12:30MZ師の電話に起こされる。
ひたすらだるいので寝ていた。
ノドがカラカラ。
近くのスーパーに行く。
ぬめぬめした生暖かい空気。
そして、気味悪い風が吹いている。
冷たいウーロン茶のボトルと食材を買って帰り、食べて飲む。
自分が思っているほど量を食べられない。
土日には、必ず1~2kgは減る。
室内は密閉で暗い。
しかし、暑いので已む無く、少し窓を開けるが、そこから風が入ってきて、スクリーンをバタバタさせる。
放射能風と思うと、怖い。
実に暗い日曜日。
原稿をしたためていると、スコールのような放射能雨が降り出す。
外にも出ることははばまれる。
余計に地下生活者のような暗い心境になる。
***
~ゼルダを巡る時代の断片メモ 2~
さくりんさんのゼルダのお便りには、色んCUEが潜んでいる。
自分も、1枚目のアルバム「ZELDA」を改めて聴く。
A面1の「真暗闇 -ある日の光景-」は、イントロのギターがえらいカッコイイ曲。
このギターのエコー感覚は、エコー&ザ・バニーメンを想起させる。
小嶋さちほさんのベースが、かなり強めに強調されたミキシングがされている。
「密林伝説」もそうだが、かなり土俗的であり、闇の持つ力が潜んでいる。
「街はま~っくら 街はまっしろ」
A面3の「開発地区はいつでも夕暮れ」はさくりんさん同様大好きな曲です。
平和を買いに行くけど それは高くつく
平和を買いに行くけど それは高くつく
開発地区は いつでも夕暮れ
夜になれば 風が 彼等をふぶく
佐代子ちゃん・さちほさんの、本当に東京の空気を吸い・東京を体現したところからしか産まれない音楽。
藤沢映子さんの「ZELDA物語」にこういう記載がある。
森田芳光の監督作品映画「家族ゲーム」(1983)で工場の煙突が並ぶ風景の家からのシーンで松田優作が言う。
「きみは、こんなところに住んでいていいなぁ」。
東京生まれの東京育ちの佐代子ちゃん。
「・・コンビナートや車を、自然を汚すものだとはわからずに、単純に子供の感性でそれがキレイと思っちゃう」(高橋佐代子)
***
1978年辺りからの東京ロッカーズにハマってしまった小嶋さちほさんは、
モモヨの言動に惹かれて、感性を一にして、先鋭的カルチャーを創るべく、ミニコミ誌をつくる。
それは、まったく当時の音楽雑誌にも載らない日本のアンダーグラウンド・シーンを紹介する「ロッキン・ドール」。
10ページ程度の手書きのコピーで50部発行。
それをギグに来る人に売りつける。
そこがスタート。
そして紅蜥蜴→リザートと行動を共にする日々。
その後、1979年「チェンジ2000」というミニコミ誌をつくる。
こちらは中綴じ20ページで1500部、ちゃんと200円という価格が付けられる。
「ロッキン・ドール」と「チェンジ2000」の部数・ページ数を比較すると、シーンがその間に大きくなっているさまが想像される。
【「チェンジ2000」の2000とは当然、西暦2000年の世紀末を意味している。】
小嶋さちほさんという人は不思議で、黙っている写真だけ見ると、かなり怖い人という印象を抱くが、「東京タワー」でのかわいい歌い方・ヴォーカルの声、そして「午後のサウンド」(1986年4月~)を通じてなんとも親しみのある柔和で優しい人と分かる。
表現者と表現は別だが、それが、まさに言える。
しかし、本人の優しさと表現を追及する姿勢とのギャップがとても大きい。
「チェンジ2000」は、シーンを代表する支持を受けるミニコミ誌となってったという。
その後、1979年「東京ロッカーズ」のライブ盤がCBSソニーから発売されると、さらにシーンは大きくなる。
しかし、お金は無かった。
ライブ・ハウスでギグをしても、そのお金では活動には足りない。
さちほさんは、1人1万円づつ渡して、残りをツアーの移動費・ビラ、チラシ代・練習スタジオ代に充てる。
佐代子ちゃんは喫茶店でアルバイトをし、小嶋さちほさんは、ミュージック・マガジンでアルバイト。
ゼルダの最初のシングル盤は、さくりんさんが好きな「アシュラ(Ashu-Lah)」。
しかし、小嶋さちほさんは、ギグをやることだけ考えていて、レコードを出す気はさらさら考えていなかったという。
【「アシュラ(Ashu-Lah)」自主制作シングル発売記念のギグのチラシ。】
何か世の中のコンテストに出るだの、より目の前に集まりギグで聴いてくれる相手しか視野になかった。
そして、その背景に、さちほさんの極度のマスメディア、メジャー・システムへの不信感があったという。
(*しかし、皮肉なことは、後に信頼していたモモヨがメジャー・デビューの1stアルバムの制作の中で、敵のような存在になってしまった。
そういう状況に、仲間からもファンからも批判の声があったという。)
そんなことはまだ起きない・不明な未来の段階で発売された自主制作レコード「アシュラ(Ashu-Lah)」が、1980年10月10日発売される。
発売元は、ジャンク・コネクション。
この会社は、リザードが自主制作レコードを流通させるために作ったもので、実はそのスタッフの1人がさちほさんでもあった。
初盤1000枚が完売。
再プレスされるくらいヒットしたという。
ひたすらだるいので寝ていた。
ノドがカラカラ。
近くのスーパーに行く。
ぬめぬめした生暖かい空気。
そして、気味悪い風が吹いている。
冷たいウーロン茶のボトルと食材を買って帰り、食べて飲む。
自分が思っているほど量を食べられない。
土日には、必ず1~2kgは減る。
室内は密閉で暗い。
しかし、暑いので已む無く、少し窓を開けるが、そこから風が入ってきて、スクリーンをバタバタさせる。
放射能風と思うと、怖い。
実に暗い日曜日。
原稿をしたためていると、スコールのような放射能雨が降り出す。
外にも出ることははばまれる。
余計に地下生活者のような暗い心境になる。
***
~ゼルダを巡る時代の断片メモ 2~
さくりんさんのゼルダのお便りには、色んCUEが潜んでいる。
自分も、1枚目のアルバム「ZELDA」を改めて聴く。
A面1の「真暗闇 -ある日の光景-」は、イントロのギターがえらいカッコイイ曲。
このギターのエコー感覚は、エコー&ザ・バニーメンを想起させる。
小嶋さちほさんのベースが、かなり強めに強調されたミキシングがされている。
「密林伝説」もそうだが、かなり土俗的であり、闇の持つ力が潜んでいる。
「街はま~っくら 街はまっしろ」
A面3の「開発地区はいつでも夕暮れ」はさくりんさん同様大好きな曲です。
平和を買いに行くけど それは高くつく
平和を買いに行くけど それは高くつく
開発地区は いつでも夕暮れ
夜になれば 風が 彼等をふぶく
佐代子ちゃん・さちほさんの、本当に東京の空気を吸い・東京を体現したところからしか産まれない音楽。
藤沢映子さんの「ZELDA物語」にこういう記載がある。
森田芳光の監督作品映画「家族ゲーム」(1983)で工場の煙突が並ぶ風景の家からのシーンで松田優作が言う。
「きみは、こんなところに住んでいていいなぁ」。
東京生まれの東京育ちの佐代子ちゃん。
「・・コンビナートや車を、自然を汚すものだとはわからずに、単純に子供の感性でそれがキレイと思っちゃう」(高橋佐代子)
***
1978年辺りからの東京ロッカーズにハマってしまった小嶋さちほさんは、
モモヨの言動に惹かれて、感性を一にして、先鋭的カルチャーを創るべく、ミニコミ誌をつくる。
それは、まったく当時の音楽雑誌にも載らない日本のアンダーグラウンド・シーンを紹介する「ロッキン・ドール」。
10ページ程度の手書きのコピーで50部発行。
それをギグに来る人に売りつける。
そこがスタート。
そして紅蜥蜴→リザートと行動を共にする日々。
その後、1979年「チェンジ2000」というミニコミ誌をつくる。
こちらは中綴じ20ページで1500部、ちゃんと200円という価格が付けられる。
「ロッキン・ドール」と「チェンジ2000」の部数・ページ数を比較すると、シーンがその間に大きくなっているさまが想像される。
【「チェンジ2000」の2000とは当然、西暦2000年の世紀末を意味している。】
小嶋さちほさんという人は不思議で、黙っている写真だけ見ると、かなり怖い人という印象を抱くが、「東京タワー」でのかわいい歌い方・ヴォーカルの声、そして「午後のサウンド」(1986年4月~)を通じてなんとも親しみのある柔和で優しい人と分かる。
表現者と表現は別だが、それが、まさに言える。
しかし、本人の優しさと表現を追及する姿勢とのギャップがとても大きい。
「チェンジ2000」は、シーンを代表する支持を受けるミニコミ誌となってったという。
その後、1979年「東京ロッカーズ」のライブ盤がCBSソニーから発売されると、さらにシーンは大きくなる。
しかし、お金は無かった。
ライブ・ハウスでギグをしても、そのお金では活動には足りない。
さちほさんは、1人1万円づつ渡して、残りをツアーの移動費・ビラ、チラシ代・練習スタジオ代に充てる。
佐代子ちゃんは喫茶店でアルバイトをし、小嶋さちほさんは、ミュージック・マガジンでアルバイト。
ゼルダの最初のシングル盤は、さくりんさんが好きな「アシュラ(Ashu-Lah)」。
しかし、小嶋さちほさんは、ギグをやることだけ考えていて、レコードを出す気はさらさら考えていなかったという。
【「アシュラ(Ashu-Lah)」自主制作シングル発売記念のギグのチラシ。】
何か世の中のコンテストに出るだの、より目の前に集まりギグで聴いてくれる相手しか視野になかった。
そして、その背景に、さちほさんの極度のマスメディア、メジャー・システムへの不信感があったという。
(*しかし、皮肉なことは、後に信頼していたモモヨがメジャー・デビューの1stアルバムの制作の中で、敵のような存在になってしまった。
そういう状況に、仲間からもファンからも批判の声があったという。)
そんなことはまだ起きない・不明な未来の段階で発売された自主制作レコード「アシュラ(Ashu-Lah)」が、1980年10月10日発売される。
発売元は、ジャンク・コネクション。
この会社は、リザードが自主制作レコードを流通させるために作ったもので、実はそのスタッフの1人がさちほさんでもあった。
初盤1000枚が完売。
再プレスされるくらいヒットしたという。