こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

ティム・ブレイク 「宇宙の燈台」'81年11月

2010-02-28 12:54:17 | 想い出かたちんば
1981年7月の暑いさかりに、かたちんばは、長年愛した三ノ輪を離れることになった。

***

元はと言えば、住んでいた家は、斜め向かいのおじいちゃん・おばあちゃんの家であって、それを借りていたのだったが。

おじいちゃんは、1966年の1月に亡くなり、そして、その数ヵ月後に、かたちんばは生まれた、というか、この世にエイリアンとして落ちてきた。

みな、自分を「おじいちゃんの生まれ変わり」と言っていた。

おじいちゃんは、みんなにも愛されていた、凄みのある優しい人で、僕はおじいちゃんには会った事は無いのだが、悪口を聞いたことが未だに無い。

うちの通りには、アラーキーの実家の下駄屋さんがあって、そのアラーキーのお父さんとうちのおじいちゃんは、盆栽仲間だった。
共に、写真好きで、おじいちゃんが亡くなった際には、アラーキーのお父さんが、葬式の写真を撮ってくれた。

***

一方おばあちゃんといえば、性格が悪く、さかんに「家を貸しているんだから」という嫌がらせをよく言っていたという。
コドモながらに、余り笑った顔を見たことが無い、厳格なおばあちゃんだった。

そのおばあちゃんも、果ては、ボケてしまい、なんとおじいちゃんの無くなってから三十余年を経て、そのボケ具合と面倒見切れないくり返し同じ事を言うのに、看護する側がノイローゼになりそうになりながらも、昔の恨みもあって、みんなに「早く死ね!」などと言われながら96歳まで生き、大往生した。

***

自分は、実は幼い頃から、両親のどちらにも顔が似ていない。
そして、最近、ヒゲを生やすようになってからは特に、お袋さんから「おじいちゃんそっくり」と言われるようになってきた。

隔世遺伝という奴である。
まさに、自分は、どんどん写真とお話しでしか知らない「おじいちゃん」にそっくりになってきている事に驚いている。

***

1981年7月、草加に引っ越すはめになったのは、おばあちゃんからああだのこうだの言われるのがイヤになって、草加に家を買うことにしたからだった。

しかし、自分は下町三ノ輪を愛していたので、複雑な想いでいた。

***

引っ越した草加は、ずっと都内に住んでいた中学3年生の自分にとって、驚くような未開の地だった。
ちょうど「ダ埼玉」というコトバがはやっていた時期で、バツの悪い思いをしていた。
夕方にはこうもりが飛び、都内では見ないような大きい薮蚊(やぶか)に刺された。

文房具の買い物をするだけなのに、セミの鳴く中、たんぼをよぎり汗だくで数十分歩かないと文房具屋さんに着かないと行った具合で、げんなりしながら、周囲に知り合いが居ないのも相まって、すっかり引きこもりになってしまった。

中学3年生で受験生だった自分は、親からのプレッシャーにも耐えながら、引きこもって勉強をしながら、楽しみはといえば、FMラジオを聴いては、エア・チェックすることだった。

***

「サウンド・オブ・ポップス」「軽音楽をあなたに」「サウンド・ストリート」「クロスオーバーイレブン」・・・・。

1981年11月から、自分で、ニューウェイブの好きな曲をシリーズ化してインデックスを作って、ナンバーを作っていくのを始めた。

そんな折、よく「クロスオーバーイレブン」の選曲で選ばれていたのが、ティム・ブレイクの「宇宙の燈台」という曲だった。
もちろん、エア・チェックした。

***

大好きな曲で、よく聴いたものだが、今では、ティム・ブレイク自体のアルバムもCDも手に入れずらい。
そんな中、やっぱり役立つのがYOUTUBE。

あった、あった、「宇宙の燈台」が。
ひさびさに聴いたが、スペーシィーサウンドで、夜な夜な受験勉強のかたわらで、精神が宇宙に飛んでいくような感じを思い出した。



今では、FMにもかからないだろうし、なかなか聴く機会も少ないと思うが、自分にとっては、想い出の1曲なのだった。
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五輪選手の背負う重荷に耐え、頑張った女子フィギュアスケート3人に拍手

2010-02-26 20:51:42 | 雑記帳


昨夜は、某上司の家で夜中3時まで呑んだくれていたが、BSでずっとオリンピックの「最後の華」女子フィギュアスケートの公開練習風景を見ていた。

今朝は、酒の抜けない中だが、職場みんなが女子フィギュアスケートを気にしていて、13時は回っていたが、みんなで、大画面モニターのある部屋に集まって、安藤美姫(ミキティ)と浅田真央を応援した。

***

順番は、安藤美姫(ミキティ)、キム・ヨナ、浅田真央の順だったが、とにかく凄い緊迫感があって、その中を、3人3様、素晴らしい演技を見せた。

みんな、息を静めて、何とかミスのないようにと祈り、ハラハラしながら見ていた。

まずは、ミキティ。
ミキティは、見事に妖艶かつしなやかな演技で、カンペキに躍り終えた。
うちの女の子はつぶやいていた―「こんなにも若いのに、重圧化の中すごいですねぇ・・・」
みんな、ココロで素晴らしいクレオパトラに拍手を送った。

続いて、韓国のキム・ヨナ。
この人の持つ、一度もとどこおることなく流れていく、柔和な演技には、悔しいが認めざるを得ない断トツでトップという上手さに感服した。

強靭な精神力とテクニック。

そして、歴代最高得点が出る。

一同「あぁ~っ」という声。
だが、ミキティとの差に40点の開きがあったのは、不自然であった。
もっとミキティに点数をあげるべきと思ったものだ。

メイン3人の最後、真央ちゃんの登場。
みんなから「頑張れ」という声援が飛ぶ。

ストレスを感じさせない、やわらか頭の人という意識を持っていたが、そんな彼女の演技は動きが大胆で挑戦的なシナリオを選んだのだが、かなり激しすぎたせいか、3回転など2つの箇所で、バランスを崩してしまった。
それは、実に手痛いマイナスだった。
それでも、世界のトップレベルを行く演技は、銀メダルを獲得した。

本人は反省もあろうが、この緊迫するプレッシャーの中、よくやったと思う。

***

いつも自分らはみんな同じ部屋だけど、それぞれの部署に分散している。
だが、この約1時間だけは全員が一体感を持って、息を潜めて、同じ画面に向かって同じ想いで見ていた。

この3人の演技には、しのぎを削る、本当のプロの凄さを感じた。
こんな素晴らしいもの見せてくれたオリンピックに感謝。

PS:個人的趣味としては、今日のミキティは、ごっつエロティックで感情移入させられた。
何とか、銅メダルを上げたかったのが、本音です。
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TBSラジオは次の番組改編で「アクセス」を打ちきり(`益′) !

2010-02-24 00:42:10 | 雑記帳


日本の「マス・メディア」の在り方自体が、『マスゴミ』とバカにされる中、スポンサーありきで成立している「旧型メディア」の中で、TBSラジオは、本当に頑張って来たと思う。
しかし、昨年4月の小西さん&マッピーの「ストリーム」終了⇒小島慶子の「キラ・キラ」に続いて、3月末の「アクセス」終了。

この事態は、非常に悲しい現実である。

1つには、マッピーも渡辺真理さんもファンであるのもあったが、その「ひいき」を抜いても、他の「マス・メディア」には無いスタイルで、スポンサーは在る民放ラジオでありながら、多々軋轢・非難中傷もあったとは思うが、TVや反日新聞には無い、相当様々な冒険を試み、大健闘をしてきた番組が「ストリーム」であり「アクセス」だった。

「アクセス」は10年を超える長寿番組であり、今この番組を止める必然性が見当たらない。

「ストリーム」の番組終了時にも、様々な憶測がネット上には出たが、TBSは殺人テレビ局の方は既に「沈没船」だが、TBSラジオは頑張って来たというのに・・・。

何らかの外圧なのか?内圧なのか?は不明だが、今夜、「ストリーム」の番組終了を知って、呆然としている。
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Mari Wilson  「Wonderful (to be with)」'83年3月

2010-02-22 22:33:44 | 音楽帳
ユキヒロは1981年3月、YMOとして「BGM」という過激なアルバムを創ったのち、ワールド・ツアーで交流をあたためていた人々とのアルバム制作にロンドンに飛んだ。

そのサード・ソロ・アルバムが、彼のアルバムの中でも特に光っている『ロマン神経症(ニウロマンティック)』という名盤である。

このアルバム制作において重要な要素として忘れてはいけないのが、ニュー・ミュージックのトニー・マンスフィールドの存在である。
ユキヒロは、彼から多大な影響を受けている。

トニー・マンスフィールドは、自分のプロフィット5を持ち込んでアルバム制作に臨んだが、同行しエンジニアとして活躍した松武秀樹さんから聞いた話だが、彼のプロフィット5には、従来では出ないような不思議な音がメモリーされていて、相当プロフィット5を使い込んでいないと出ないような音がセットされていたという。

しかし、彼は音楽家という割には、指1本で鍵盤を押さえるとでもいうのか、すごく素朴で素人のような弾きかたをする方だった、とピーター・バラカンさんも言っていたが、70年代までいわゆる「ロック」の「テクニック」重視のつまらないミュージシャンのマスターベーションを全てお盆ごとひっくり返してしまった80年代テクノの世界には「ギミック」や「テクニック」なんか必要なかったから、彼の弾き方がどうであれ、その奏でる「音色(おんしょく)」と「耳の良さ」が、見事に、他には無い多くのポップな作品をまさにクリエイトされ、花開いた。

『ロマン神経症(ニウロマンティック)』はもとより、その後のキャプテン・センシブル、そして、今日紹介するマリ・ウィルソンなど、ほんとうにほんとうに素晴らしい音楽を生み出していった。

そんなオカネには興味無くて素朴な味わいある「音」が、全英・全米ともに実ったのが、A-HAの「テイク・オン・ミー」である。
そのスマッシュ・ヒットで、牧歌的な世界からいきなり億万長者になったトニー・マンスフィールドに、僕は「良かったね」と拍手を送った。
その後も、A-HAのアルバムにも関わっていった。

***

今日は、いつも暗いこの「こころとからだがかたちんば」にしては、極めてポップで、未来が見えるかのような、ココロあたたまる名曲「Wonderful (to be with)」を紹介したい。
ユキヒロも自分も、大好きな曲。

ほんとうに、ポップかつ可愛らしい曲で、トニー・マンスフィールドの音楽に対する愛情が見え隠れする。



こういう素敵な音楽がマイナーな世界にあって、別に全否定する訳では無いがマイケル・ジャクソンやらマドンナといった「スタジアム系」のド派手な音楽ばかりが目立ってやかましいのは、実に音楽リスナーとしては悲しい限りである。

80年代において、トニー・マンスフィールドもやっぱりニューウェイヴの変遷において、歴史的に残る重要な仕事をした愛する職人だったと思っている。
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かたちんば徒然日記  ~こんな夢をみた。~

2010-02-20 15:37:21 | 雑記帳
ビール呑んでうとうとして居眠りしてたら、こんな夢を見た。

***

片足が悪くて、松葉杖引いて三ノ輪の町歩いてるいたのですが、すっかり昔の町の匂いが消えてしまってショックで呆然としていた。

様々な系列のショップやら、ローラーで粉々に潰された更地やら、色鮮やかなおしゃれな店が並び人でごったがえし。
必死にその変化にカメラのシャッターを切り続ける。

そして、さまようように入り組んだ町の露店の格子状の中に入り込んで行くと、怪しい色を放つコリアンの服と小物のお店に、親父さんとお袋さんが居るのを発見。

親父さんは、蒼のコリアン服と丸筒状の同色の帽子をかぶって、鼻の下にちょび髭をはやし、顔も整形したのか?微妙に違う。
「やあ」と声掛けられるが、その様にもあぜんとして声が出ない。

お袋さんは、といえばウルトラマンのような玉子型でV字につり上がった薄い黒のサングラスにオレンジのコリアン服を着ていて、もう91歳との事だが、必死に宝石を選んでいた。

三ノ輪の変わり様もだが、日本の文化の変わり様に、ひょっとして日本という国自体が無くなってしまったのではないか、という焦りだけが頭を混乱させる。

そんな折り、ピンポンと売り込みが来て起き、夢で良かった、と安堵しました。

悪夢でした。

***

最近、売り込みで、店を作るので試食をお願いしたいと言う学生2人組がよく回っているが、要注意だ。
単なる売り込みとは思えない。

犯罪の匂いがする。
1件づつ調査して、のちのち何らかの犯罪に結び付けようとする気がしている。
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如月小春&坂本龍一 「Neo-Plant」’86年1月

2010-02-18 00:10:14 | 想い出かたちんば
ふーっー・・・・・・・・

やっと22:25電車に乗る。
いやいや早く帰る予定が、こんな時間に。

いかんいかん。
こんなんでは、元の生活に戻ってしまう。

「はよ帰らなあかん。」

まあ、金曜会議準備だから、しゃあないけど。
気持ちだけは、リラックスリラックス・・・・・。

***

ちょっと、目と頭を使い過ぎた。

今日の電車は、水曜日もあって、そろそろくたびれ人間が多いね。
死んだように眠る人、目にクマが出来た人・・・。

しかし!
そんな中でも、「酒飲みぐだぐだおやぢ」はうるさいっ!
電車と一体化してゆらりゆらりと、ムーミン谷の「ニョロニョロ」のよふに揺れているが。
こちらとしては静かにして欲しいもんだが。

仕事終わってまで、仕事場引きずらないで欲しいと思う。
くだらない愚痴を聞かざるを得ないこちらには大迷惑。

耳が餃子のように自力で閉じられればいいのだが・・・。

遊びと酒で皮膚が「かつをぶし色」にまで「育成」された「おやぢ」は、しかし、しぶとく、そして、強い。

明日の朝にはケロリとした顔して、また元気に通勤するのだから、ある意味、その生命力には敬意を払う。

とてもではないが、今の自分にはそんな体力も気力も無い。

***

時は、再び1986年に戻る。

自分が追いかけてきて、70年代の終わりから走り続けてきた「明日はより違う明日」という「ニュー・ウェイヴ」が最終コーナーに差し掛かったのが1986年。

坂本龍一が、1985年から「フィールド・ワーク」~「ステッピン・イントゥ・エイジア」~「エスペラント」を経て、この1986年に共同制作に取り掛かったのが、劇作家の新旗手、如月小春さんのアルバム「都会の生活」。



高橋悠二さんも参加して、曲を書いている。

その中で、12インチ・シングルとして発売された「ネオ・プラント」。



自分も、即、レコード屋に走り、この12インチを手に入れた。
そして、素浪人の毎日、この12インチ・シングルを聴きまくった。

B面では、おだやかなアンビエント色した2曲の小品が、きらきらと光に溶けこんでいくようで、美しい・・・・。

実は、この12インチ「ネオ・プラント」は、自分の中では、かなり「隠し玉」として、「自分だけのモノ」と大事に取ってきたレコードではある。
いずれは紹介しようと思いながら、出し惜しみしてきた。

***

如月小春さんには、渋谷での「MORAL」で現物にお会いしたが、とにかくクレバーかつしなやかで魅力的な女性で、これまた、美しい女性に弱いかたちんばは、魅了されてしまった。

80年代中盤の「東京」の在り方を語るには欠かせない方が、如月小春さんだった。

小劇場で出発をした如月小春さんが、その後、次第に、テレビにも登場し、美しい姿をお見かけする機会も多くなっていったが、90年代に向かって、自分も次第に忘れた存在になっていった。
というのも、自分にとっての80年代とは、1986年のニュー・ウェイヴの終息と共に終わってしまったからである。
自分にとっての時代のシーンが存在しなくなったのである。

その後、如月小春さんは、大学の教授になり、さらに、自分から遠くに行ってしまったなあ、という感を強めていた。

***

そんな彼女の次の知らせは、彼女の突然の死だった。

それは、本当に唐突な2000年12月の急死だった。
「くも膜下出血」という、ほぼ数分での急死だった。
むごい死に方の似合わない美女は、44歳という若さで去っていった。

彼女のその後の活動に熱心でなかった自分に、何か後ろめたい気持ちを抱いた。
それは、今も変わらない。

死んだ人は帰ってこず、死んでから急にヴォルテージを上げて語るのは、実に「ウソ臭い」。
近時、急にマイケル・ジャクソンのファンが湧き出て、したり顔して語るのと変わらないのだから・・・・。

ただ、80年代中盤の彼女の輝きは、多感な青年期の「かたちんば」には、様々なココロにキズを残してくれた。
それだけは、今も忘れない。



【如月小春&坂本龍一 「Neo-Plant」】

「Neo-Plant」は、バキバキのエレクトロニクスの嵐で、その中を縫って如月小春さんのヴォーカルはかない高い声で、渦の中に吸い込まれて叫ぶ。
「HELP、HELP、HELP、HELP・・・・」というセリフが、80年代中盤の混沌とした「東京」という超情報化都市の渦に巻き込まれていくような感覚を想起させる。

ヴォーカル以外のトラックは全て坂本龍一が作っているが、「エスペラント」もそうだが、「B-2UNIT」以来の過激な側面が出た好盤。

この後、坂本は「未来派野郎」に向かって走っていく。

80年代中盤の、加速度をつけた「超東京」という都市の叫びが、僕の耳には、今でも聞こえる。
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Les Vampyrettes 「Biomutanten」'81

2010-02-14 14:15:28 | 想い出かたちんば




この「Biomutanten」という曲を初めて知ったのは、1982年始まったFM東京の深夜3時の番組「スタジオテクノポリス27」の第1回目の放送だった。

「スタジオテクノポリス27」は、ピーター・バラカンさんと矢野顕子さんの2人ののんびりした雰囲気の中で、選曲は鷲巣功さんとピーター・バラカンさんがほとんど行い、その音楽をいろいろかけながら、2人のおしゃべりで進行していた。

このレイ・バンヴィレットの12インチ・シングルは「ミュージック・マガジン」で1981年のベスト・レコードとして、ヒューが挙げていた。

ヒューは、コニー・プランクのプロデュースを受けていて、当時、ベルリンの東西冷戦の境界線に立つ「バイ・ザ・ウォール」と呼ばれるスタジオに居たという稀有な経験の持ち主だった。

このレイ・バンヴィレットは、実質は、ホルガー・シューカイとエンジニアのコニー・プランク2人で作られたものだった。
とてつも無く暗い曲だったが、えらい衝撃を受けたものだった。

これを聴いた矢野顕子さんが、かなり嫌悪感を覚えた発言をしていた記憶がある。

***

「バイ・ザ・ウォール」でのコニー・プランクの仕事は名盤を多く作り出した。
外を見れば、その東西冷戦のベルリンの壁に拳銃を持った兵隊が常に居る緊張感の中、この名12インチ・シングルも生み出された。
しかし、このレコードは探し続けても30年経っても手に入れられない。
あるのは、当時のカセット・テープのみだった。
YOUTUBEにアップされているのには、正直驚いた。
アップした人に感謝である。

とにかく深きヨーロッパの暗さに憧れた中学・高校時代、この曲は、自分の中でも「名作」だった。
回転数を落としたヴォイス「ヴィオウムタンテン・・・」という悪魔のような声、ホルガー得意の様々なSE、当時のベルリンの空気を伝えるかのような、この曲を自分は愛している。

残念ながら、コニー・プランクは数年前に亡くなったが、彼が関わった偉大なる仕事の数々は、歴史に残るものである。
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日本の売国奴たち 「河野洋平」

2010-02-11 19:02:39 | 雑記帳


1993年8月4日、当時の官房長官であった河野洋平が発表した根拠無き「河野談話」というのが、いかに朝鮮人に漬け込まれる事になり、カネを巻き込まれる事になり、日本人の地位を失墜させ、日本の国家とそれを保つ事に命をかけた英霊たちにドロをかけることになったのか・・・

それは、今、2010年の有り様を見れば、一目瞭然である。

***

河野洋平については、小林よしのり氏の雑誌「ワシ・ズム」の最終号の『日本の売国奴政治家ランキング』で見事1位を獲得した。



おめでとう、河野洋平くん。

以下の談話がいかなる事実の積み上げと戦争論・歴史観・国家観に基づいて発表されたのか、君には説明をする義務があるよ。

「慰安所の設置は日本軍が要請し、直接・間接に関与したこと、慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったこと、慰安所の生活は強制的な状況の下で痛ましいものであったとした。」

***

河野洋平くん。

君は、反日亡国者として、苦渋の末死んでもらうことになると思うが、そうやすやすとは死んでもらっては困る。

君が行った行動の責任は、実に重い。

君が入る墓は無いと思いたまえ。
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日本は、社会主義国家

2010-02-11 08:17:57 | 雑記帳
私は、1989年の東西冷戦が終わった時を思い出していた・・・。

当時、バカな大学2年生だったから、時代の流れを知らずして映像を見ていた。

しかし、今になって思い知ることだが、このソヴィエトならびに多くの社会主義国家が民社化に移行していった事が、その後の「グローバリゼーション」という名を借りたアメリカの更なる世界侵略に傾いていく流れを作った事になってしまったのだ。

そんな中、自分の中に焼き付いているのが、「ルーマニア革命」と呼ばれるチャウシェスク政権陥落のクーデター事件である。

***

1989年12月2~3日の歴史的「マルタ会談」で、ブッシュ親父とゴルバチョフが米ソ冷戦の終結を宣言した。

実は、このルーマニア革命は、この「マルタ会談」での東西冷戦終結時には決まっていたとも囁かれているが、いずれにしても民主化の流れに様々な国が変わって行く中で、独裁制国家を維持するルーマニアがヨーロッパ周囲には、邪魔な国であったのか?なかったのか?わからないが、アメリカにとっては不都合であり、反体制を育て、水面下でルーマニアの国の在り方に反する準備をしたのはアメリカであるらしい。

元々は、民族意識ある人々の支持を受け、長期政権を保っていたチャウシェスク大統領だったが、その軌道を狂わせたきっかけが外交で出かけた様々な国々の有り様だったと言われている。
初めて見て・知る、国の違いに驚きながらも、中国や北朝鮮といった国家権力の絶大な強さを知り、そして、自国に帰ってからの権力行使という実践に入ってしまう。

「権力」の持つ「おいしさ」に酔うかのように、頭の悪い(足し算引き算も出来ない、世間の常識も知らない)妻エレナまで政治に口出しさせ、放蕩三昧を重ね、自分ら家族は衣食住に贅沢三昧をしながら、一方で市民たちには飢えと貧困を押しつけ、文句を唱える者には秘密警察が押さえにかかるという独裁国家へと次第に変貌していく。

これは、今の北朝鮮そのものの姿だが。

最終的には、国の借款を無理な日程で返済する計画・政策を打ち出し、国で出来た農作物のほとんどを輸出してしまうという暴挙に出る。

この事に拠る市民たちの膨張し切った不満と、アメリカによる反体制分子の水面下での放火活動が合間って、1989年12月21日、ルーマニア共産党本部庁舎前の広場でのチャウシェスクの演説中に、不満の声が演説を書き消す程まで高まり、反体制分子含めた暴動に発展し、秘密警察軍VS反体制軍の戦闘になり、千数百人が犠牲になる惨事となる。



チャウシェスク夫妻は、その演説した宮殿の屋上からヘリコプターで逃亡を果たすが、その行き先で捕らえられ、夫婦2人はビデオの回る中、公開の銃殺刑に処される。

崩れ落ちて死んだチャウシェスク大統領の開いたままの目が、今でも、自分には焼き付いている。

***

私が何を言いたいのかは既にお分かりだろう。

このルーマニア革命を、今振り返ると、実に、今の日本に酷似していることだ。

一部の特権階級(官僚・政治家等)が良い思いをし、その利益は、我々一般市民は回って来ない構造になっている。
表面的には「民主主義国家」と名乗りながら、実は、この日本は社会主義国家に近い政治形態を持っている。
ただ、戦後のGHQと東京裁判以降、アメリカに飼い慣らされた国民は、極めて従順で、他の国なら既にクーデターや革命が起きてしかるべき立状況にありながら、未だ「民主主義国家」とだまされ続けて今日に至っている。

そういう歴史観経緯をしっかり知って、日本を救えるのは、石原慎太郎の独裁国家しかないと、再度思うのである。

所詮は、市民の意志の反映など無い。
既にアメリカによって骨抜きにされた日本を救えるのは、石原慎太郎しかないと思う。
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オールナイターズ 「午前2時の鏡」'84

2010-02-09 00:43:42 | 音楽帳

■オールナイターズ(片岡聖子・深谷智子・松尾羽純)「午前2時の鏡」1984■
2014年4月26日リンク貼り直し

先週金曜日、上長のマンションに泊まったので、深夜やっていた「オールナイトフジ」の2010年版を見てしまったが、しょせんは焼き直し・・・。
それに出て来る女の子が、みんなアンドロイド=作り物のようで、現実のリアリティを感じなかった。
この2010年にあって、整形も当たり前の時代に、アンドロイドと本当の実体の差別を証明しようも無い状況において、こういう番組をする主旨が理解出来ないでいた。

***

確かに、今居る2010年から1984~1985年を照射すれば、「芋臭いお姉ちゃんたちやなあ~」と当時を思われても仕方が無い。
その1984~1985年を愛しく想うは、単なるハゲヒゲ親父のノスタルジアと言い切っても構わない。

しかし、自分は毎週土曜の夜だけに救いを求め、画面の向こう側でリアルタイムではしゃいでた「芋臭い」お姉さんたちに恋してしまい、その夜だけは現実を離れて一緒に中に入って、高校生の癖して飲めない安いウィスキーをべろべろまで飲みながら、明け方まで過ごした・・・。

新オールナイターズと旧オールナイターズを比較する事は、時代背景のありようがあるから、単純比較は出来ないけれど、それは、みうらじゅんに語らせるまでも無く「今夜のおかず」を「日活ロマンポルノ」の朝比奈順子と「現代のAV嬢」を比較するように馬鹿馬鹿しいほど違う。
しかし「自分が時代と共に寝た女が忘れられない」ようにして、恋した女というものは一期一会の出会いで忘れ得ぬものなのだ。

だからと言って、彼女らを自分は「おかず」にした事は無い。
精力盛んな年頃の「文武両道」と右傾化した男子校に通う高校生は、純粋に恋をしていた気分で、この「オールナイトフジ」を見ていた。

***



「おかわりシスターズ」の曲が大好きで、時折、「あの頃」がよぎって、Amazonで昨年、このCDを買ってしまった。
このCDにも収められているが「午前2時の鏡」という曲(詞:秋元康・曲:後藤次利)も、つい想い出に浸るときに流れる曲だ。
当時「女子大生メモリアルフォト」というコーナーがあり、プロの写真家がオールナイターズ1人・1人を撮影したコーナーがあったが、そのバックに流れていた曲が、この「午前2時の鏡」である。

***

しょせんは、今は無き世界にも関わらず、そんな時代を共有し合った自分には、未だに彼女たちとの時間を忘れられないでいる・・・。
ちなみに、自分は、一番右の松尾羽純(はすみ)ちゃんが好きだった。
真夜中のおやぢの独り言でした。
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