こころとからだがかたちんば

リハビリとメンテナンスの日々。”At Last I Am Free”(Chic&Robert Wyatt)

2020年6月 ラジオ少年と久米さんと「ラジオなんですけど」と

2020-06-25 23:00:00 | 雑記帳


6月6日(土)いつも通り、13時から久米宏さんのラジオ番組「ラジオなんですけど」を聴き出すと、唐突にこの番組が6月末で終了する、と久米さんが言った。
キツネにつままれたように唖然となる。
その感じは、皮肉にも、2013年9月7日東京五輪が決まったニュースを見て、寝耳に水となった日にそっくりだった。
まるで夢のような感覚とでもいおうか。
絶望や落胆だけでなく、揺るがない決定が知らない間にウラで動いていた不気味さが共通していた。

「ラジオなんですけど」この番組の第一回目は、13年半前の2006年10月7日。
午後1時の時報の後、出てきた久米さんは、野外・晴天の下から少々上ずった声で話していた。
突き抜けるような秋の青空を伝える久米さん。自分も同じその空を見ながら聴いていた。
それをよく覚えている。
外からの中継を経て、テーマ曲が流れる。
この日から来週の最終回まで13年半変わらなかった番組冒頭のテーマ曲は、とてもさわやかで、未だに2006年10月7日の秋空の高さと青さを思い出させる。

***

ウィークエンドの始まりである土曜の昼下がりを、どれだけハッピーに過ごすか?
それにこだわっていた者に対して、「ラジオなんですけど」は、21世紀に入ってからの新しい風を運んでくれた。
青少年の時期ももはや遠くなると、自らを進めるためのガソリンというのはそういったものだ。

この13年半、用事があった週はやむなく聴けなかったけれど、それ以外は何らかの形でこの番組を聴いてきた。

311を経た2012年以降は、毎週土曜早めの時間から外に出て、街を一人で歩きシャッターを切りつつ、イヤホンで聴いた。
(AMの永六輔さん・15時~の宮川賢さんの番組も好きで、それを含めると土曜8時半~17時までがTBSだった。)
当時はラジコが無いので、ごくごく普通の携帯ラジオで聴いていた。
電波が届かない地下鉄等に乗ることを避け、バスやJRを使いながら毎週土曜の放送を楽しんだ。

***

久米さんは、良く言う人と悪く言う人に分かれる。
では自分は?一体どちらかわからない。
というのも、数十年付き合いながら、久米さんの言葉の背景に貫かれる何か?が一体何なのか?充分に理解できていないのだ。

しかし、たぶん、それでも好きなんだろう。
振り返ってみれば、久米さんが関わった番組の多くを楽しみに見聞きしてきたことに気付く。
「ラジオワイドTokyo」「料理天国」「おしゃれ」「ザ・ベストテン」「テレビスクランブル」「ニュースステーション」そして「ラジオなんですけど」。

***

昔、鶴瓶さんがとある番組で、こんなことを言っていた。
「ニュースステーションで、久米宏が笑った後CMに行く際、切替のタイミング遅れで、怖い表情を見てしまった。
あの人の影の顔を見たと思ってしまい、もう見た(く)ない、と思った。」
あるいは、キッチュが「朝まで生テレビ」をパロディにした「朝まで舐めてれば」で、ホクロを付けて失笑する久米さんの真似をしていた姿も浮かぶ。

当然、そんな例を挙げるまでもなく、久米さん自身に何の思惑も無いはずもない。
ダーティーなイメージを背負う理由は十分理解できる。
しかし、だからと言って、周りに合わせて適当なところで話しをまとめる人への不信感を思うと、同調圧力を無視して話しをしていく姿は痛快だった。

***

たとえば、一握りの利権者以外、誰も得もしない東京五輪。
某広告代理店が関わったしつこいプロパガンダ。
2020へ向けその勢いを強めていった「たぶらかし」
それに対する久米さんの語りクチは何とも絶妙だった。

世間が東京五輪万歳と言い、決まったからには応援、と戦時中同様に硬直化していく中、ラジオメディアは自由だった。
久米さんは、五輪以外も含めて、タブー化されていくことに動じず、「ラジオなんですけど」で率直な意見を述べ続けていた。
それはどれもきわめてまっとうな意見がほとんどであった。

***

モノであれ何であれ「そこにある」という安心は、「そこにいつまでもあるものだ」という思い込みと変わる。
雨の日も曇りの日もあるのだが、毎週土曜があのさわやかなテーマ曲と共に明けるのが楽しみだった。そんな番組も終わってしまう。

久米さんは、番組終了について、元々1月に決まってたんだけど・・・つい言い忘れていた、と言った。
久米さんらしい切り出し方だな、と思った。

先日亡くなってしまった小島一慶さんに夢中になってから40年以上聴いてきたTBSラジオ。
それも、永六輔さん・宮川賢さん・そして久米宏さんの番組が無くなるとなると、かなり意味が薄くなってきた。

「ラジオなんですけど」が終わることは非常にショックでさみしいが、約14年続いた番組の最終回・6月27日のゲストが伊集院光さんということが、最後の救い、と思っている。
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2020年4月21日(火) 魂の「再生」に向けて

2020-04-21 11:30:33 | 音楽帳

「断捨離」「終活」というコトバを普通に使う人々と、素直に同調できない。
どうしても、そこからは距離を置きたい。そんなひねくれた性分がある。
しかし、その割には、半世紀超溜め込んできた本・雑誌がカビ出した事に驚き、
これを契機に半世紀に得てしまった物品の「棚卸」を昨年から始めた。
過去を再び、今自らの体内に照射して精査させ、再生させる作業。

自分の心身はイカれてしまい、昨年末休職した。
どこにいってもカオスの東京。
そこと地方都市を行きかいながら働き、既に心身は限界であった。
202020202020・・・と呪文のように騒ぎ、五輪・観光立国なぞに向かって破壊されゆく東京。生まれ育った街の破壊に反対なのに、その渦巻きに巻き込まれていく心身は悲鳴を上げていた。
本・雑誌がカビ出したように、自分の心身もサビつき出していた。
そこにコロナがやってきた。

***

・・・休んだからといって心身の疼痛がすぐに癒えるわけはない。
しかし今後このような機会はもう無いだろうと、痛みの合い間を縫って、物品の「棚卸」を行い出した。

想い出主義の自分が溜め込んだゴミ屋敷にあるもの。
それはさまざまだが、昨日はぶらさがったままでカビ臭くなった衣類を、選別してゴミ袋に入れた。
また、昨年から始めたビデオテープ、カセットテープ起こし。
もう見聞きしないものは捨て、それ以外・好きだったモノをデジタルに変換している。かき集めてみると、やはりカビやヨレヨレが迫り、途中で切れてしまったものも多い。
昨日は、ビデオテープに録音した「細野晴臣 2001年音楽の旅」の起こしに取り組んだ。
NHK-FMで2001年に放送されたものだが、2時間×4回分と時間が長かったが、ビデオテープに録音していたので安定した音質だった。また、一方では、「電気グルーヴのドリルキングアワー」の120分カセットテープを・・・。
とビデオデッキとラジカセが毎日、大活躍して働いている。

ビデオもカセットもアナログゆえ、長さ分だけテープを回さないといけない。
さらに長い分数になると、巻き戻し・早送り、頭出しなどの作業手間労力はいっそうかかる。
古いものでは40年以上経ているものも多いが、劣化して切れやすいのはやはり長い物。

雑誌は大事なものを切り抜き、ときにスキャナーする。
いつか取り組みたかった「業務」に取り組む日々が昨年より続いている。
自らの魂の「再生」に向けて。

■YMO 「Be A Superman」1993■
このままでは、まだまだ死ねない。
スーパーマンであれ、と自らを励ます。
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1982年4月1日(木)FM東京 「ソニー・サウンド・マーケット」スタート

2020-04-17 00:00:00 | 音楽帳

1982年4月、何とかかんとか自分は高校生になった。
その日だったのか、と50台の今になって意識して知ったことがある。
FM東京の夜10時からの深夜番組「サントリー・サウンド・マーケット」は、この4月1日に始まったのであった。

オープニングテーマ曲は喜多郎さん、番組名を告げる声は小林克也さん。
穏やかでどっしりと構えた番組構成は頼もしく、この後初夏に放送されたブライアン・イーノの特集も含め、随分とお世話になった番組だった。

この番組「サウンド・マーケット」はこれより前からやっていた気がしたが、そうではなかった。
1982年3月まで10時台番組だった「ライブ・フロム・ザ・ボトムライン」は、この番組開始に伴い、ここで消えたのだった。
必死こいてYMOのライブをエアチェックした有難い番組だったが。

以下は、3月31日と4月1日の番組表である。
11時以降の番組、12時城達也さんの「ジェット・ストリーム」までの内容には変化はなかった。
3月31日

4月1日



■喜多郎 「サントリー・サウンドマーケットのテーマ曲」■

2週間ごとのFM雑誌「ミュージック・ステーション」は1982年頭に発刊され、僕は第1号から買っていた。
その第8号に、この番組の内容紹介ページがあるので、掲載する。
スタート時のパーソナリティは、ジャズシンガーの金子晴美さん。
(途中産休か育児かで西田珠美さんにバトンタッチした。)

当時FM放送は、NHK-FMとFM東京しかなかった。FM東京は元々実験用としてできた民放FM局だった。
当時のFM東京には品があった。この番組への金子さん起用のように、あくまで音楽を中心としながら、大人が聴ける上品さをたたえていた。

その後、80年代終盤の何もなかった時代=平成時代幕開けにJ-WAVEが開局し(*)、それ以降FM他局化時代をむかえた。
(*・・・正確には、J-WAVEは1988年10月1日スタート。平成は翌1989年1月8日より)
その後の変遷には疎い。興味を失ってFMを積極的に好んでは聴かない不遇の時代が続いた。

あれから30年近くを経て、この数年、FM東京を聴いた。
それも終日という地獄。というのも、自分が行っていた職場は(誰か好きな人が居るのだろう)常に朝から晩までFM東京が流れていて、他局に替えることが出来なかったのだった。
このとき聴いてショックで残念だったのは、過去FM放送にあった骨格のようなものはなくなっており、全く下品な垂れ流し放送局となってしまったことだった。

***

311後ワイドFMという実験を経て、Radikoが正式スタートを切って数年が経った。
現代はむしろAMに素晴らしい番組が多いのだが、デジタルのクリアな音声でAM・FM両方を聴けるようになってしまうことを、FM関係者は1つ上の高いところに居るとでも思っていたらしく、AMとのカベが取り払われる参入を毛嫌いしたものだが、そのようなプライドに匹敵する番組作りを行って頂きたいものだ。

いずれにしても、当時愛していたFM東京の姿は、現時点で一部を除いて跡形もなく無い。
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2016年3月8日 TOTO

2019-07-10 23:00:00 | 音楽帳

2016年3月。
この夜、お袋さんが楽しみにしていたライヴのピンチヒッター代行として、武道館に行った。
兄と席で待ち合わせ。ライヴはTOTO。ステージは7時10分ほど過ぎて始まる。

曲が進むに従い、どんどんと醒めていった。
ライヴが終わって2時間弱、兄と2人でお酒を呑んで話をする。

兄に「どうだった?」と聞かれ、思わず深いため息をもらす。たぶん既にこちらの感じ方を察していたことに”やはり”と笑いが起きた。
店に入ったとたん「締め注文は何時」とせわしないおばちゃんに「うるせえな」と感じつつ、話しながら、じぶんの状態が何を示していたかを理解できた。

「TOTOは中学生のころ好きで、今でもシングルレコードを大事に持っているし、
あのときのレコードの音はじぶんの中では未だ大事なんだけどね。。。」

前夜にはピンクフロイドを聴き込んでおり、完全にモードがそちらに行っていたのもあるが、「今のじぶん」がTOTOから相当遠くに来てしまった感が強い。

***

80年代初頭時点、一連のプログレッシヴ・ロックは恐竜時代や化石みたいに旧世代音楽だった。
さしたる年数は違わないことは今にしてみれば。。。であって、若気の至りで、当時は「古い」という認識だった。
ただピンク・フロイドは唯一80年代に生き延びたプログレバンドとして存在し、ビルボードアルバムチャートに作品「狂気」はいすわり続けていた。
一方クリムゾンは1981年「ディシプリン」で新たな復活の仕方をした。

TOTOの一番最初の印象はシングル「99」、オーディオCMに「99」をバックに白い服装で演奏していた姿。とても素敵だった。
それに「セント・ジョージア&ザ・ドラゴン」。。。その後の新譜「ターンバック」からのシングルカット「グッバイ・エリノア」のサウンドの新しさに狂喜した記憶。

”あれ”から36~7年の今、不思議なもので関心ある音楽がまるっきり逆転している。
TOTOのライヴステージは今のじぶんにはリアリティがなく、遠くのものに感じた。

もともとはボズ・スキャッグスのバックを演奏したり、といった名うてのスタジオミュージシャンだから、技術的には上手い。
今回驚いたのが「あれ?TOTOってこんなノイジーなハードロック調音楽だったっけ?」
過去の楽曲たちも、まったくその曲と気付かず、途中からやっと「ああ、あの曲か」という始末。アレンジの違いという意味ではない。

「99」という曲のたたずまいのように、本当は静かな音で、演奏に絞ってシンプルに聴かせるスタイルでライヴを行えば、もっとぐんと引き立つと思う。
・・・なのだが、ギターやドラムの長々したソロや客席に歌わせたり煽るポーズなど、いやいやどうも。。。

***

醒めた意識になっていく中で、俯瞰的に見て、じぶんは結局初期のTOTO、せいぜい4枚目までの音にしかシンパシーを感じていないことがよくわかった。
その後も「I’ll Be Over You」など好きなシングルはいくつかあるが、アルバムタイトルに「TOTOⅣ」とナンバーを付けるあたりから、どうも匂ってきていた。
名曲「アフリカ」はⅣだが、「ロザーナ」は人工的に創られた感がじぶんの中で否めなかった。

カネの匂いがぷんぷんする。渋谷さんがよく言っていた”産業ロック”という言葉を思い出しながら、そのゆとりかました姿に首をかしげる。
いまさらヤボなことを言うなと言われるだろう。
しかし、3・11のとき、すべてのコンサートを無期延期した割には、”ニホンのファンの皆さん・・・”。ずっと引っ掛かっていたことだった。

***

おもえば昨年の今少し前ごろ、シンディー・ローパーをここ武道館で見ていた。
間際までラジオCMを打ち続けても埋まらなかった客席。それでも、彼女を愛する人が多く集まっていた。
そんなことは、人によっては”音楽には関係がないじゃねえか。しょせんショービジネスは人数が稼げなければ成立しないんだよ。”
しかし、じぶんにはそうは思えない。そういったことのほうに引っ掛かりを持てる。

”いいんだよ、そんなこと、ノリだよノリ”そう言っている。
じぶんは”ノリ”だけで音楽を聴くことができない。
ライヴの最中、こんな雑多なことが脳を駆け巡ってて、宙を舞っていた。

3・11のとき日本行き飛行機に乗っていたシンディー・ローパーや、今を超えようと戦っている多くのミュージシャンのことがよぎった。

ひたひたと迫りくるものの中で、何を今聴くのかを最近よく思う。
どこぞかの国の首相が”人生いろいろ”だの言った後からの流れや、その後継者と末裔たちが。(2016.3.8)
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2015年4月29日 水曜日 「リラックス・イン・ザ・シティ」

2018-06-01 11:00:00 | 音楽帳

この曲と出会って、もう3年が経つ。
3年前、初夏の今ごろのこと。インターFMから日々流れている間に好きになった。

昔、ヒトから「テクノ好きのあなただから」とパフュームを勧められたが、
ダフトパンクのパクリだ、しょせんはあやつり人形だ、と色々言っては聴くことを拒否していた。

本当は好きなのにガマンして、ではなかった。
特別な何かを感じなかったのである。

そんなことを言っていながら、不意打ちにFMからヘヴィーローテーションで聞こえてくる曲に惚れ込んでしまい、思い込みは一掃された。毛嫌いしていた人やものほど、逆に火が付くと燃え方は尋常ではない。
一度好きになったら止まらない。火がともされたように恋い焦がれてしまい、mp3プレイヤーに入れて歩くときに聴くようになった。

パフュームも、この曲も、ビデオクリップも、どれもが輝いていて、陰鬱に傾いていくじぶんの背中を押してくれた。

まだ足が無事で、丸一日、江戸の人たちが旅をしたように歩けた3年前。
歩くとともに変わりゆく街の風景のさなか聴こえてくる「リラックス・イン・ザ・シティ」は実に極上だった。

今年も初夏がにおってきて、この素敵な曲を聴きながら歩きたいな、と思う季節となった。
病よりもうそうは歩けないけれど、あきらめてはならない。

■Perfume 「Relax In The City」2015・初夏■

★実は当初YOUTUBEよりこの映像をダウンロードし、そこからソフトでmp3に変換していたので、冒頭に浜辺のざーっという波の音が入っていた。
何かそれがとても初夏っぽくて、せつなくも美しい時を、歩いているじぶんと周囲を包み込んでくれるようだった。(2018.06初出 / 2020.05蔵出)


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