今回は、とりとめもない、極めてしょーもない断片的なメモである。
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「世の中、ぜぇ~んぶ、コピーなのだ。」という名言を80年代初頭に言い放ったのは、かの糸井重里大先生である。
彼は、その時点で、時代を言い当てていた。
今更だが、広告代理店の独占企業「電通」が支配する闇世界は広い。
電通とはいわば、ヤクザと変わらない。
なぜなら世の中は、全て電通等一部のヤクザによって支配されているからである。
糸井先生が80年代以降、全てのモノが、広告という「プロパガンダ」に覆われていく予言×というか宿命◎を見抜いた通り、その通りになった訳である。
「プロパガンダ」というと、ファシズム時代のドイツのヒットラーを想起するが、全てのシナリオライターは、ゲッペルズであったように。
YMOの1983年の最後のツアーの衣装・舞台セットが、そのパロディであったのに、本気で怒ったヒトが居たそうである。
「テレビ」という箱から放射される「プロパガンダ」という放射能を浴び続け、翻弄され続けた1980年代以降。
政治・宗教・戦争・事件・それを報じる新聞・雑誌・テレビ・・・・・・ヒトが最後にたどり着く葬式に至るまで、全てを「イベント」と捉えればわかりやすい。
全ては、暗躍する電通の支配下にあった。
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ときは流れて、ネットという革命が起き、「プロパガンダ」に拮抗する世界が立ち現れはじめる。
こうしたたかが一介の凡人が、世界にクモの巣を張った領域に入れるという別世界に移行し出した。
下請け丸投げでやってきた民法テレビ局は、ウソ八百の広告収入を失い、加速度を増しながら、現実に赤字化に転落、崩壊まであと一歩のところまできた。
宗教や電通等とのしがらみの中、ウソ八百を書き続けて、部数を水増ししながら、国まで潰そうと煽動してきた朝日を筆頭とした売国奴の大手新聞も、これまた現実に赤字化に転落、崩壊への道を確実に歩んでいる。
この「民法テレビ局」「大手新聞」が、民衆を煽動してきた歴史は終わりつつある。
「民法テレビ局」「大手新聞」がメディアを独占し、放射能を民衆に出し続けた時代から逆転し、「個」が「公」に向けて放射能を発信出来る時代が来たのだ。
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私は昔で言う「青年の主張」とかいう類の、最近ではNHK教育TV「週間コドモニュース」とかラジオ「コドモ電話相談室リアル」とか・・・そういう類のものに虫酸が走る。
とはいえ、その逆の意味でのネットという無法地帯にはびこる悪意や過剰な自己主張にも、近づきがたいものを感じる。
「ブログ」というメディアが発明されて、歴史はまだ浅いが、どうも、この「ブログ」というものにも、胡散臭さを感じるようになってきた。
今更であるが、「私は大ウソツキである」。そう言っても過言ではない。
・・・・という程まででは無いが、ウソをついているのは事実であろう。
「公(おおやけ)」にブログという窓を開いている以上、みんな同様に「ウソツキ」なのだと思う。
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この「ブログ」とは一体ナンなのだ?と改めて思う。
個人の日記を公開していると捉えるヒトも居るだろうが、それにしては、そこには何らかの「作為」が存在する。
日記自体だって信じられたものじゃないんだから。
ニンゲンは、嫌なことを墓場まで持っていく事も多々あるからね。
(1986年4月8日に自殺した岡田有希子の日記が、本来「私」の世界であるはずの日記なのに、まるでアイドル然とした記載に満ち、「個」としての自分が存在しえなかったように。)
場合により、それが巧妙であるかあからさまであるかの違いはあれど、事実の歪曲・隠蔽、微妙な自己主張が存在することはあるだろう。
そもそも、ネット上という「公開の場」にさらされるということはニンゲンに、どんな動作を生ませるのか?
露出狂ならむせび泣きながら、官能に震えるだろう。
実際そういうサイトは多く存在する。
精神のカタルシス(浄化)のために、嫌な事を吐き出す場にしているヒトもいるだろう。
別の人格を演じきる事だって可能だ。
そもそも、「公」と「私」など存在するのか?
境目は存在しうるのか?
(三島由紀夫が、太宰治に初めて会ったシーンを想起する。
「私は、あなたの小説が大嫌いなんです。」と会いに来た三島に、太宰は「会いに来たんだから、実は、好きなんだろ。」と言った。)
その後も、三島由紀夫が太宰治の事を忌み嫌ったのは、自分に似ていたからであり、自分の鏡を見つけてしまったがゆえであったと言える。
共に、「自分という芝居」を演じる主役たるエイリアンとしての「自分」を自覚せずには生きることの出来なかった離人症体質のニンゲンだったのだから。
太宰は「人間失格」でそれを「道化」と表現し、三島は、常に芝居を演じていることを自覚せざるをえないながらも、言行一致させることで2つの自分が分離せずに合致させられ、永遠なる自分が獲得出来るであろうという方法論に辿り付き、それを死に拠って完成させた。
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自分は、この「ブログ」という場を1つの実験場と捉えていた。
また、自分なりの自分史、長い遺書を作ろうとも捉えていた。
ブログを始めて、こないだ1600日を向かえた。
そこで、気づいた事。
GOOを選んだのはたまたまの偶然であるが、このGOOのブログ数全体は、もうすぐ130万サイトに届こうとしている。
そんな中で、1600日続ける間に、見に来たヒトの数を気にしたりして、内容に様々なスパイスを入れるようになってしまったこと。
しかし、じゃあ、どこまでがスパイスで、どこまでがスパイスではないのか?
自分でも客観視出来ずで解からないのだが、人がコメントを入れてくれたら単純に喜び、「もっとこんなのあるよ」と持ちネタを、つい公開してしまう。
既に1982年に解散が決定していた後期YMOのように「サーヴィス」をしてしまうのだ。
「なんて単純なんだ!」とも自己批判もしたくなるが、他者とのコミュニケーションにおいて、あるいは、男女の恋の駆け引きにも似て、そんなもんなんだろうと思っている。
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アラーキーは、よく自分の写真についてよく言うが、
「ただの事実に、ちょっとスパイスを混ぜてみる。
そうすると、逆にリアルになるんだよね、不思議な事に。
しょせんは、写真なんて、表層的なもんなんだ。(真実なんて映らない)
どうせなら、キレイなウソ・美しいウソをつきたいね。」
また、アラーキーは、他人が撮った写真を自分が撮ったものということにして、他人がどうその写真に反応するかを実験したこともある。(あとで、ネタばらしはしていたが)
太宰治の短編に、昔の友人が、カネをせびりに来て、さんざん酒をのんだ挙げ句、「えばんな!」と暴言を吐いて出て行く、という小説がある(記憶がおぼろ)。
ここで彼が言いたかったのは、「お前はしょせん小説家。小説家である事自体が、すでに大ウソツキである。そんなヤツが、えらそうにする権利は無い。」という事である。
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話は、大きく飛びます。
今、シャブ中の酒井法子事件のおかげで、バカメディア・マスゴミはネタに潤っている。
しかし、もう一方で、この事件で大損害を被っている側の広告クライアント・芸能界なるヤクザ世界が存在する。
いわば、バカメディア・マスゴミ全体をヘビと見立てると、自らで自らの尻尾から食べていくような様相を呈している。
個人的には、その渦中にいる「ノリピー旦那」の命を不安に思う。
一応、事件の経過からすると、ボンボンの「ノリピー旦那」がシャブをやりだし、それを酒井法子に勧めて巻き込んで行った、「あの旦那と出会わなかったら」という声もある。
しかし、酒井法子のオモテの顔/ウラの顔を使い分けながらも、悟られずにここまでメディアの中をうまく泳いできた「技量」は「あっぱれ」というか拍手モノである。私なら金メダルの「表彰状」を送りたい。
ただ、僕が思うに、彼女の精神構造は、要は「芯」となる自分が存在しないから、そこまでの高等な芸当をやってのけられたのだと思う。
(ここでも、「個」を自覚出来ずに自殺した岡田有希子の事を想起してしまう。)
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この酒井法子事件、「民法テレビ局」の報道の仕方は、決してそれ以外の芸能人へのシャブの繋がりは全く報じられない。何かを避けようとしている違和感を覚える。
一方、ネット上に行くと、もう数年前から酒井法子がシャブをやっているという核心を射抜いていた。
また、既に、そこから派生するシャブ系統図まで出来ている。
話は「ノリピー旦那」に戻るが、彼の不幸は芸能人の妻と出会ってしまったことである。
そうでなければ、単なるシャブ事件で収まったというのに。
「ノリピー旦那」は、芸能人の妻をもらってしまったがゆえに、どうやら御法度(ごはっと)の世界に触れてしまい、そこに爆弾を落としてしまったのかもしれない。
至極まっとうに考えて、「ノリピー旦那」の命が、今後どうなるのかが心配である。
ある意味の「リンチ」に会うことは間逃れない気もしている。
どういう闇の世界からの仕打ちが待っているのかはわからないが・・・。