こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

sly and robbie 「make 'em move」'85年9月

2009-11-29 12:10:29 | 音楽帳


スライ&ロビーの1985年9月25日リリースのアルバムに「ランゲージ・バリヤ」というものがある。
このアルバムの1曲目がこの「make'em move」という曲である。

あたかもスライ&ロビーのアルバム、と思って近づいてはイケナイ。
「危険物」のようなアルバムである。
甘~く考えて、ハナウタ交じりに、うかつにこのアルバムをかけてしまうと、「あああっ!」と「放射能」を浴びる事になる。

というのは冗談であるが、1985年という時代の断面を切り取ったようなアルバムである。



そして、あくまで名義は「スライ&ロビー」であるが、この中で、やさぐれ者=ビル・ラズウェルが、引っ掻き回してやりたい放題しているというアルバムである。

***

1980年代、ニューヨークで「マテリアル」というユニットを通じて、さまざまな人脈を通して現れた、やさぐれ者=ビル・ラズウェル。
彼は、今に通じるまで、闇の世界で多岐に渡るアルバムに参加してきた。

良い仕事もあれば、単なるやさぐれ者としてやりたい放題の仕事も多い。

彼と坂本龍一が気が合うというのもわからなくは無い。

教授がニューヨークに移住して創ったアルバム「NEO-GEO」でもアルバム創りの伴侶として手伝った訳だし、異端児同士で気が合ったのだろう。
但し、「NEO-GEO」は、教授の芯の強さもあり、ビル・ラズウェルに攪拌されはしなかった。
ビル・ラズウェルという人は、かなり「過激な」人であるらしい。



***

この「make 'em move」のド太いアタック音のドラムとイントロは、当時「オールナイト・ニッポン」のCMあけのブリッジに使われていたから、どこかでこの音を聴いた人も、同世代には多いと思う。

自分は、元々は「ロック」というカテゴリーの嫌いなニンゲンであるが、80年代において、「ロック」というのは無意味で情けない旧態依然の音楽でしかなかった。(その後、「ロック」は息を戻す事になるが)
その流れの中、一方でニュー・ウェイヴは、マシン機器の飛躍的発展と同時進行形で動き、インダストリアルをも通過し、80年代中盤にかけて、より激しい音に向かっていく。
音の密度を上げるために、ドラムはより激しく、ビートはより細かくなっていく。

結果的に、ニュー・ウェイヴは、「ロック」とは別の形で、ロックに接近していくことになった。

***

このアルバムの「ランゲージ・バリヤ」の参加メンバーを見ると、当時最先端のミュージシャンを、ビル・ラズウェルの人脈を通じて集め、やりたい放題しているのがわかる。

プロデューサー・ベース : ビル・ラズウェル
ヴォーカル : アフリカ・バンバーター、バーナード・ファウラー(マテリアル)
キーボード : ハービー・ハンコック、バーニー・ウォーレル
サックス  : マヌ・ディバンゴ
ギター   : エディ・マルチネス

要はアルバム「ランゲージ・バリヤ」とは、スライ&ロビーの名前を借りたビル・ラズウェルの「乗っ取り」なのである。
もはや、これは、プロデューサーを越えた行為である。

昔、ブライアン・イーノが、プロデュースしたミュージシャンとよくもめていたのも想起させる。
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Arcadia   「Election Day」’85年11月

2009-11-28 16:56:25 | 音楽帳


「デュラン・デュラン」は、1枚目のアルバムが出たのが、自分が中学3年生の頃、1981年だった。
当時「ニュー・ロマンティクス」というブームの中の1つの重要なバンドだった。

***

「ニュー・ロマンティクス」の立役者として、ウラで動いていたのは、ウルトラヴォックス(第2期)、及び、その中心だったミッジ・ユーロ。
ミッジ・ユーロは、「ニュー・ロマンティクス」の核となったVisageの音をほとんど創っていた。
その元は?というと、YMOである。


【ヴィサージ 「ヴィサージ」】・・・音楽史には不可欠なアルバム

Visageのヴォーカル、というかフロント・マンは、「スティーヴ・ストレンジ」という男で、彼はロンドンで「カムデン・パレス」(革命舞台!)というディスコを経営しており、自分の好きなロキシー・ミュージックやデヴィッド・ボウイ、YMO、YMOファミリーの音楽、それに最新の音楽を流していた。
彼は「ロンドンで初めてYMOを流したのは自分だ」と自慢していたという逸話もあり、そこからも「ニュー・ロマンティクス」がYMOの影響下で生まれた若い新しい世代のムーブメントだったのがわかる。

***

「ニュー・ロマンティクス」は、自分の当時の認識としては、第2期ウルトラヴォックス、その配下にあったVisage、そして、デュラン・デュラン、スパンダー・バレエが中心。
その他、ザイン・グリフ(彼は幸宏の1982年の「WHAT, ME WORRY?」に参加している)、ランドスケイプといったミュージシャンが居た。

現代では、「ニュー・ロマンティクス」はお化粧すれば「ニューロマ」の影響とか言われてるが(ほとんどがガラクタバンドだが)、そんな低次元の問題ではなく、80年代の日本の音楽の革命がYMOだったと同時に、ロンドンでの音楽の革命が「ニュー・ロマンティクス」であったのだ。
特にVisageの音楽(ミッジ・ユーロ+スティーヴ・ストレンジ)は、その後のハウス~アンビエントへの流れに、実は大きな影響力があった、と自分は思っている。(クラフトワークもそうだが)

***

日本(YMO)発でイギリスへの影響という流れだった。
実際、ミッジ・ユーロ/VisageがYMOの影響で音楽を創ったように、デュラン・デュランのメンバーも「サディスティック・ミカ・バンド」がイギリス公演を行った際のTV番組の画面に向かってポラロイド写真を撮ったり(大事に飾ってあったという)、YMOのアルバムを好んで聴いていた。
ザイン・グリフも、デヴィッド・ボウイの影響が強いが、YMOが好きで、結果、幸宏のアルバムに参加することになる。

一方、かたくなにオモテに出さないのが、スパンダー・バレエで、1980年YMOはイギリス公演を行ったが、幸宏・教授曰くは「影響を受けながら、会ってもそっけない態度で、気に食わなかった」そうである。

(ちなみに、このYMOのイギリス公演には多くの著名なミュージシャンが聴きに来て、楽屋に訪れ、その後の交流に繋がっていくわけであるが、ジャパンのデヴィッド・シルヴィアンもその1人である。)

***

「デュラン・デュラン」は、YMOの影響も受けながらも、非常にポップでメロディアスで贅沢な音楽を展開し、自分もずっと1枚目以降追いかけてきた。

そこで、MTV(ヴィデオ・クリップ)が、アメリカ中心に一気に広まり、そういう影響で、1982年「デュラン・デュラン」はイギリスを越えてアメリカのトップ・チャートに入り込むことになる。
当時は、「ブリティッシュ・インベンション」と呼ばれていた。

アメリカの音楽が、1970年後半から息切れし出して、まったく面白見を欠き、新しい音楽を生み出せていなかったことが主要因だと思われる。

ここ以降、イギリスの新しい音楽は、どんどんとアメリカに流入していくことになる。
イギリスでヒットしたものは、貿易のように海を渡って、数ヵ月後にアメリカでヒットするという流れが生まれる。

***

そのような流れの中、「デュラン・デュラン」という「ブランド」力が音楽市場(アメリカ+日本+イギリス)で確立し、この1985年には、その「ブランド」力を背景に、5人のメンバーは、それぞれ、「パワー・ステーション」と「アーケイディア」という2つのユニットでの実験活動に入っていく。

「パワー・ステーション」の方に、ジョン・テイラー、アンディー・テイラーが参加し、アーケイディアの方に、サイモン・ルボン、ニック・ローズ、ロジャー・テイラーが参加という形に2分される。

これも、「デュラン・デュラン」というブランドあっての、自由な音楽活動だった。

しかし、一方では、「デュラン・デュラン」があまりに売れすぎ、5人のルックスの良さもあり、その「ブランド」が(日本では特に)アイドル・バンド的な安直な見方をされる事にも繋がっていたため、そういう見方への「反逆」も、このそれぞれのユニットには含まれたような気が、自分はしていた。

往々にして、ポップスの「王道」にいつの間にか行ってしまったがゆえの不幸というのを、ポップ・バンドが背負ってしまう、という流れがある。

「デュラン・デュラン」の不幸もそこにあった気もする。

イギリスの「革命児」だった彼らも、いつのまにか、それが「王道」になってしまった世界を壊したくなり、それぞれの実験活動に入っていく要因になったように思えた。

***

「アーケイディア」は、「情熱の赤い薔薇(So Red the Rose)」というアルバムを1985年11月にリリースする。
その1曲目に当たる「エレクション・デイ」がシングル・カットされ、ヒットすることになる。


【アーケイディア 「情熱の赤い薔薇」】

「エレクション・デイ」は、2009年の今になって聴いても、非常にポップ、かつ、カッコイイ。
ラジオのようなノイズ混じりの音から始まるイントロがたまらなく良い。

このアルバムでは、ギターに土屋昌巳を起用し、彼の独自の音色・アクセントが隠し味となっている。
また、「エレクション・デイ」でも聴けるサックスは、ロキシー・ミュージックのアンディ・マッケイ、曲の途中でのクールな語りはグレイス・ジョーンズと、豪勢なバック・アップを得ている。

***

土屋昌巳さんの話では、このアルバム制作時に、3人はほとんど居ない状態で、ギターを弾いていたそうで、かなり周囲のエンジニア、それにプロデューサーの力で創られた部分も大きいとは思う。

ちなみに、プロデューサーは、トンプソン・ツインズでも力を発揮したアレックス・サドキンである。

「エレクション・デイ」≒「デュラン・デュランの音楽」という差異は、エロティックな妖しさであろうか。

アルバム全体にしてしまうと、緩慢さが目だってしまうのは、ヴォーカルがサイモン・ルボンである事に因るところが大きい。
それゆえ、デュラン・デュランと変わらない部分が大きいのは否めないが、「エレクション・デイ」は、自分のよく聴く80年代の音楽としては欠かすことの出来ない曲である。

6曲目に「Rose Arcana」という、夜の鳥が飛び立つ音が入った51秒だけのインストゥルメンタルの曲があったり、8曲目の「El Diablo」では、ヴァイオリンやオカリナ、土屋昌巳のスパニッシュ風のギター、テープループのような音が入ったりとさまざまな要素を取り込んでいる。
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まもなく49日

2009-11-23 23:42:25 | 写真日和


世間は、3連休。

自分は、事情あり、多くの仕事を残して、金曜日、夜中3時まで酒を呑み、人の家で、隅っこに、ネコのように丸くなって昼まで死んだように寝ていた。

昼に、その家を、スーツ姿でおいとました。
外は、晴天。
しかし、帰り道はだるくて、14時頃、家に着いてラジオを点ける。
久米宏さんのTBSの番組。

すぐ布団をかぶって、横になって、聴いていたが・・・・タイムワープした。

***

起きると、日曜日の午後14:30(!)
ほぼ、24時間、「冬眠」していたことになる。

全く起きなかった訳では無く、途中、宅急便に起こされて、ぬめぬめの字で受け取りサインをしたり、ピザをレンジで温めて食べたり、トイレに行ったり、そういう断片はあったのだが、結局のところ、24時間を、引きこもっていた。

14:30に起きると、脳が溶けていた。

洗濯とひさびさの入浴をして、やっと、少し正気を取り戻す。
もう、真暗に近くなる17時過ぎ、仕事場に向かう。

1人でしこしこと泣きながら仕事をするが、片付かぬまま、22時にパソコンと資料をついに持って帰るはめに。

***

本日、祝日。
何とかふんばって、10時過ぎに起き、支度をして、実家に向かう。
まみちゃんの納骨のためである。



49日前に納骨を済ませないと成仏しない、というのが、やはり気になって、納骨にお袋さんと行くつもりだった。

昼前に、納骨のお堂に電話すると、土曜はやっているが日曜・祝日はやっていないといわれる。
その言い方が面白かったのが「営業してないんですよ、申し訳無いんですが。」
「そうか、営業なんだな、仏の世界も。。。」と妙にうなづく。

無駄足にはなったが、まみちゃんのお骨にまた合えたのだから良しとした。
納骨は、明日、お袋さんが行くのに任せた。

***

親ネコ「コチャコ」しかいない実家も閑散としたものだ。
いつも通り、まみちゃんのお骨に線香を供え、手を合わせる。



実家のこたつに入りながら、パソコンを取り出し、仕事をさせてもらう。
自分の家で1人でやるよりもはかどった。
くだらないバカエティ番組のテレビが流れる中ではあったが、かなり集中して仕事したので、18時には切り上げ、老夫婦と夕食。

ひさびさにお袋さんの美味しい手作りのつまみにビールを3缶やると、19時過ぎにこたつで横になって、寝てしまった。

21時過ぎ、眠くてだるいが、何とか起き、支度をしておいとました。

***

独りの帰り道、明日からの不安に気持ちは戻りながらも、いつもの道を歩く。



間もなく、まみちゃんの49日がやってくる。
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KATE BUSH 「RUNNING UP THAT HILL」'85年

2009-11-23 00:08:34 | 音楽帳


再び1985年に戻る。

自分の好きなケイト・ブッシュが、「ドリーミング」という多重録音の極みの異常なアルバムから3年ぶりに第5作目の「ハウンズ・オブ・ラヴ」(邦題;愛のかたち)をリリースした。



9月21日に先行して発売されたシングル「神秘の丘(RUNNING UP THAT HILL)」。
その1週間後の9月28日にアルバム「ハウンズ・オブ・ラヴ」が発売された。

輸入盤で入手した7インチシングル「神秘の丘」は、今でも宝物として保管してある。



***

1985年、時勢は、フェアライト・サンプリングマシンが横行する時代の流れ中、ドラムはマシンの激しいアタック音・ビートは24⇒36⇒72と刻みを増し・「音像」全体の空間が密度を埋め尽くし濃くなっていく中、ご多分にもれず、この「神秘の丘」というシングル曲も、その影響は少なからずあったものと思われる。

途中から激しい爆発音のようなドラム。
攻撃的な全体の音圧。

しかし、このような曲が全部か、といえば、むしろ、この曲だけが突出しているだけで、全体は穏やかな世界である。

***

ケイト・ブッシュを初めて聴いたのは、1982年9月リリースの前作「ドリーミング」だった。



キチガイと紙一重の奇才ぶりに、すぐ引き込まれた。

タイトル曲「ドリーミング」は、36チャンネル高多重録音だったが、このアルバムに3年も費やしたのがよく伝わる、奇妙な音が現れては消える不思議な曲だった。

本人自体も、ノイローゼになったが、それくらいに入り込んで作った作品だった。

そんな曲ばかりかと言えば『オール・ザ・ラブ』のようなスローな美しい曲もあったりと、バラエティに富んだ曲が入った1枚であった。
ジャケットの美しさも手伝って、想い出の1枚である

***

ケイト・ブッシュは、1958年生まれ。
・・・・ということは、「ドリーミング」リリースは24歳(!)という事になる。
早熟にも、程があるものである。



神様などというものがあるか否かはともかく、「天は2物を与えるものなのだ」と思う。
代表曲にもなろうが、『嵐が丘』が1977年11月、つまり、19歳(!)ということだし。
こんなに美しい人が、こんなに才能があるのだから。

静かな曲の好きなかたちんばとしては、彼女の2枚目のアルバムの中に入っている『バブーシュカ』、それに、4枚目のアルバムの中に入っている『オール・ザ・ラブ』が、癒される美しい曲かな・・・。
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高橋鮎生 「MEMORY THEATRE」'85年10月

2009-11-17 21:04:52 | 音楽帳

【高橋鮎生 「MEMORY THEATRE」】

・・・時は、またしても1985年に戻る。

自分が、高橋鮎生さんの存在を知ったのは、教授のサウンドストリートであった。
高橋鮎生さんのアルバム「サイレント・フィルム」(1984年)を特集したときだった。

彼の親父さんである高橋悠治さんも、この教授のサウンドストリートには、かなり早い段階(1981年)で出演していた。
しかし、高橋悠治さんがいわゆる「現代音楽」のくくりの世界の人という中、その悠治さんの息子さんの奏でる音楽というのは、何か二重のひねりが効いているのか、どこにも属さないというか、カテゴライズされにくい、全様のつかみにくい音楽であるという感触を、当時思ったものです。

そんなぼんやりした記憶の中、1985年10月21日に発売された「サイレント・フィルム」に続く「メモリー・シアター」というアルバムから、クロスオーバーイレブンで『水色の鏡』という曲がかかり、エア・チェックして、この曲を毎夜聴いていた。

***

全体にアンビエントな、もやのかかった音空間の中に、ピアノが数音、そこに、ヴァイオリンがメロディーを奏でる曲だったが、とてもおだやかな曲で、ジャケットそのものというか、「夜」という不思議な時空間の中で、別世界の箱庭の夜を眺めているかのような感じを覚えた。

半眠半覚の状態とでもいうのだろうか。

そういう意味では、この『水色の鏡』という曲は、ハロルド・バッドの影がちらつく。
ハロルド・バッドは「眠っているのか、眠っていないのかわからないような、その境目のような音楽」と自分の音楽を語っていたが、『水色の鏡』はそんな雰囲気を持っている。

***

この1曲を聴いて以降、今ではこのアルバムも、神保町・御茶ノ水界隈でも見ることが出来なくなってしまったが、出来れば手に入れたいと思っている。

しかし、このアルバム「メモリー・シアター」の参加メンバーを見るにつけ、1985年という時代の断面が見える。

【「メモリー・シアター」曲目】
01/City in the sky
02/夏の終わりに
03/光の中へ
04/月の庭
05/水色の鏡
06/不思議な夜
07/ながれる
08/こもりうた
09/賛歌
10/ことばのあいだに

【参加メンバー】
高橋鮎生 (guitars,bass,keyboards,vocals)
近藤達郎(keyboards on 1.7.)
西村卓也 (bass on 1.2.6.9.)
鈴木さえ子(drums on 1.2.6.9.10.)
小山景子 (backing vocals on 1.)
遠山淳 (synthesizer programming on 3.5.6.8.9.10.)
大貫妙子 (vocals on 4.)
EPO(vocals on 4.8.)
如月小春 (voice,percussions on 7.)
坂本龍一 (piano on 4.6.)
竹田賢一 (大正琴 on 4.)

教授を取り巻く、ディア・ハートのメンバー、〔鈴木さえ子・大貫妙子・EPO〕、それに、演劇の新旗手だった如月小春さん、現代音楽からアンダーグラウンドな音楽の世界に居た竹田賢一さん・・・と、豪華な顔ぶれ。
(余談:ちなみに、さえ子さんは、ムーン・ライダーズの鈴木慶一さんと離婚した後、一般の方と結婚して、今は主婦になっているそうですが・・・。
当時は、本当に彼女の音楽も大好きでしたが、可愛くて容姿も好きでした。)

***

自分が好きだった『水色の鏡』は、やはりYOUTUBEには無かったが、1曲目の『City in the sky』を発見!
高橋鮎生さんまでも網羅するYOUTUBEには感心しきり。

しかし『水色の鏡』という静寂の音楽と並列で『City in the sky』みたいな、いわゆるPOPな曲まで1枚のアルバムの中に在る高橋鮎生さんという存在は、未だにその出生が不思議でならない。

今は、「Ayuo」という名義で音楽活動をしているようです。
その高橋鮎生さんのホームページに行くと、90年代に廃盤になったアルバムの曲が、無料で聴けます。

ホームページ・アドレス → http://www.ayuo.net/

いまだに未知で稀有な存在である、高橋鮎生さんの音楽を、改めて聴こうと思っています。
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佐野元春   「また明日・・。」(ライヴ)'92年

2009-11-15 20:04:26 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ


ひかりにあふれた 夜明けが近づく
僕は 一日中 空を 眺めていた
擦り切れた希望に とりとめない世界で
SAY GOODBYE AND KISS ME

夢を見た まぼろしかもしれない
君は 一日中 バラを 集めていた
残された理想が 見当たらない世界で
SAY GOODBYE AND KISS ME

また明日 また明日 逢えるなら
また明日 また明日 君と行く
SMILE FOR ME

荒地をながめて 歩きつづけよう
君と 一日中 愛を重ねていた
愛を 重ねていた
虹のように 空をかけて 
傷ついた自由 かまわない
もうかまわない
SAY GOODBYE AND KISS ME

また明日 また明日 逢えるなら
また明日 また明日 君と行く

また明日 また明日 逢えるなら
また明日 また明日 君と行く
SMILE FOR ME

また明日 また明日 逢えるなら
闇の中 風の中 君と行く
SMILE FOR ME


作詞 : 佐野元春
作曲 : 佐野元春

TBSテレビ「筑紫哲也のNEWS23」テーマ曲
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MZ師  「怒りの葡萄」

2009-11-15 01:21:46 | 雑記帳


先日、MZ師から電話で、このブログ「こころとからだがかたちんば」は、過激さが足りないと叱咤・叩き込みを受けた。

共に「憂国」を抱く同志として、この機会に「明日から、右よりのブログ名に変えて、再出発を計ろう。」という提案があったが、
僕は「自分なりに思い入れのあるブログだし、仲間にもたくさん出会えたので、カンベンして下さいよ。やるなら、コーナー化するから、それで許して下さい。」という事に落ち着いた。

・・・・ということで、右に傾倒したMZ師の”怒りの葡萄”(スタインベック風)という集中講座を開く事にした。
どこまで続くかは、いいかげんなMZ師本人次第だが、取り合えず、彼から来たメールの原文そのままに掲載する。

***

MZ師  「怒りの葡萄」

「日教組を弾劾せよ そして三等国家 中国の正体を知れ」

俺は高校生のときから周囲から少し「右寄り」の人間と認識されていた。
高校の現代社会の授業でディベート形式の討論会があった(憲法9条が論題)。

時に、俺は強く「自衛隊の合憲性とテロ国家北朝鮮との対決姿勢」を訴え・・クラスに波紋を呼んだ経験がある。
というのも、当時の現代社会/歴史の教師が・ガチガチの日教組親派で、過去の日本(明治~昭和初期)を全否定するような偏った思想の元に授業を進めていた事への、反発が多いにあったのだ。

俺も、軍国主義や戦争には反対だ。[民主主義にも反対だが(この件は何時か語ろう)]
だが・・過去、日本人が流して来た多くの血の犠牲の上に・・今日の日本。
今の自分たちがいるのではないのか???
歴史も人生も血反吐を吐くような試行錯誤を繰り返して進んでいくものじゃないのか??
大戦で散った多くの命をどのように考えているのだろうか?

学校教育、特に社会/歴史の授業においては教師は只事実のみを教えれば良い。

授業は「自分の主観」を押し付ける場所では無い。
・・・・・自ら考える力を育むのが教育だと俺は思う。
自分の国に誇りを持てない・・・・、国歌に敬意も持たない輩に教育される子供達が不憫でならない。

そして、こいつらの共通の特徴は過剰な中国信仰・・・。
ソ連が崩壊した今、共産主義者としては中国に肩入れするのはわからんでもないが・・・。

中国が敬意を払うに値しない愚劣な国である事は、チベットやウイグル自治区などへの蛮行を見れば子供でも理解できるだろう。
特にチベット弾圧などは、イスラエルのガザ地区への爆撃に匹敵する愚行だ。
健全な教育を取り戻すためにも、民主党政権にはまず日教組の解体をして貰いたいと切に思う。
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理屈からこぼれ落ちてしまう「なにがしか」

2009-11-10 21:05:24 | 音楽帳
ウソで塗り固められた世界に対峙しながら、それでも、その世界に身を置き、生きねばならない日々の闘い…。

ブログを更新していなかったのには、いろいろ理由はある。

・1つ目の理由は、愛用のパソコン「マイVaio」ちゃんが壊れた事。

・2つ目は、仕事が尋常ではない忙しさになった事。

・3つ目は、様々な2009年の死に対して、喪に服したくなった事。

・4つ目には、沈黙=無・空のタームを取りたかった事。

***

ポリスの’81年11月の名盤に「ゴースト・イン・ザ・マシーン」というアルバムがあるが、機械の中にも魂があるかのように、まみちゃんの死の後、機を一にしたかのように壊れた、愛用のパソコン「マイVaio」ちゃん。



よくうちのお袋さんは「家電製品には当たり外れがある」という言葉を使うが、昔の栗本慎一郎さんの「パンツをはいたサル」か「都市は発狂する」のいずれかの本に、同様のくだりがあったのを思い出した。

機械は沈黙しているが、同じような工程管理の元で作られたAとA´の製品。
片方は良品なのに、もう片方は不良品として故障した。

なぜか?

その違いに物性的な違いが無いとしたら、そこには魂のような「なにがしか」が存在するのでは無いか?
という「なにがしか」の可能性に、栗本さんは言及していた。

***

友人MZ師は、徹底的な現実主義者(かつ右翼)だが、自分の場合は、そこまでは行かない(行けない)甘さがあるものの、基本的には似ている。

自分は、幼い頃からUFO・宇宙人・幽霊といった超常現象が好きで、そういった本をたくさん読み・テレビ番組はかかさず見て来て、それは今も変わらない。

但し、幼い頃は本気で全てを信じていたが、ある歳から一切信じなくなった。

今の自分は、UFOも宇宙人も幽霊も無いと思っている。
しかし、大槻教授のように「すべては、科学で説明が可能である。」とも思っていない。

何かの理屈でくくろうとすると、必ずその中からこぼれ落ちてしまう「なにがしか」・・・・・・・。

確かにUFOも宇宙人も幽霊も無いが、じゃあ全部がウソ=ゼロなのか?と言えば、そうでは無いと思う。

「なにがしか」が存在するのだと思う。

***

ハタチ前後の素浪人時代、ひどいノイローゼに苦しんでいた頃、「黒魔術」の本を読み・鍛練を積んだが、何1つかなわず、むしろ、かなわないことで、より生々しい現実が迫って来て、更に苦しくなるという悪循環の輪の中にはまっていた。
あの頃の自分は、明らかに精神異常の世界に行ってしまっていたのだろう。

そんな過去の自分を遠く感じるようになった今なのだが、妙な話であるが、誰のココロの中にもあるような、ふと思う“真から嫌なヤツの不幸・苦手なヤツと離れたい距離”、そういう事が現実化してしまう事が、このところ続いている。

実に、不気味な事だが。

まさか、今になって、20年以上前の黒魔術の鍛練の成果が出て来た訳では無いのだろうが…。

***

自分の中に住まう「なにがしか」。
現実世界の中にある「なにがしか」。

一体、この「なにがしか」は、何なのだろうか?
多分、それを解明出来ないまま、死=タイム・リミットを向かえるのかもしれないが・・・・・・。

***

だが、そのヒントとして在るのが、ユングの心理学の研究である。

自分の素浪人時代のノイローゼは、最終的には精神分裂病の症状(何かにしがみついていないといけない・周りのモノが迫って来る)に至り、親への自動的カミング・アウトを経て、精神科通いでクスリを飲む事で、ある程度表面上治まる方向に向かったが、そんな自分が、漂流の上辿り着いた大学で、絵にしがみついて描くかたわらで、精神医学・心理学の本をたくさん読んだ。

そのとき、一番自分を引き付けたのがユングだった。

ユング派を継承してきた、日本の第一人者 河合隼雄先生は、2年前亡くなってしまったが、河合先生の本もよく読んだ。

ユングが見い出した有名な概念に「シンクロニシティ(=共時性)」がある。

★「シンクロニシティ(=共時性)」とは・・・「意味のある偶然の一致」のこと。
非因果的な複数の事象(出来事)の生起を決定する法則原理として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理として、カール・ユングによって提唱された独: Synchronizitätという概念の英訳である。
何か複数の事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近接性」を備える時、このような複数の事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と見なす。(ウィキペディアより引用)

また、ユングの本を読み直すか…。

ポリスの’83年のラスト・アルバムのタイトルは、まさに「シンクロニシティ」だが、当時のスティングもユングにかなり傾倒していたようだった。

ブログの再開に際して、僕はポリスの’81年11月の「ゴースト・イン・ザ・マシーン」から「インビジブル・サン」、つまり、『見えない太陽』という大好きな曲を聴きたい。

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