こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年12月31日 木曜日 一年の終わりに

2015-12-31 22:41:02 | 写真日和

家で元旦をむかえたい、と懇願する親だが「仕方がないね。テレビを楽しんで。」となだめる。
うまれて初めて家族が欠ける元旦となる。

見舞いを終えて、ぶらぶらあてどなく歩き、シャッターを切る。
数時間後には人だかりになる神田明神や湯島天神を通過し、そのうち上野御徒町に近付いてしまう。

いつだって大晦日は上野のアメ横が舞台になる。数少ない戦後の匂いと猥雑さを遺す場所。
混雑を意識してたら今日行くつもりはなかったが、通り道となってしまい、人混みとせわしなさに出会う。
「師走」とはこのことを指すのだろう。

明日は独りで頑張っている親父をみんなで囲んで、とタケヤに入ってみると抜けられなくなる。
せわしなく買い物をする人と店員さんの成す”場”に取り込まれると、数の子やらなんやかんやと買ってしまう。

***

そこを抜け出ると、人の少ないほうへ。相変わらずmp3プレイヤーで音楽を聴きながら。
陽が落ち、松ヶ谷に差し掛かった頃、唐突にクリムゾンの「スターレス(&バイブル・ブラック・・・)」が現れ、かじかむ手でシャッターを切りつつ、今一度感銘を受ける。

足の痛さと冷え込みから、バスの助けを途中で借りながら、島まで歩く。
大荷物を持ち、指にビニール袋が喰い込み痛い。くたびれた中聴く今年最後の一枚は、トム・ウエイツの「ボーン・マシン」。ときに土俗的だったり、マーティン・デニー的キッチュなエキゾティシズムも覗く一枚。
陽が沈んだ後の大晦日に夜道を歩きながら聴いていると、心情とまじわり合いながら妙に安堵を運ぶ。
今の自分にとって、クリムゾンと共にリアリティに手が届く音楽。

この中の素敵なピアノ曲もあるが、今年最後の日に愛する人たちに一曲を贈るなら・・・と思うと、今の自分はこの曲を選ぶ。自分へも含め、たくさんの痛みをしずめるための鎮魂歌である。

■Tom Waits 「Tom Traubert's Blues」1976■














































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2015年12月30日 水曜日 忘れないためのバラード

2015-12-30 23:54:47 | 音楽帳

この時期=年末には「今年を振り返る」といった番組や企画が花盛りになる。
テレビは相変わらず見(られ)ないし、うるさいのは御免だ。観るのは唯一、入院する親の病室で一緒に視て話すときくらい。今日は偶然、兄夫婦と同じ時間帯に出くわし、大勢で談笑する愉しい夕べとなった。

せわしないテレビ世界の一方で、ラジオから対談などが静かに流れる呼吸感が良い。
こないだの渋谷(陽一)さんの放送は、大貫憲章さん・伊藤政則さんを招いた3人で、今年の音楽を振り返る2時間特番。
毎年恒例らしいが、初めて聴き通した。激しく性急な曲が多かったが、なにはともあれ3人が昔と変わりなく元気な様子に安堵し、微笑んだ。まるで少年のまんまの3人の姿。

今朝は、大沢悠里さんの放送。中身よりも大沢さんの語り口が好きなのだろう。
その中では、まむちゃん(毒蝮さん)と張本さんが、今年のプロ野球を振り返る対談が流れた。野球は特に見聞きしていないけれども、2人が話しているやりとりが面白い。

***

昨日は、久々にMZ師・ハブ噛み師匠と3人で集まり、昼から夜まであてどもなく歩いた。
夜、お酒を呑みながらいろんな話をした。音楽やアートの話題になると、MZ師はやっぱりいつもの太宰・安吾ら無頼派について熱く語り出す。そういう恒例のお話しタイムもあった。

「来年早々にある陽水さんのライヴに行こう。すでに一回観たけどぶったまげた。あれは視ないといかん。」という彼に同意しキップを取ってもらうことにした。じぶんは彼らと歩く途中で、CDショップに寄り(やっと)陽水さんの「ユーナイテッド・カヴァー2」を買った。

焼酎のお湯割りを呑みながら、清志郎が亡くなったことを、ずっと惜しむ彼。
私は忘れていたのだが、昔一緒に歩いているなか日比谷あたりに差し掛かった際、野音から清志郎の声が聞こえてきて、タダで聴けてイイね、と言ったシーン。
そういえばそんなことがあったね、と自分。音楽の話しの途中、今年亡くなったシーナやいろんな人の存在が出てきた。

年末にその年を振り返り、そして翌年をむかえる。
それはそれで良いが、今年あったことを捨て去りながら、翌年にすすんでいこうとする為政者・資本家たちの誘導と同調する人々ならば、そういった人と話しをしたくはない。
仕事でも社会でもない、騒動の外側にある語らいや言葉にしか本当のことは無い。そんな気がしてしまう。

***

永六輔さんの放送で、毎回野坂(昭如)さんの手紙を読むコーナーがあった。
それが続いていたので元気な便りと聞いていた。
野坂さんが亡くなった日に、仕事場で同僚仲間とお弁当を食べながら、ユーチューブで「例の」大島渚さんのお祝いのパーティーシーンをみんなで観て大笑いした。「やっぱりこれが最高のシーンだね。友情ってのはこういうもんだ」と。このことは、よくみうらじゅんさんも言う。

突然、わけもなく野坂さんが笑顔の大島さんをぶん殴り、2人でつかみ合いになるが、その傍にいる奥さん・小山明子が笑っている。その子供そのままの2人を止めることなく。

■Eagles 「Pretty Maids All in a Row(お前を夢みて)」1976■
















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2015年12月25日 金曜日 「ニューウェイヴ・カセットシリーズ ③ 1981年12月」

2015-12-25 23:04:32 | 音楽帳

シリーズ化し出した3本目のカセットテープ。
‘81のマイ・ベスト・コレクションとあるが、「マイ」がセレクトしたものではない。
また、ニューウェイヴと言える軌道上の音はA面1、2曲目だけという代物。でも未だ好きな曲ばかりのカセットテープ。

この年出会ったほとんどのニューウェイヴは入っておらず、日本版洋楽ヒットチャート的な曲が多く収まっている。
「BGM」「左うでの夢」「ロマン神経症」「テクノデリック」も「出口主義」もここには無い。濃厚な圧度はここにはない。

受験が終わり春が見え出す翌年2月終わり頃まで聴いていたんだろう。
12月にこの年の音楽を振り返る番組が「軽音楽をあなたに」で放送され、エアチェックしながら好きな曲だけを残した。

1年間の音楽を総括しているか?
といえば、そうもなっていなくて、秋から冬に現れた曲が中心である。
結局のところ「‘81 MY BEST COLLECTION」とは、ただそう書きたかっただけなのだ。

***

のちにドラマ「電車男」のテーマ曲になったELOの「トワイライト」は、夜が迫り来る真っ赤な夕暮れ時によく聴いた。
アース・ウインド&ファイアーの曲は、受験に落ちて呆然とした中、日吉駅にある喫茶店で掛かっていた苦い時を思い出す。
好きでもない同級生らとお茶を飲まざるをえない時、制服姿でお互い居ながら、フロアで掛かるBGMが「レッツ・グルーヴ」だった。(有線放送でも、FM放送でもない)

この日以来、日吉には行っていない。
街の佇まい次第だが、基本東京二三区の東側で好きな場所は少ない。地方から出てくる女性は必ずと言っていいほど、このエリアに住もうとする者が身近に多い。
今ではもうどうでもいいことだが、日吉は日比谷線から乗り入れの終点駅で、地下鉄に恋していた小学生時代・その行ったことも無い駅名刻印がされたキップを大事に箱に入れていた。それ以外は、想い入れのカケラもない。
今年、目黒区に迷い込んでしまい、あてもなく歩いた日があったが、その街を好きになることはなかった。

■Sheena Easton 「For Your Eyes Only」1981■
シーナ・イーストンは「モダン・ガール」で登場して以来好きなポップスシンガーだったが、その存在の在り方はオリビア・ニュートン・ジョンの後継者だった。洋楽という日本的くくりの中でもなじみやすくヒットし、日本の『歌謡祭』にも招かれた。

「ユア・アイズ・オンリー」は映画「007」の主題歌。
「モダン・ガール」「9To5(モーニング・トレイン)」とヒットした後の一曲。それまで明るい曲調が続く中、初めて彼女のかげりあるスローでメロウな曲として聴いた。
彼女の曲の中で一番好きなものかもしれない。吸い込まれるような音に安息を覚えていた。


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2015年12月23日 水曜日 「クリスマスソング」

2015-12-23 12:36:45 | 音楽帳

師走にしては温かい日々が続いた。
それでも雨や北風のせいで、樹々の葉っぱ隊はほぼ散り尽くし、冬らしい風景になった。
葉を落とし裸になって空に突き刺す樹々と枝。

師走が早々と目の前を通り過ぎて行く。今年の時の速さは、尋常ではない。
そして、あっという間にクリスマスさえも通過していきそうだ。
驚くべき速さで。温かかった師走で、気を抜いてしまったせいもある。

ラジオからはこの時期らしいクリスマスソング。
それ以外でもmp3に入れた曲も含めて聴いている。

つくづくポール・マッカートニーとジョン・レノンは全く違う存在なのだ、とこの時期に思う。共に素晴らしい音楽家だが、二人の代表的クリスマスソングには象徴的な違いを感じる。
ポールの愉しげで軽やかな「ワンダフル・クリスマスタイム」の片方では、ベトナム戦争終焉への喜びと平和への祈りが込められたジョン・レノンの「ウォー・イズ・オーヴァー」。

ポールの曲は1979年作品、ここ数年になってよく掛かるが、当時は意識して聴いていない。(翌年YMO/テクノに影響を受けて作ったシングル「カミング・アップ」は、当時よく聴いたが、これも素晴らしく軽やかなポップス。)

ジョン・レノンの1971年クリスマス・ソングは、幼い頃NHK教育テレビ等の映像でよく見た。雪の中のカーペンターズの2人と共に、幼い頃の白い冬の空を想い出す。
ジョン・レノンが、クリスマス曲の中にメッセージを残すことで、必ず最低一年に一回必ず掛かるように。。。という装置を意図したかどうかまではよくわからないのだが。

先日紹介したシカゴの「サタデー・イン・ザ・パーク」にもベトナム戦争終焉への喜びが歌われている。公園の何気ないうららかな様、その平穏がいかに大事な平穏なのか。
2015年、様々な場所では血が流れ続け、多様な戦争は続いている。
なにも戦争ばかりではない。今日も明日も、いつどこにそんな災いが舞い降りるかわからない。その中で、宗教家でも政治家でも無い者たちは、どうやって生きたらいいのだろうか。

1991年湾岸戦争のさなか、幸宏が発表した「A DAY IN THE NEXT LIFE」(=来世)にもクリスマスソング『神を忘れて、祝へよ X'mas time』『クリスマス・イン・ザ・ネクストライフ』が入っている。
80年代後期から苦悩の色を強める作品が続く中、彼の精神はそこまで追い詰められているのか、と思ったものである。
このアルバムは、社会人として初めて異国に放り込まれた大阪で聴いた一枚。それでも痛々し過ぎるのもあり、この曲を最近聴くことはまったく無い。

肝臓を壊して以降、よく実家に泊めてもらう静養のさなか、白い空を見上げながらクリスマスソングをずっと室内で聴いていた日があった。実に珍しい年だった。
80年代広告業界の手によって、クリスマスが家族で過ごす日から、性なる日のイベントとすげ替えられて以降、クリスマスそのものへの嫌悪が強く根付いていたからだ。

そんな中でクリスマスソングをたくさん聴くことになったのは、兄がプレゼントしてくれたクリスマスCDのせいである。311があった2011年のこと。
とても素晴らしい選曲のクリスマスソング集。

このCDで初めて知ったサラ・マクラクランのカバー。それがとても素晴らしく、感銘を受けた。
ジョン・レノンのこのクリスマスソングは、多くのミュージシャンにカバーされている。

■Sara Mclachlan 「Happy X'mas(War Is Over)2006■




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2015年12月21日 月曜日 写真日和 「二〇一五年一二月・東京」

2015-12-21 22:53:25 | 写真日和

12月上旬の断片。脱力。

■Harold Budd & Brian Eno 「A Stream With Bright Fish」1984■






























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2015年12月20日 日曜日 「年の瀬を迎える前に、峠で一服・その2」

2015-12-21 00:29:17 | 音楽帳

昨日も今日も、ひたすらクリムゾンを聴いていた。
彼らのことを書きたいけど、ヘルニアから来る頭痛。マッサージにも行ったが変わらず。
何かを書きたいが、渋谷(陽一)さんの受け売りになってしまいそうなので、今夜はやめよう。

しかし、ただひたすら素晴らしく凄い。
今日はさぶい外を歩く中、ファーストアルバムをひたすら繰り返し聴いた。
心に突き刺さって仕方がなかった。

昨日は、大学で出会ってから付き合っている友人と久しぶりに会ってお酒を呑んだ。
彼は、未知の関西に投げ込まれたときも借家探しに始まり、いろいろお世話になった人。
震災にも一緒に遭遇した。彼は神戸に、私は梅田近くに居た。

呑んで話しをしたのは、安い大衆酒場。
初めて入った店だが、工夫ある珍しいつまみがおいしかった。東大近くとあって、芸術系や頭脳派が客に多い。
芝居系の年上男女軍団が居て、やたら声がうるさいのには困った。
「ここは舞台じゃないってぇの。」と彼に言うが、それは彼らの声にかき消される。
芝居の人は地声が大きいから、こういった場には招かれざる客。途中で居なくなってくれた。

***

急に連絡が来た彼は、東京でしかライヴがないジャズを聴きにきたという。
そばの神棚位置についているテレビにユーミンが映っている。昔、校歌を創った長崎の島を再び訪れるドキュメント。前に観たことがある。

私「ユーミンも歳を取ったなぁ。それでも、まだ若いけどね。」
彼「ユーミンのライヴに行ったことあるけど、良かったよ。レコードはともかくライヴはエンターテイメントとして楽しめた。」
判らなくはないが。
私「ふーん。ぼくが持っている作品は荒井由実だけ。それ以外は。。。」

音楽等々いろんな話をした。最近何を聴いているのか?あれは良いよ、など。
彼からは自分が知らない音楽をいろいろ教えてもらってきた。

私「買ったはいいけど聴かないだろうCDを処分しようと思って悩んでる。ピーター・マーフィーとか。」
彼「たしかにピーター・マーフィーの聴いていないCDを前にしたら、エネルギーが居るね。」

そして、お互い覚えていたのは、被災した神戸のマンションに行ったときのこと。
彼が掛けてくれたバウハウスのライブビデオを、一緒に見たこと。
それを視た夜泊めてもらったのだが、次第に彼はすやすや寝てしまい、一人残されて最後まで見ていた。
なごんだ部屋も、外に行けば、向かいのマンションは一階が二階になって傾いており、街の電線がぶら下がる世界。そんな夜だった。

■Bauhaus 「Kick In The Eye」1982■

お店を出る前、彼はわざわざ選曲したものをUSBに入れて渡してくれた。
私もオススメの曲を、この冬に選曲しようと思っている。


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2015年12月18日 金曜日 「年の瀬を迎える前に、峠で一服」

2015-12-18 23:58:12 | 音楽帳

明け方目覚めると、灯りをつけたままだった。
灯りとエアコンを消す。簡易ポットに少し残る白湯を飲み、再び横になる。

定時となって、何度もアラームが鳴る。奇妙な夢を見ていたよう。
普段以上に調子悪く、朝起きたはしたが立ち上がれず、それもまあまああることだが、昔の肝臓壊した時思い出す感覚。
次第に今日は無理だと気持ちが傾き、横になる。
起きると8時半を回っていた。休むことにする。年の瀬を迎える前に師走半ばで失速し、ヘタってしまった。

気が抜けると、それまで緊張していたものがはち切れ疲労がこぼれ落ちたり、そこにウイルスが流入したりする。風邪はすでに一回引いたが、薬を一切使わずに戻った。
今日は別に風邪らしい症状ではないが、入院する親が居る以上、何かあったら動かなければならない側は大胆かつ慎重にならなければならない。

大胆とは、いくら強引でも、今日やらねばならないことを全て破棄すること。
慎重は、無理している心身を休めること。

***

お茶を煎れラジオを付けると、大沢悠里さんのお色気大賞が流れている。外は快晴。
食欲は無いが無理してでもパンを食べ、洗濯をする。こまごましたことをする。

平日、今も外で社会は歯車が回り続けている。
そこから放置された時空、ぽっかり開いたすきま。
ラジオを流れるニュースも、パソコン画面上に見えるものも、異界のモノに映る。
冷静な神経で見える。ふだん現れないモード。

急ぎ足の日々には、なかなか落ち着いて聴けない音楽を掛ける。
”キングクリムゾンプロジェクト”の一枚、「スケアシティ・オブ・ミラクルズ」を初めて聴いた。
気分の波長が合う。メル・コリンズのサックスが、ぼやっとした室内に優しく浸ってくる。
そこからもらった足掛かりで、室内の歩幅は「太陽と戦慄」に向かう。

風呂に入り支度をし、お見舞いに向かう。
冬らしい寒さとピンと張った風景の色の鮮やかさ。「太陽と戦慄」を聴きながら歩く。
お正月を家で迎えさせてあげることが無理となり、否が応でもシフトチェンジしていく中、峠で一服の休みは今の自分には必要なのだ。

夜戻り、明日の仕事用道具を整理し、支度をする。

そんな折、これまた偶然、フリップ先生が奥さんのトーヤと出ている番組にばったり出くわした。ニホンでもよくあるバラエティ番組「夫婦でクイズ」といったもの。
先生がこのような番組に出るとは驚きであった。

■イギリス番組「All Star Mr & Mrs」ロバート・フリップ&トーヤ夫婦 2013年5月8日■
ステージ以外のドキュメントで、先生が笑ったり茶目っ気あるシーンは観たことはあったが、ここまで優しい顔をしたフリップは見たことがない。
しかし、なんと可愛い夫婦なんだろうか。全く異質なことは分かってはいたし、どうやってあの2人がやりとりしているんだろうか?と不思議に思ったものだが、全く異質だからこその関係というのがよく解かった。
先生が学者然としたなかで、トーヤは屈託の無い自由な明るさを振る舞う。本当に愛らしい2人のさまに自然と顔がほころび、気持ちが緩んだ。

エーゴがしゃべれる者ではないが、この映像を視て、先生のありさまに「つくづくイギリス人らしいな」と思い、XTCのアンディ・パートリッジを思い浮かべた。
大真面目に語るから大真面目に受け取ろうとするとだまされる。
そんなことはイーノとコラボレーションしたことが起点となり、元々はイーノが開発したディレイシステムを”フリッパートロニクス”と命名するに始まり、様々な予言めいたことを言ったり。
昨夜は終幕で「ブラボー」と思わず立ち上がって拍手を送る大勢のファンの喝采の中、先生は表情一つ変えず直立不動だった。実に先生らしく、抒情的になってはいけないのだろうが、こちらはその様が何とも切なくつい涙腺が緩んだのだった。



この見開きは「フールズメイト」1981年4月号。
単なる編集上の偶然なんだろうが、左がトーヤ、右ページが先生になっている。ようくこのページを眺めることがある。
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2015年12月17日 木曜日 「The Elements Of King Crimson Tour In Japan 2015」

2015-12-18 00:58:57 | 音楽帳

エイドリアン・ブリューが居ないしな。。。そんなたわごとは実に”たわけ”だった。
想い余った末、わだかまることに耐えかねチケットを取ったキング・クリムゾン追加公演。
渋谷・オーチャードホール。聴くことだけに夢中で、とても2時間半が経ったとは思えなかった。

コアな人がどう言おうが構わないが、私にとってこれほど素晴らしい演奏はなかった。
そんな唯一無二のチューンを聴けたことに、なによりものひたすらの感謝。
さすがはフリップ先生とその仲間たち。全演奏パーフェクトな様に、いやいやなんとも。。。

ずーっとここ数週間mp3プレイヤーにしのばせて聴いてきたクリムゾンの作品たち。
今朝も作品「レッド」に始まり、肉眼と耳で聴いた「レッド」、その帰り道も再び「レッド」を聴いた。

”何がどう”などまとまらぬまま、帰ってもひたすらクリムゾンを聴いているうちに、深夜になってしまった。”何がどう”は、この”混乱”が収束しうるならば書いてみたい。

■King Crimson 「Red」1974■



子供だましの音楽はしばらくの間聴けそうにない。
音楽は遊びじゃねえんだよ、と音そのものが無言で突き付けてくるやいば。
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2015年12月15日 火曜日 「ニューウェイヴ・カセットシリーズ ② 1981年11月20日 sideB」

2015-12-15 23:39:40 | 音楽帳

カセットテープシリーズ②は、B面を開けると「なあんだ」と思われる選曲かもしれない。
1981年11月と言えば、作品「テクノデリック」が発表された月。
そんな11月20日に「なんで今さら“BGM”を録音?」と。
それに大村憲司さんのソロは、1980年末までの第二期ワールドツアーの流れのままYMOファミリーで制作・発表された春夏向けの作品だし。。。

しかし「なあんだ」と言える者は、今だからこそ、ひもじい思いをしていた少年時代を忘れているのだろう。
不自由無い生活と十分な余裕を享受して、きっとそれをお払い箱にしてしまったんだ。

毎日毎日、その日聴いた音が心に到達しえたなら、その曲を録音する、を積み上げ残す。
それを、繰り返す中学時代。
既に持っているYMOのLP「BGM」をそのまま録音して残そうと思ったのは、ラジオで掛かったものが再度心に響いたからである。

「その行動はどういう意味?理解できない。」とキチガイじみて思われるだろう。
「もともとカネもねえくせして、持ってるLPとおんなじ曲を録音してカセットテープ代のムダじゃねえか。バカじゃないの。」と言われるだろう。

だが、日々FM雑誌を見てヘッドフォンをしてラジオ・エアチェックする中で、耳に聴こえてきた音の流れが良かったなら、その体験を残したいと思った。既に何十回も聴いている曲であっても・その音楽と過ごした有益な時間がある。
それが録音を残した理由。

よく通る好きな道に咲いた花の姿を、キレイだなと通るたびに思い、毎回シャッターを切り、写真に納めることと同じである。

同じ曲であっても、それを聴く日や時間や条件が異なるだけで新鮮に見える。聴いている機器や状況で響きは異なる。
曲の順番を入れ替えるだけ、あるいはほかの曲との流れ、それだけでも音楽は大きな変化をもたらす。
エアチェックやカセットテープ作りは、料理と同じである。

二重・三重の録音で出る余分なカセットテープ代は、別の場所でなんとか工面せにゃあかん悩みだったが、だからと言って計算だらけの理性的生き方も出来ない。カネはあとから何とはするぜ、という勢いだった。
(現実には、何ともならないだろう、と分かっていても。)

ニューウェイヴカセットシリーズ②のB面は、19:20~20:00のNHK-FM「サウンド・オブ・ポップス」。確か?時間遅れの新譜特集だったと思うのだが、3月21日に発表された「BGM」A面トップ、三人三様の3曲が後半収まる。
そこに、分数が余ったので、余った分数を時計で測り、持っていたLP「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」から教授の名曲『キャスタリア』を入れた。イーノに影響を受けたピアノ曲。

この余った部分に持っているレコードなどを入れ込む、という方法は、当時のFM雑誌で”カセットコレクター自宅拝見”みたいなコーナーで紹介された人がやっていることに感化されたものだった。

■ティム・ブレイク 「宇宙の灯台」1978■

ゴミの巣窟整理の中で、ああそうだ、と発見したものがあり、しげしげ眺めていた。
これもまたカビが生え出しているけど。

写真を現像に出すとタダでもらえた写真ホルダー。
ここに70年代終わりごろから80年代にかけて、FM雑誌から切り抜いたカセットテープ・インデックスカードの背表紙用の名前ラベルを収納していた。使う予定だったものが使われぬまま残ったもの。





残り物に福がある。
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2015年12月14日 月曜日 「スケッチブック -モネ展・上野都美館-」

2015-12-14 23:56:04 | スケッチブック

前を通るたびに「また行列か、、、も少ししたら来よう」。
毎週そうつぶやいている間に最終日になってしまったモネ展。
ついに尻に火が付いて、必死になって行った上野の都美館。

正直、展示内容は大仰な広告ほどのものでは無かった。
また、絵の配置の仕方、人の動線を考えていないロケーションが上手くなかった。
そういうスタッフ側の出来は別にして、モネ展を見れたことに感謝した。

見終わって外に出た道で友人MZ師からTELあり。
「どこに居るの?」「今、上野の森だよ。」
そんな彼は、奥さんの義母を連れて箱根に居るという。「偶然だが、午前中箱根の印象派の絵を視ていたよ。」

彼に言われて「そうだな」と思ったのが、よほどなことがないと普通見られない絵を、目の前で見られる幸福。
「お互い、カネと自由時間がある利益収奪者や泥棒連中じゃないからね。海外になんか早々行けやしないんだから。」

最終日とあって、中に入るのに50分を要する。辛抱する。
都美館3フロアのうち、上がって行った最終フロア2階。

そのフロアは、70・80代にモネが描いた絵をまとめていた。初めて見たものばかり。
しだれ柳・日本の橋・・・目が悪くなるなか、キャンバスにのせた絵の具と筆。
荒々しい筆の転がりと、狂ったような色使い。かすれて塗られていない箇所・逆に絵の具のかたまりがこんもりとそのまま凝固した箇所。

【「キスゲの花」1914~1917年作品】
多くの人は注視して観ていなかったが、私が引っ掛かりを持ったのは、このフロアに掛かった絵たち。肉々しい絵につい急に吉田カツを想い出す。それくらいに、この時代の絵は従来のモネの絵画への印象とは異なる躍動感。

眼が悪かったモネは、これらの絵の全体像を、睡蓮の連作のようにして、微細な印象を表現すべく練磨した神経では描いていない。色や形をきちんと認知していたかは分からない、ある意味筆の成すがままに任せたはずである。ただ、絵とはそういうものであり、偶然が成した痕跡を一定距離や時間が、その佇まいを醸造する部分がある。
そこに一定の作業が作り上げた集積物が在る、という姿。

ある印象を形として成そうとした画家が、それを離れて、もう一つの絵の在り方に渡り・移っていったのは別段おかしくはない自然の成り行きである。
絵にはルールはない。自由だからである。
そんな自分の勝手で一方的な解釈で見られた70・80代の作品コーナーこそが、昨日の自分のめっけものであった。

そして、肉眼と紙ではおおいな違いだが、この時期作品のポストカードを買い、外に出た。
絵が好きで来ているのかどうか定かでない人が群がる場所を離れ、外に出るとすでに陽は沈んでいた。
とにかく静かな場所へ。。。と森に入り込んでは歩き巡り、たばこに火を付けた。

人が居ない方向へ。
上野公園から鶯谷、入谷、下谷、三ノ輪を通り越し、日本堤、山谷を抜けて島まで歩く。時折雨が降ったりやんだり。

暗い道で聴き通したひさしぶりの「ポセイドンのめざめ」が素晴らしく良かった。
”プログレッシヴ・ロック”という呼称が一般に使われるが、ほかに使う言葉がないからそう呼ぶんだ、というのがよく分かる。
キング・クリムゾンという唯一無二の音楽はロックという概念ではくくりようもない。それはピンクフロイドもイエスもELPも同様だが。

暗い道とか外の電飾・街灯とあいまった世界がシャッターを押させるうちに、「ポセイドン」はじぶんをオルナタティヴワールドにいざなっていった。

■King Crimson 「In the Wake of Poseidon」1970■












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