こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

まみちゃんの再入院

2009-09-30 23:46:11 | 雑記帳


この写真は、ハブ噛み師匠が来た時に、I-Phoneで、まみちゃんを撮ってくれた名作写真である。

***

5連休を一緒に過ごし、日曜日の夜に草加の実家に連れて行った。
そのときは、それなりに元気だったのだが、その後・・・・・・。

実は言わずにいたが、実家に帰ってからのまみちゃんの容体は悪い方向に向かっている。

また、それを巡って、鬼畜親父とヒト悶着とあった。
近くに居られない自分が歯がゆい。

気にはしていても、仕事が早く終わる訳でも無く、上期決算の最後の日々ということで、雑事に忙殺されながら、9月30日の24:00の締めをむかえようとしている。
最後の駆込みは若干あったものの、大幅なる売上未達で終わることになった仕事場は、妙に静かに人がちりぢりに帰っていった。

***

実家に電話して、鬼畜親父を無視して「お袋さんに代わってくれ」と言い、今日、医者にまみちゃんを連れて行った状況を教えてもらった。

私が、引き渡した後から、全くモノを食べなくなったという。
それなのに、寝たままかというと、そんな事は無く、動く範囲は広い範囲で家の中をうろついていたという。

動物病院に連れていき、血液検査等を行ったところ、かなり数値がひどくなったという。
体重は、300g減って、ついに3.0kg(元は6.0kg)になった。
内臓の状態がかなり悪化しているとのことだ。

先日、先生から提案あった、「最終手段」歯を全部抜くことを受け入れることにした。
かわいそうだが、既に歯がほとんどグラグラで、それを抜いてしまうことで、体調が少しでも安定していくケースがネコにはあるというので。

しかし、麻酔をするだけの体力が無いということで、再入院となった。

***

歯を抜いたら、もう後は取れる手段は、実は無い。
しかし、それをやらない手は無いだろう。



生命力の強いまみちゃんだが、今回は乗り切れるだろうか。
後は、祈ることしか出来ない。

がんばれ。
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坂本龍一  「Steppin Into Asia」'85年9月9日発売

2009-09-30 00:36:01 | 音楽帳


休み明けの月曜日は、正直、体調が極めてすぐれなかったが、珍しく、昨年度までの上司(といっても、昔一緒に働かせてもらった「仲間感覚」の先輩ですが)が「一杯やって行こうよ」というので、断る訳にも行かず、21:30から2人で落ち着いてビールを呑んで帰ったら、0:30になってしまった。

帰ると、大好きな果汁100%のアップルジュースを、「ゴキュゴキュ」とノドを鳴らして1リットルくらい呑んで寝た。

肝機能が悪いのか?
元々カラダの弱い自分はたんまり酒は呑めるが、その分、たんまりの水分を摂って寝ないと、見事に二日酔いになる厄介な体質である。
それは、自分のカラダを知っている自分にしかわからない事であるが・・・。
(しかし、最近、歳と共に更にそれが悪化したような気がする。)

・・・結果、今朝は、寝坊し、タクシーで近道の駅まで行き、地下鉄に乗って仕事場に着く。
酒は残っていなかったが、体調は昨日より悪化し、絶不調。

そんな中だが、ミーティングやなんやらで、雑事に忙殺されているうちに、「またかよ!」22:00になってしまう・・・・・。

パソコンに向かい過ぎで目がしんどい。
小雨の中、帰る。
天気は下り坂のようだ。

***

またまた、今夜も、かたちんばの素浪人時代、1985年に戻る。

トーマス・ドルビーとの共作「フィールド・ワーク」に続く、矢野顕子・一般人の女の子との共演のシングルがこの「ステッピン・イントゥ・エイジア」であった。



A面は通常MIX、B面は「アーバンMIX」となっているが、正直B面のアーバンMIXはエコー処理が効き過ぎていて好きでは無いので、A面の通常MIXの動画をYOUTUBEで探していたら、こういうナゾのアニメ映像のモノになってしまった。
まあ、画像は無視して、音楽で聴いてくんなはれ。

***

確か、このシングル発売前に、坂本龍一はバリへの旅行を行い、その模様はTV番組(現在で言う「情熱大陸」みたいなもの)でも映像で残っている。
その中で教授が、海で泳ぐシーンがあるが、そんな姿というのも、今に至るまで、これが初めてで最後だった。

現地に、フェアライトなどを持ち込み「Cafe Lotus」という曲を演奏したのが記憶に残っている。

実は、このシングル「ステッピン・イントゥ・エイジア」とほぼ同時期に、モリサ・フェンレイの舞台のダンス・パフォーマンスの為のサントラ「エスペラント」というアルバムも発売されるが、共に、バリ現地で採集した音をサンプリングして使用している。

***

当時、1170円でのこの7インチシングル、発売になってすぐレコード屋さんに走って買いに行った記憶がある。
シングル盤としては高かったが、A面に教授の写真が写ったピクチャー・ディスク仕様だったので納得。

歌っている人は?というと、教授のサウンドストリートのデモ・テープ特集に送ってきた浅野智子さんという一般の人で、教授が気に入って、自分のシングルに採用した。

***

1981年4月にスタートした「坂本龍一のサウンドストリート」。

僕は、その1982年までの初期の、たどたどしい陰鬱な影を感じさせたシャイな教授が、今でも一番好きだが、1982年の矢野顕子との結婚・「戦場のメリークリスマス」でのサントラに対する評価も手伝って、次第に「明るい坂本龍一」に変わって行ったが、1984年の「音楽図鑑」の完成と共に「MIDIレーベル」を立ち上げる頃から、元来持っていた野心家の面が出てきた。
ナム・ジュン・パイクとの「オール・スター・ヴィデオ」、本の世界にも進出し、村上龍や「ニュー・アカデミズム」の旗手=浅田彰とのコラボレーション、ラディカルTVとの「TV-WAR」と、次々とそのスノビズム的な【=実に80年代的な】世界へと、まるで「YMOが自分を束縛させていたのだ」と言わんばかりに、あるいは「YMOからいかにして離れるか/”個”としての坂本龍一とを認めてくれ」と言わんばかりに、躍起になっていく。
<・・・のちのち紹介するが、その彼の抑圧がついに自己崩壊的に爆発するのが1986年の「未来派野郎」と「スポーティな坂本龍一」を演じる「初」のソロ・コンサートだと、僕は理解している。>

僕は、この時代の教授を、今では同時代を生きた過去を愛でる(めでる)、という点では愛しているが、正直な気持ちは、その多様な変化についていけずに、「自分の坂本龍一」(というファンにはありがちな心理だろうが)から、離れていくのを感じていた。
多くの人に、拍手をされると共に、遠い存在になっていった感がある。

正直、「自分が一番」というプライドが高い、彼元来の本性が剥き出しに成り出した訳だが、本気で「若い芽を摘む」という意識も高い彼が、音楽においては本当の素人の人々が作り出す稚拙だけど面白く・心惹かれる「デモ・テープ」を特集し続けたのは、後になってみれば不思議な現象であった。

まあ、それも、世間に出ている「プロ」という人々(特に日本!!!それは、80年代も今も変わらないが)が作り出した多くの音楽がいかにつまらなかったかの裏返しであり、「そんなくだらない・しょーもないプロ音楽よりも面白い音楽が、ここにあるよ」という無言の訴えでもあった。

何はともあれ、全くの一般人の素人だった女の子が可愛い声で語るタイ語の昔話をまじえた「STEPPIN INTO ASIA」。
サビの部分、流麗な英語で歌うのは、矢野顕子。

新たな教授の実験的なシングルであり、当時、毎日、レコード・プレイヤーの上で、このシングルの教授の顔がくるくる回っているのを見ていた。
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Yo La Tengo  「Everyday」 2000年

2009-09-27 18:43:45 | 音楽帳


現在、テレビといえば見る番組を限定した生活で(「タモリ倶楽部」など)、情報の主力はAMラジオ・特にTBSラジオに限る。
あとの情報は、ネットからしか取り入れておらず、雑誌も買わない昨今。

そんな中、2000年以降の、新しい音楽との出会いというのが、ほとんどが偶然との出会いばかりである。

今日、紹介する「ヨ・ラ・テンゴ」もそんなうちの1つである。

***

出会ったのは2002年。
お茶の水・神保町界隈をいつものようにくねくね散策した折、夕暮れ時に、「JANIS 2号館」に入った。

そこで、たまたまかかっていたのが、この「Everyday」という曲。
一聴して気に入ってしまった。それは、あまりに、ぼんやりした夕刻どきと一致し過ぎた音楽だった。

一種、ジョイ・ディビジョンの暗さにも通ずる、闇に堕ちて行く感覚。
しかし、かたちんばのような病んだ精神には、癒しにも通じる感覚。

即レジに行き「これ何ですか?」と店員さんに尋ねる。
と出されたのが、ヨ・ラ・テンゴというへんてこな名前のバンド名の「And Then Nothing Turned Itself Inside-Out」というアルバムだった。



ジャケットが、これまた、あまりにも美しく、自分の描いているイメージに一致したので、即「これください。」となった。

***

2曲目の「Our Way To Fall」という曲も夕暮れどきに聴くには素晴らしいおだたかな名曲。

ただ、それがアルバム全体に展開しているかと思ったが、急に明るい曲やら、ロック色のある曲もあって、アルバム全体を流して聴くことは無いが、この1曲目・2曲目だけを聴くだけでも、このアルバムを購入する意義はあった。

しかし、1曲目・2曲目は、別世界に引きずりこまれるので、聴く方は、聴く体調・時間・タイミングに御注意を。
これを見て・聴いて・自殺されても、かなわないので。

***

このドローンとしたウツに傾いていくような曲「Everyday」は、まさに、このかたちんばの苦悩に満ちた「毎日」の様を映し出したかのように実に暗いが、その暗さに惹きつけられるのである。
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「プロパガンダ」

2009-09-26 02:09:22 | 雑記帳


今回は、とりとめもない、極めてしょーもない断片的なメモである。

***

「世の中、ぜぇ~んぶ、コピーなのだ。」という名言を80年代初頭に言い放ったのは、かの糸井重里大先生である。
彼は、その時点で、時代を言い当てていた。

今更だが、広告代理店の独占企業「電通」が支配する闇世界は広い。
電通とはいわば、ヤクザと変わらない。
なぜなら世の中は、全て電通等一部のヤクザによって支配されているからである。

糸井先生が80年代以降、全てのモノが、広告という「プロパガンダ」に覆われていく予言×というか宿命◎を見抜いた通り、その通りになった訳である。

「プロパガンダ」というと、ファシズム時代のドイツのヒットラーを想起するが、全てのシナリオライターは、ゲッペルズであったように。

YMOの1983年の最後のツアーの衣装・舞台セットが、そのパロディであったのに、本気で怒ったヒトが居たそうである。



「テレビ」という箱から放射される「プロパガンダ」という放射能を浴び続け、翻弄され続けた1980年代以降。

政治・宗教・戦争・事件・それを報じる新聞・雑誌・テレビ・・・・・・ヒトが最後にたどり着く葬式に至るまで、全てを「イベント」と捉えればわかりやすい。
全ては、暗躍する電通の支配下にあった。

***

ときは流れて、ネットという革命が起き、「プロパガンダ」に拮抗する世界が立ち現れはじめる。

こうしたたかが一介の凡人が、世界にクモの巣を張った領域に入れるという別世界に移行し出した。

下請け丸投げでやってきた民法テレビ局は、ウソ八百の広告収入を失い、加速度を増しながら、現実に赤字化に転落、崩壊まであと一歩のところまできた。

宗教や電通等とのしがらみの中、ウソ八百を書き続けて、部数を水増ししながら、国まで潰そうと煽動してきた朝日を筆頭とした売国奴の大手新聞も、これまた現実に赤字化に転落、崩壊への道を確実に歩んでいる。

この「民法テレビ局」「大手新聞」が、民衆を煽動してきた歴史は終わりつつある。
「民法テレビ局」「大手新聞」がメディアを独占し、放射能を民衆に出し続けた時代から逆転し、「個」が「公」に向けて放射能を発信出来る時代が来たのだ。

***

私は昔で言う「青年の主張」とかいう類の、最近ではNHK教育TV「週間コドモニュース」とかラジオ「コドモ電話相談室リアル」とか・・・そういう類のものに虫酸が走る。
とはいえ、その逆の意味でのネットという無法地帯にはびこる悪意や過剰な自己主張にも、近づきがたいものを感じる。

「ブログ」というメディアが発明されて、歴史はまだ浅いが、どうも、この「ブログ」というものにも、胡散臭さを感じるようになってきた。

今更であるが、「私は大ウソツキである」。そう言っても過言ではない。
・・・・という程まででは無いが、ウソをついているのは事実であろう。
「公(おおやけ)」にブログという窓を開いている以上、みんな同様に「ウソツキ」なのだと思う。

***

この「ブログ」とは一体ナンなのだ?と改めて思う。

個人の日記を公開していると捉えるヒトも居るだろうが、それにしては、そこには何らかの「作為」が存在する。
日記自体だって信じられたものじゃないんだから。
ニンゲンは、嫌なことを墓場まで持っていく事も多々あるからね。
(1986年4月8日に自殺した岡田有希子の日記が、本来「私」の世界であるはずの日記なのに、まるでアイドル然とした記載に満ち、「個」としての自分が存在しえなかったように。)

場合により、それが巧妙であるかあからさまであるかの違いはあれど、事実の歪曲・隠蔽、微妙な自己主張が存在することはあるだろう。

そもそも、ネット上という「公開の場」にさらされるということはニンゲンに、どんな動作を生ませるのか?
露出狂ならむせび泣きながら、官能に震えるだろう。
実際そういうサイトは多く存在する。
精神のカタルシス(浄化)のために、嫌な事を吐き出す場にしているヒトもいるだろう。
別の人格を演じきる事だって可能だ。
そもそも、「公」と「私」など存在するのか?
境目は存在しうるのか?



(三島由紀夫が、太宰治に初めて会ったシーンを想起する。
「私は、あなたの小説が大嫌いなんです。」と会いに来た三島に、太宰は「会いに来たんだから、実は、好きなんだろ。」と言った。)

その後も、三島由紀夫が太宰治の事を忌み嫌ったのは、自分に似ていたからであり、自分の鏡を見つけてしまったがゆえであったと言える。
共に、「自分という芝居」を演じる主役たるエイリアンとしての「自分」を自覚せずには生きることの出来なかった離人症体質のニンゲンだったのだから。

太宰は「人間失格」でそれを「道化」と表現し、三島は、常に芝居を演じていることを自覚せざるをえないながらも、言行一致させることで2つの自分が分離せずに合致させられ、永遠なる自分が獲得出来るであろうという方法論に辿り付き、それを死に拠って完成させた。

***

自分は、この「ブログ」という場を1つの実験場と捉えていた。
また、自分なりの自分史、長い遺書を作ろうとも捉えていた。

ブログを始めて、こないだ1600日を向かえた。
そこで、気づいた事。

GOOを選んだのはたまたまの偶然であるが、このGOOのブログ数全体は、もうすぐ130万サイトに届こうとしている。

そんな中で、1600日続ける間に、見に来たヒトの数を気にしたりして、内容に様々なスパイスを入れるようになってしまったこと。

しかし、じゃあ、どこまでがスパイスで、どこまでがスパイスではないのか?

自分でも客観視出来ずで解からないのだが、人がコメントを入れてくれたら単純に喜び、「もっとこんなのあるよ」と持ちネタを、つい公開してしまう。
既に1982年に解散が決定していた後期YMOのように「サーヴィス」をしてしまうのだ。
「なんて単純なんだ!」とも自己批判もしたくなるが、他者とのコミュニケーションにおいて、あるいは、男女の恋の駆け引きにも似て、そんなもんなんだろうと思っている。

***

アラーキーは、よく自分の写真についてよく言うが、
「ただの事実に、ちょっとスパイスを混ぜてみる。
そうすると、逆にリアルになるんだよね、不思議な事に。
しょせんは、写真なんて、表層的なもんなんだ。(真実なんて映らない)
どうせなら、キレイなウソ・美しいウソをつきたいね。」

また、アラーキーは、他人が撮った写真を自分が撮ったものということにして、他人がどうその写真に反応するかを実験したこともある。(あとで、ネタばらしはしていたが)

太宰治の短編に、昔の友人が、カネをせびりに来て、さんざん酒をのんだ挙げ句、「えばんな!」と暴言を吐いて出て行く、という小説がある(記憶がおぼろ)。
ここで彼が言いたかったのは、「お前はしょせん小説家。小説家である事自体が、すでに大ウソツキである。そんなヤツが、えらそうにする権利は無い。」という事である。

***

話は、大きく飛びます。

今、シャブ中の酒井法子事件のおかげで、バカメディア・マスゴミはネタに潤っている。
しかし、もう一方で、この事件で大損害を被っている側の広告クライアント・芸能界なるヤクザ世界が存在する。
いわば、バカメディア・マスゴミ全体をヘビと見立てると、自らで自らの尻尾から食べていくような様相を呈している。

個人的には、その渦中にいる「ノリピー旦那」の命を不安に思う。
一応、事件の経過からすると、ボンボンの「ノリピー旦那」がシャブをやりだし、それを酒井法子に勧めて巻き込んで行った、「あの旦那と出会わなかったら」という声もある。

しかし、酒井法子のオモテの顔/ウラの顔を使い分けながらも、悟られずにここまでメディアの中をうまく泳いできた「技量」は「あっぱれ」というか拍手モノである。私なら金メダルの「表彰状」を送りたい。
ただ、僕が思うに、彼女の精神構造は、要は「芯」となる自分が存在しないから、そこまでの高等な芸当をやってのけられたのだと思う。
(ここでも、「個」を自覚出来ずに自殺した岡田有希子の事を想起してしまう。)

***

この酒井法子事件、「民法テレビ局」の報道の仕方は、決してそれ以外の芸能人へのシャブの繋がりは全く報じられない。何かを避けようとしている違和感を覚える。
一方、ネット上に行くと、もう数年前から酒井法子がシャブをやっているという核心を射抜いていた。
また、既に、そこから派生するシャブ系統図まで出来ている。

話は「ノリピー旦那」に戻るが、彼の不幸は芸能人の妻と出会ってしまったことである。
そうでなければ、単なるシャブ事件で収まったというのに。

「ノリピー旦那」は、芸能人の妻をもらってしまったがゆえに、どうやら御法度(ごはっと)の世界に触れてしまい、そこに爆弾を落としてしまったのかもしれない。
至極まっとうに考えて、「ノリピー旦那」の命が、今後どうなるのかが心配である。
ある意味の「リンチ」に会うことは間逃れない気もしている。
どういう闇の世界からの仕打ちが待っているのかはわからないが・・・。
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David Sylvian   「Let the happiness in」'87

2009-09-25 01:28:58 | 音楽帳


まみちゃんとの4泊5日の合宿を終え、実家のお袋さんにまみちゃんをしっかりと預け渡し終え、まみちゃんに「お疲れしたぁ」と挨拶し終えた翌日の、社会復帰の今日・・・・・・・

不安は、的中してしまった。
不安通り地獄が大きな口を開けて待っていた。

***

・・・・・23:00仕事は終わらないが、帰ることにする。とぼとぼと帰る。

一体、「シルバー・ウィーク」なんて、誰が考えたものなのだろう?
とてつもない損害が、この休みのお蔭で降りかかっているヒトが多いことだろうに。
ラジオでも、この5連休のお蔭で地獄を見た人々の意見をたくさん聞いた。

そのたびに不安は募っていったが、そもそも9月の5連休など視野に入っていなかったのが、馬鹿だった。

多くの企業が、上期決算を向かえる「繁忙期」と我々が呼ぶ9月、そこに5日連続の穴を開ける事による障害は、〈今年が初めてであったが〉不安な予感はあったが、さすがにここまでのシナリオは読み切れなかった。

***

ただでさえ、「超~不況」の下方傾向にある市況の中、私らのようなメーカー系は、ヒト(人員)もモノ(在庫)もかなり絞り込んでいたし、繁忙期/閑散期の波動に弱い。
その「バッファ」の上下動する幅もいやおう無く限界値がある。

そんな中、まさに「寝耳に水」である。
5日分の大波がドアの向こうに待ち構えていたとは・・・・(>_<)。
とんでもない高波(オーダー)が、今日という日に一気に押し寄せたのだ。

9月真ん中までは、あいも変わらずの沈滞ムードだったので、このまま9月は終わってゆくものだと思っていた。その最後くらいは小波程度は来るだろうが、その程度の「バッファ」には耐え得ると思い込んでいたのが、全くの逆だった。

だからといって諦めて水没死している訳にはいかない。
なぜなら、ただでさえモノが売れない時期に、大波をさばいて1円でも多くのモノをお届けしなければ、業者もろとも共死にである。

しかし、とはいえ、「備え」無しで向かえた大波。

結果、そこいら中ほころびが出てしまい、「前線」の営業のみんなに迷惑を掛け、お詫びするしかない状況になった。
正直、自分の能力の無さに悔しい思いをした1日だった。

・・・多分、10月になれば、波はさあっと引いて行くだろう。
そして、相変わらずの沈滞ムードに戻ってゆくのだろう。

***

自分の責任の言い訳も逃げ場も無いが、0:00帰宅して、少々落ち込みながら、おにぎりをほおばり、ビールを飲み、今夜の1曲を選んだ。


【12インチシングル「Let the happiness in」=「しあわせを招きいれよう」】

「ザ・シークレッツ・オブ・ビーハイブ」の中に入っている好きな曲である。

しかし、私は、David Sylvianについて、3枚目のオリジナル・アルバム「ザ・シークレッツ・オブ・ビーハイブ」が、彼の最高傑作という人に、たまにNet上で出会うが・・・(個人的な好き嫌いの感覚ではなく)・・・こういう人は、一体彼の音楽のどこを聴いてそう言うのかが、自分には理解が出来ないのだ。

ソロになっていきなり他には比較するものが無い音楽世界を創りだしてしまった1枚目の「ブリリアント・トゥリーズ」、ロバート・フリップの良さをうまく引き出し融合した企画盤「錬金術」、アンビエントとヴォーカルが同居した2枚目のオリジナル・アルバム「ゴーン・トゥ・アース」(2枚組)までは、すんなりと、自分にはフィットしたし、理解も出来た。
自分の死(命)をかけたかのように、自分独自の世界を切り開き、深い静謐の世界に没入していく様は、あっちの世界(死)への最大限の接近を試みることの出来る、選ばれしアーチストにしか出来ない芸当であった。

しかし、そこから、3枚目の「ザ・シークレッツ・オブ・ビーハイブ」へ飛ぶ流れが、自分は時間軸として繋がらないのである。
むしろ部分的に「退化」しているように思えるし、アルバムの隙間に散漫さが目立つ。

シングルにもなったこの「Let the happiness in」は、さすがDavid Sylvianと思うし、「9月」や「オルフェウス」や「マリア」も名曲と思うが。
アルバム全体となると、どうもしっくりこない。

「ザ・シークレッツ・オブ・ビーハイブ」が最高傑作という感覚が、'87年の発売から’09年の今に至るまで、自分には純粋に理解が出来ないで居るのである。
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CDにまつわるあれこれ  ~紙ジャケットCDは是か非か?~

2009-09-23 00:52:15 | 音楽帳


クロケットさん、コメントありがとうございます。

今更だけども、日本の音楽業界は腐っています。
この機会なので、クロケットさんへの返信も含めて、CDについて、少しだけ書いてみたいと思います。

まあ、こういう未曾有の大不況&ネット社会のWパンチの中、どうやって、”販売による利益確保”と”良い音楽の提供”を共存させるかは難題ではあるとは思いますが、やり方はもっとあるように思うのです。

***

私は「紙ジャケットCD」反対派です。
というか、そもそも、CDで紙ジャケットを希望しているヒトが居るのでしょうか?
紙ジャケットCDについては、一度記事にしようとは思っていたのですが、ジャケットとはレコードだから成り立つ世界だと私は思います。
マーケットリサーチが全くもって、成っていない(怒)、と思うのです。

自分が欲しいCDが紙ジャケットでしか無かったりすると、それを買わざるを得ないのですが、この「紙ジャケットCD」、実に色んな問題をはらんでいます。
ただ、下記のような場合は、自分は賛成派です。

◎エコに配慮してプラスチックを減らそうという「意志・意図」があって、あえて紙ジャケットCDにしている。→坂本龍一さんの「キャズム」など一連の作品。

◎低価格CDとして販売したい。→これは多分印刷ロット・加工ロットとの関係で、余程売れることが想定されるケース以外ペイしない気もしますが・・。

◎逆に、高価格盤として販売したい。→見開き仕様や歌詞カードや写真をノート型に貼り付けて、通常版と差別化をすることで、高価格盤に位置づけする。

しかし、「紙ジャケットCD」反対派をあえて名乗るのは、新譜では無くて、昔レコードだったもののCD化に伴うケースです。

「あの名盤を、紙ジャケットで再現!」という発想の元、作られたCDです。

***

ちなみに、私はレコードとCDというのは、全く違うものと思っています。

レコードは、扱いを丁寧にしないと傷付きやすく、お手入れをこまめにしないと、カビたり・変形したり・針飛びをするようになる。
おまけにプレイヤーは、針が磨り減るものだし、レコード自体も同時に磨り減っていく。
そんな、実に繊細なものだから、大事にすることによってはじめて「自分のレコード」というフェティッシュな「所有欲」を満たし、自分の心身にフィットする対象物のオーナーになれるのです。
特にLPレコードは、その大きさから、飾ってジャケットを眺めるという楽しみ・鑑賞物としても、中身(音楽)と外見(ジャケット)は切っても切れない関係がありました。

しかし、CDは、レコードと違って、ほぼ永遠に「磨り減る」事は無く、デジタル処理され、コピーも即可能、選曲もプレイヤーやパソコンで即可能。
レコードという壊れやすいものだからこそ、固い厚紙で周りをガードする必要があったことから発生したジャケットは、実は、CDには、もう必要ないのです。
また、CDの存在の登場によって、A面もB面も存在しない、また曲の長さにも制限が無くなりました。

そして、90年代後半から始まった「デジタル革命」によって、いまやi-Podが全盛時代になったように、音楽はレコードという、それぞれ個人の所有物として密接な関係があった世界を離れて(昔は、レコード・コレクションをお互い見せあい、競い合ったものです。Aくんの持つレコードとBくんが持つレコードが同じレコードであっても、そこには別・別の所有物という、それぞれ個人にくっついた「モノ」の世界があったのです。)、あくまで音楽はデータ・ファイルとして、世界の見えない共有物として、ネットの中を、浮遊するものとなりました。
もはや、データのダウンロードで済む、CDという存在すら不要の時代になった訳です。

***

再び最初に戻って「あの名盤を、紙ジャケットで再現!」ですが、多分これは、自分のような40代より上の世代に向けての発信だと思うのですが、正直、この世代の音楽人間が、紙ジャケットでCDを買いたいと願っているとは、どうしても思えない。
むしろ、そのジャケットの小ささと、顕微鏡でも無いと見えない文字潰れをしたクレジットに目が行って、「ああ、俺も1世代前の音楽人間なんだなあ」と思うくらいのものです。
紙ジャケットCDを、昔、レコードを貴重品のように丁寧に扱ったのと同様に再現して、同じ動作をする音楽人間が居るとも思えない。

***

音楽業界が、いかにして採算ベースに乗せるかは、非常に難しいことだとは思いますが、まずは即刻「紙ジャケットCD再現シリーズ」はやめてもらって、その分の労力を、クロケットさんの言うように、レコードすら手に入りずらい・でも聴きたい音楽の発掘とCD化に向けて欲しいと思います。
そういう音源は、まだまだたくさん眠っているはずなので・・・。

ガキ相手の数を稼ぐマーケットの捕獲も重要なのでしょうが、御茶ノ水・神保町をうろうろしている我々のような音楽人間<ある程度自由になるカネを持ち、重要な「ブツ」には、メシは抜けども、カネに糸目は付けない>の購買意欲をそそるような、フェティッシュな仕様のCD・DVDを発売して欲しいものです。
(Riverさんに教えてもらった「POSTYMO」みたいに、あるいは、「HOSONO-BOX」みたいに・・・・。)
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Beatles 「Golden Slumbers・・・・The End 」'69年9月16日

2009-09-22 11:00:56 | 音楽帳


ビートルズのリマスター版CDが9日に出たということで、この日曜日の昼のTBSラジオの「爆笑問題の日曜サンデー」では、ビートルズの「カラオケで歌われているビートルズ・ベストテン」なるものが特集された。

「カラオケ」なる文化が反吐が出るほど嫌いなかたちんばだが、聴きだしたら止まらなくなって、まみちゃんと部屋でのったりしながら、久々にビートルズの曲を数十曲聴くことが出来た。

ビートルズは、1966年に日本に来日したが、その年にまさにこの世に放り出されたエイリアン=かたちんばにとっては、ビートルズの音楽は、残念ながら「追体験」にならざるを得なかったが、幼い頃から今に至るまで聴いてきた。

本来、このブログは、80年代を中心としたものだが、今日は異例として、ビートルズの曲を取り上げてみた。

***

自分が43年生きてきた中で、何度かビートルズを聴く時期(ブーム)というのはあったが、その1つとして、大学4年生の年末(1990年)に、渋谷陽一さんが、1日かけて、ビートルズ特集を組んだことがあった。
渋谷さんであるからして、普通のDJがやる安っぽい特集ではなかった。
普段かからない曲も、渋谷さんはかけてくれた。

そのときに初めて知った曲で、12作目にして、実質的なビートルズの最後のアルバムになった「アビー・ロード」のB面の最後の部分のメドレー曲「Golden Slumbers ~ Carry That Weight ~ The End」が、今でも好きである。
調べると、これがビートルズの実質的な最後の録音との話もある。
B面のメドレーは、音楽雑誌もポール・マッカートニー自身も高評価していたが、ジョン・レノンは「駄作だ」と言ったという。

他にも好きな曲はあるが、盛り上がる音に混じって、間奏で奏でられる静かな部分が自分はとても好きだ。
センチメントなおだやかさの中に、迫り来る終わりへの影を感じる。


「このジャケットで、ポール・マッカートニーだけがはだしでいるが、これがポール死亡説が流布する元となった、いわくつきの写真」


「アビー・ロード」1969年9月16日発売

A面
1. Come Together
2. Something
3. Maxwell's Silver Hammer
4. Oh! Darling
5. Octopus's Garden
6. I Want You (She's So Heavy)

B面
1. Here Comes the Sun
2. Because
3. You Never Give Me Your Money
4. Sun King
5. Mean Mr. Mustard
6. Polythene Pam
7. She Came in Throught the Bathroom Window
8. Golden Slumbers
9. Carry That Weight
10. The End
11. Her Majesty

***

自分は、ビートルズをやたらと神格化しようとする流れは、逆に音楽そのものを聴きずらい状況にしてしまうので反対である。

何も、「たかがリマスターしたくらいで騒ぐな!」大声で言いたい。

一時、YMOが「散会」後、神格化しようというムードに乗じて、やたらとくだらない企画盤が、レコード会社だけの一方的な意向で出され続けた。
そんなことに、本人たちもかたちんばも辟易としていた頃を思い出す。

AMラジオで聴こうが、昔録ったカセット・テープで聴こうが、レコードで聴こうが、「音楽はココロで聴くもの」であるのだから。

音質や音源なんて、どうだっていいんだよ、バカヤロウ。
音楽業界も、モノが売れないから、ついにビートルズに手を出した、ということなんだろうが。
次は、ローリング・ストーンズか?
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ハブ噛み師匠、まみちゃんのお見舞いに訪れる。

2009-09-21 23:55:31 | 写真日和


ネコというのは、よく寝るものだ。
「ネコ」の語源は、「寝る子」→「寝子」から来た、という節がある。
なるほど、ネコはよく寝る生き物である。
また、寝ている姿が、様(さま)になる生き物である。

昨日のまみちゃんは、1日の大半を寝ていた。
しかし、そういうことを言っている「かたちんば」自身も、ラジオをかけながら、一緒に1日中、ごろごろ、うとうとしていた。
そういう自分の前世は、ネコだったと、かたちんばは思っている。

***

昨日は、結局、4か所におしっこされてしまった。
出しっぱなしのこたつの掛け布団と敷き布団に2回・デイバッグの上に1回・床そのものに1回。

しかし、ようやく慣れてきたのか、今日はそういう失敗も無く、今日はやっとしっかりトイレでおしっこしてくれるようになった。


【真剣な顔をして、おしっこをするまみちゃん】

そして、昨夜は、ウンコをようやくしてくれた。
何とか、ウンコの方は、トイレの中でやってくれて、助かった。

しかし、(汚くてすみませんが)ウンコはやけに黒い。
これは、実はカラダが良くない証拠であることを、お医者さんから聞いた。
白血病なので血が止まりにくくなっていて、たかだか歯肉炎などでも血が止まらないのだ。
この黒いウンコとは、要するに、体内の臓器のどこかで血が出ていて、それが混じっている証拠なのである。

***

夕方、たたんだ布団をまくらにして、横になって大竹伸朗さんの本「見えない音、聴こえない絵」を読んでいたら、うとうとと眠りに入ってしまった。

16:30「ピンポン」
というチャイムの音に起きる。
ハブ噛み師匠来訪を知らせる音である。

家を出られない自分が、メールで彼にお願いしていた「モンプチ ゴールド」のカンズメ3つを持って彼はやってきた。
おみやげに、お菓子とアイス・カフェオレをもらい、2人して、さっそく、アイス・カフェオレを飲む。

ハブ噛み師匠がまみちゃんに前に会ったのは、実は、もう5年以上前にさかのぼる。
実家に居る頃のことだ。
自分の実家は、家長たる「鬼畜親父」が変人であるために、親父の聖域である家には、他者を招きがたい空気が流れていて、かたちんばは、昔から、友人を呼ぶ場合は、親父の居ない時間と決めていたのである。

そういうことやら、なんやらで、ハブ噛み師匠はまみちゃんファンであるにも関わらず、再会は、こういう形での場面となった。

***

私同様、ネコ好きのハブ噛み師匠はまみちゃんをなでながら、i-フォンでさかんにまみちゃんの写真を撮りまくっていた。

15:00ごろ納豆ご飯とコロッケバーガーという不思議な組み合わせの遅い昼食を摂った自分だったが、陽がどっぷり暮れてしまったので、スーパーに2人で夕ご飯の食材を買いに行った。

ご飯を3合炊いて、野菜炒めを作り、さばを半ペラ焼いて、2人での夕食を始めたが、魚の焼いたにおいを嗅ぎ付けて、まみちゃんがやってくる。



ふだんはこの光景、よく見慣れた光景であり、食いしん坊のまみちゃんは、誰が来訪しようと、食べ物を貰おうと、来た人にへばりつくのだが、そんなありふれた光景も病気になってからは無かった。
・・・・というか歩いて来るチカラさえ無かったので、その光景そのものが、快方に向かっている証拠だった。

***

まみちゃんは、もう全ての歯がぐらぐらで、歯で噛むチカラは無いので、切り裂く必要の無い食べ物しか摂れない。
だから、盛んに「くれくれ」と一歩も引かないまみちゃんに、試しに、さばをほぐして上げて見ると、なんと食べた!!のだ。

「調子いいぞ。まみちゃん!」

何度も何度もせがむので、次々にほぐして、さばをやっているうちに、さばはこんな具合になった。



かなりの量を食べました。
今日のまみちゃんは、驚くほど動き回るし、驚くほど元気です。

***

と、終わろうとしたが、振り向くと、また、まみちゃんは、皿に盛っていたモンプチを、また食べ初めている。
「おいおい、今夜、寝ている間に吐かないでおくれよ。
頼むよ、まみちゃん。」

土曜・日曜・月曜・・・3日目の同居生活が終わろうとしている。
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矢野顕子・坂本龍一&佐野元春  「自転車でおいで」'87年

2009-09-21 10:02:43 | 音楽帳


○月×日 雨のちくもり
僕は だれかを 好きと書く
それが だれかは わからない

窓の外を 犬が 歩いてゆく
黒い鼻 黒い足
いつも ひとりでいる犬だ

知らない あなたに 会いたいな

自転車で おいでよ
僕の家は すぐ そこだよ
とうふ屋の かどから 四軒め


○月×日 晴れのちくもり
僕は だれかが だれかを知る
そして 名前を 書いてみる

庭の池を ネコが のぞいている
小さなネコ 小さな水
いつも お腹を へらしてる

いつかは あなたに 会いたいな

自転車で おいでよ
僕の家は すぐ そこだよ
牛乳の あきびんが めじるしさ


自転車で おいでよ
僕の家は まだ あるのさ
朝日と 夕陽が あたる家



アルバム「グラノーラ」収録曲

作詞 : 糸井重里
作曲 : 矢野顕子
編曲 : 矢野顕子・坂本龍一


坂本龍一: keyboards
矢野顕子: keyboards
吉川忠英: acoustic guitar
駒沢裕城: steel guitar
佐野元春: chorus & whistle
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David Byrne  「Music For The Knee Plays」'85年9月日本発売

2009-09-20 14:31:06 | 音楽帳


再び、素浪人時代の1985年に戻る。
トーキングヘッズのデヴィッド・バーンが、1985年9月21日に発売したLPが、実に特殊なものだった。
前衛劇「ザ・ニー・プレイス」という劇のために作った曲を収めたアルバムだったのだが、ひたすら「ぶーぶー」いう軍楽隊を背景にして、いわば、デヴィッド・バーンは「ポエトリー・リーディング」というか、詞の朗読をするというものだった。
当時、「クロスオーバー・イレブン」でかかった「サウンド・オブ・ビジネス」という曲がかかったので、それをカセットテープにエアチェックして聴いていた。

背景や劇を知らずに、アルバム1枚を聴きとおすのはつらいが、この1曲だけは耳に残っている。

ジャケットのパステルで描いたと思わせる絵がとても素敵です。

***

デヴィッド・バーンは、1982年にも「キャサリーン・ホイール(回転花火)」という劇のためのサウンドトラックを作ってもいるが、これは全曲、バーンが創ったもので、ブライアン・イーノも協力をしたもので、この「ザ・ニー・プレイス」とは全く違ったものである。
この「キャサリーン・ホイール」は、高校1年生の初めに、毎日よく聴いていたものだが。



***

今日、YOUTUBEで探索をしたら「ザ・ニー・プレイス」の動画を発見したので、アップする。


DAVID BYRNE 「THE SOUND OF BUSINESS」
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