事に面して、日々の様を見ていると、もう自分が思っていた日本という国は、もう既に無くなったのではないか?
そういう思いにどうしても至ってしまう。
そうでないと説明出来ないように思えて仕方が無い。

奇妙なるなまぬるい感触が、自分の中のもやもや感を強める。

どこに寄る辺も持てずに、浮遊する難民のように、自分が思えて仕方が無い感覚は慣れ親しんだものではあるが。

歳を取って、やっと一握りの知恵や確信が持てるようになり出した今、逆に、何か自分が正しいと思うことをしようとすると、突破口付近で後ろを振り向けば、みんなは遠くに居る。
地雷を踏まないように。
そのためだけに。

***

~はちみつぱいの「スカンピン」を聴きながら~



3・11以降、本が読めなくなっていた。
音楽はしばらくの間、体内に入って来なかったが、今は戻っている一方、本の中には入っていけなかった。

そんな中、古本屋で、たけしさんの『たけしの20世紀日本史』にピピッと来て、やっと3・11以降初めての本を読み出した。

この本、1998年5月1日に発行されている。
つまり13年前に書かれたものなのだが、気付かされる「CUE」に満ちている。

時や距離を置いたから気付かされるのかもしれないが……。

***

~高橋幸宏の「昆虫記」を聴きながら~



友人MZ師は
「民主主義なんてものは無くすべきだ。
独裁体制を引くべきなのだ。」
とよく言う。

そうわかってもそこまでのプロセスの道・シナリオが見当たらない自分。

本の中で、たけしさんはこう言う。

『結局、日本では民主主義というのが、みんなで責任をとるシステムより、誰も責任をとらないシステムというふうに根づいてしまった。
重大なことは何も決めない。
決めると、それが裏目に出たときに誰かが責任をとらなきゃならないから。
決めないことが、居心地よくなっちゃったんだね。』

『だから、いっそこんな国には独裁者がいた方がいいんじゃないかって気がする。』

『新聞も一度くらい独裁者待望論というのを書いたらどうだ。
そのぐらいじゃないと、戦後の積もりつもった問題は解決しっこない。』

テレビに居酒屋に…馬鹿騒ぎをしている間にも、見えない雪がしんしんと降り続くようにして、放射能は黙って降り続いている。

2011年5月19日、夜。
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2011年5月19日 木曜日 ZELDA特集3「スローターハウス」

2011-05-19 19:10:07 | 音楽帳


YOUTUBEには、ニューウエイヴが最終コーナーに差し掛かった1986年の映画『ビリィ・ザ・キッドの新しい夜明け』の中で歌うゼルダの姿が一部掲載されている。

佐代子ちゃんの芯の強く・才能あふれる顔が明瞭に雰囲気と共に伝わってくるので、アップする。

歌うは、これまた名曲中の超名曲「スローターハウス」。
ゼルダの2枚目のアルバム「カルナヴァル」のA面最後の5曲目。
スローのワルツに乗せて。。。。



「スローターハウス」

作詞:高橋佐代子
作曲:小嶋さちほ
編曲:ゼルダ・白井良明(ムーンライダーズ)

11CENT綿 40セント肉
雨が降り出さないように
おひさま 天にいのる
世の中
哀しいことばかり

11CENT綿 40セント肉
街には 灯がともる
時間のおとずれ

日が暮れる 
暮れる 
暮れる 
暮れる 
暮れる 

しんがりはお前だ
時が経つまで待て
行き着く先には
スローターハウス

しんがりはお前だ
時が経つまで待て
行き着く先には
スローターハウス

11CENT綿 40セント肉
ステキなバーを建て
茶色のペンキ
塗ったらいかが?
天からカミナリ落ちたら
後に残る灰の山よ

11CENT綿 40セント肉
余震はまだ続く
こころが崩れるまでは
揺れる

揺れる
揺れる
揺れる
揺れる

しんがりはお前だ
時が経つまで待て
行き着く先には
スローターハウス

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2011年5月18日 水曜日 夜 ゼルダへの共鳴/今日のニュース

2011-05-19 00:14:56 | 雑記帳
18日 水曜日
朝、目玉焼き・ジャガ芋とワカメの味噌汁・チオビタ・緑茶。

電車。
途中で座れたのでぐったりしていた。
寝過ごしそうになる。

火事の消火活動に専心するうち昼ご飯抜き。
そのまま22:00へ突入。

そんな事態でも、横に居る「御大」は何もせず。
何も仕事らしきものをした形跡すら残さず、さっさと帰ってゆく。

極めてクールで汗の匂いも温度も感じさせることも一切無く。
その様は、忍者の如し。


【スターリン アルバム 『虫』】

マニュアル本に記載し内容に反し、我が経験上確信。
「机の綺麗なヤツに限って、仕事をしていない。」
全てでは無いが。
格闘している形跡の無い人を信用出来ないかたちんば。

「格闘するのは、知恵・頭脳・テクニック・要領…、といった能力が低いからだ。」
さういふ論が意味することも重々理解。
しかし、さすがにその程度は同じ部屋で「そいつ」と一緒にいれば早々に判る。

所詮さういふ人は動かない。
揺すってみても期待通りにはならない。
淡い期待などしないことかもしれない。

まあ、こちらに害・責任を押っ付けて来たら、殺す用意はしておくべきかもしれない。

22:06電車の帰路。
背中と腰の痛み。

***

さくりんさんへ

当時も今も、ゼルダは正当な評価がされていない。

また、頂いたお便りに、
自分が感じていた事との共通語を発見し…
といえば虫が良過ぎますが、
ゼルダについて、
自分では言語化しずらかった事を、
肩代わりして頂いたと思っています。

この重要案件へのお返事は改めて、週末に熟慮の上、したためさせて頂きます。

***

23:00帰宅。
カレーライス・ビール。

ニュース。

●日本
・今頃、何言ってんだと言う放射能ダダ漏れの影響ニュースが始まる。
馬鹿女キャスター=タレントまがい、が「我々消費者の食べ物ですから…」。
いまさらジロー。
放射能汚染に焦点を絞らないニュースを2ヶ月続けながら「我々消費者」とは、実に都合が良い。
随時、立ち位置を変える人の変わり身をようく観察すべし。

●中国
・あらゆる常識の通用しない国=キチガイ国家。
スイカが爆発したというニュース。
農薬バンバンぶち込んだ野菜を輸出している国家。
どうやらスイカに入れた薬品が要因とのこと。
アメリカとは違うキチガイ国家の有様の恐怖。


【爆発スイカの種は白い。】

●韓国
・売春禁止法制定に反旗をひるがえすべく、数十人の売春婦のデモ。
ハダカにパンティー1枚。
その顔とカラダに(お笑いの)絵の上手な「鉄拳」さんそっくりの塗りものして、灯油をカラダにかける格好したデモンストレーション。
せっかくだから、スケッチブックを片手に「こんな韓国は嫌だ。」とイラストをめくりながら紙芝居風にやってくれたらカンペキだったのに。
残念なニュースである。
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