相も変わらず、1981年暮れから1982年新年度にかけて買った音楽雑誌をめくりながら、その頃見聞きしたレコードを確認していた。
春という時期に絡んた音楽備忘録を少し。
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プリンスの存在を知ったのは、1982年1月号に掲載された新譜紹介だった。実際のアルバム発売は1981年12月。
彼にとっての4枚目アルバムは、日本語で「戦慄の貴公子」というタイトルがついた作品。
プリンスの存在に戦慄を覚える、ということで、「戦慄」と「旋律」をひっかけたんだろうが、80年代洋楽の国内紹介らしいタイトル。どうせなら「の」を外して「戦慄貴公子」にしたら・・・その「の」を入れるか否かで社内会議紛糾・・・それは表現として伝わらない、となったかどうかは知らない。
原題は「Controversy」、(社会・道徳・政治上の)論争,議論という意味。この数週間、このアルバムを聴いていた。
・・・1978年18歳のデビューから「フォー・ユー」「愛のペガサス」「ダーティー・マインド」と3枚のアルバムを発表してきたが、1980年・3枚目の作品「ダーティー・マインド」録音前に(たぶん)ニューウェイヴの洗礼を受けたのだろう。本性をむき出しにし始めたな、という感覚と共に、YMO等々ニューウェイヴの影響は、この4枚目「戦慄の貴公子」でより強く現れ始めた。
そうレコードレビューの藤田正さんは語る。
じぶんは当時、この新譜をアルバムジャケットを見て内容を想像するだけで終わっていた。意識して曲を聴いたのも90年代前半あたり。
ただ、1981年当時、YMOの影響をアメリカの黒人ミュージシャンが受けて表現している事実と、このアルバムジャケットの大きな目が狂気じみている点だけは、深く印象に刻まれて忘れられなかった。
そんなじぶんがちゃんとプリンスの音楽に深く触れたのは次作2枚組「1999」だった。
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当時の勝手な想像では、アルバム「戦慄の貴公子」は黒人ミュージシャンによるクラフトワーク的世界というか、肉体を伴ったテクノというか、後のアフリカ・バンバータ的な音楽と思っていたが、そうではなかった。一般的にプリンス独自の世界は「1999」という多様なジャンルを包含したカッコイイ2枚組で大きく展開していくのだが、「戦慄の貴公子」はその前哨戦。
まだ遠慮しがちに聞こえるものの、その後さまざまな作品で展開していく曲の原型がある。
「Sexuality」に「Let's Go Crazy」の姿を、「Do Me, Baby」には「Purple Rain」の姿を、つい勝手に投影してしまう。
A面3曲・B面5曲、計8曲を聞きながら、弱冠21歳のプリンスの音楽は、当時相当な健闘をしていることが伝わってくる。
寝ている以外の時間は、ひたすら音楽つくりに注ぎ込み、早々と亡くなってしまった天才プリンス。
個人を縛り付ける様々な要素からの解放をイメージした曲は、この作品にも生真面目に満たされている。
もうすぐ、彼が亡くなって5年が経つ。
立ち上れ、すべての者よ、みんなの人生だ
もうひとつの世界へ案内しよう
今夜にでも連れて行こう
金は要らない
洋服も要らない
第二の人生、すべてがかなう
必要なのはセクシュアリティ
自らの肉体を解放せよ
さあ、みんな、これが人生だ
俺は<革命>の話をしているのだ
「Sexuality(セクシュアリティ)」
まったく馬鹿げているのは
皆が言い争っていること
俺が白人なのか黒人なのか
俺がまともなのかゲイなのか
俺が神を信じているのか
俺が自分を信じているのか、などと
くだらない言い争い
みんなは俺を不良と言う
みんなヌードだったら良いのに
黒人と白人の区別がなけりゃ良いのに
何のルールもなけりゃ良いのに
「Controversy(戦慄の貴公子)」