こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年1月31日 土曜日 「Walk Out To Winter」

2015-01-31 23:49:59 | 写真日和



■アズテック・カメラ 「Walk Out To Winter」1983■





















僕らは夏に出会い、秋になるまで一緒に歩いた
僕らは息が詰まるまで話した 言葉の問題だけどね

ヤツらがなんと言おうと、そんなのは若さじゃない
僕らは真実を見つけた

ジョー・ストラマーのポスターが壁からはがれ落ち
そこにはもう何も貼られていない

甘さと苦さ、僕らは両方を味わった
それを飲み干して

冬に向かって歩き出そう 僕はそうする
きみは寒さで目覚めるだろう、高原の乾いた空気の中

不思議に思うかもしれないけれど、冬に歩き出そう 僕はそうする
チャンスはまぶしい雪の下に埋まっているんだ

きみは食糧配給を待つ列の中、ぼろぼろになって身を焼くような思いで並んでいる
だから冬に向かって歩き出すんだ

遅れることはない 彼女はいつも待っていてくれる

この時代に、ヤツらは壁に向かって行進している
だけど僕は怒っちゃいない
荷物をまとめて、ここから出ていくんだ

冬に向かって歩き出そう 僕はそうする
きみは寒さで目覚めるだろう、高原の乾いた空気の中

不思議に思うかもしれないけれど、冬に歩き出そう 僕はそうする
チャンスはまぶしい雪の下に埋まっているんだ
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2015年1月28日 水曜日 雑記帳~冬―写真―みうらじゅん―ジュリア・フォーダムetc

2015-01-28 23:02:13 | 雑記帳

大寒を越え本当の意味の冬がやってきた。
しかし、21世紀のはじまり・2001年の今ごろ大雪が降っていたことを、プリントした写真から教えられ、まだかろうじて”大丈夫”。

先週から、地方都市に行くときはコート/都内はマフラーだけとしてきたが、今日は勘でマズそうだとコートを着て出た。朝は暑かったが、帰路は手も耳も冷たい。勘は当たった。

食材を買っての夜道。月は半月に近づいた。オリオン座が輝いている。

今になって気がつくのもなんだけど。。。と24日、森山さんはトークショーの最後で話していた。
二十代・新宿で見た戦後の焼野原を引きずった新宿と当時よく見た海外のグラフィック雑誌写真、この二つの刷り込みの影響が大きい。
そう森山さんは言っていた。

思ってみれば、荒木さんは当初、電通(現代では日本の闇社会の実権者)に勤めていて、そこで陽子さんに出会い、“広告”と関わる仕事に従事していた。
全ての価値が転換する糸井さん以降(/80年代以降)時代の分水嶺前、かたやグラフィック、かたや広告に足を突っ込みながら、その片方でなじめずに、それぞれの写真を撮っていたことを改めて思う。

その語りを、みうらじゅんさんのラジオ「サントラくん」を聞きながら昨夜思い出した。
なんで、みうらじゅん?と言えば、ただ単に我が道を行く者が、最終的に救われる独自の展開を見せることから、私の脳が勝手な想起をしたまでのこと。

この番組「サントラくん」は不定期放送で、数年前NHKラジオから聞こえてきたとき偶然出会い・ときに聴いている。昨夜もまったくの偶然で、帰ってラジオをつけながら炊事していたら聞こえてきた。(聞けなかった回は、YOUTUBEで聞いた。)
まさかみうらさんがNHKのDJフル出場される日など、昔は想像だにしていなかった。

元々映画好きなみうらさんが、その映画公開に伴って発売されたサウンドトラックレコードを巡って、当時の想い出含めて紹介する。
みうらさんは、自分の8つ上なので、70年代の映画が中心となる。
私は兄が6つ上にいることと、8つの差はあれども、当時は今のような情報洪水状態では無かったので、見聞きした映画が多い。また、みうらさんから刷り込まれてきたせいで知っているものも多い。

「サントラくん」とは、中3から高1の頃にみうらさんが付けられたあだ名を指す。
周囲の同級生がロックのレコードを中心としてコレクションを持ち寄るなか、サウンドトラックを集めていたみうらさんを「へもい」と揶揄したことから、このあだ名が付いたという。

みうらさんが映画を語る場面を、TBSラジオ「ストリーム」のコーナーや吉田照美さんの番組で聞いてきたが、「サントラ」のみで1つの番組とされたのは初めてのこと。
さすがのみうら先生、選曲する曲・お話しも楽しく、青い年頃の切なさがにじみ出てくる。

「ボクはシリアスが続かないんですよ」と、ラジオで言っていたみうらさん。
「根が暗いか?明るいか?で言えば、暗くなりきれない。」
そういうみうらさんは、「気持ち悪い」「ヘンタイ」「不気味」などと言われる逆風を通り越えて、今とてもバランスの良い丘の上で、微風に吹かれて話している。

シンディ・ローパーのコンサートに行けたことは、この1月を自分が生きて出会えた大切なもの。シンディはなんてかわいい人なんだろうか、と改めて思った。
彼女のライヴチケットを取る為にインターネットをしているうち、もう一つ悩みが増えていた。実は。

シンディのライヴが20日(火)、その数日後、正確には一昨日26日(月)にこれまた愛しのジュリア・フォーダムのライヴがあると知り、迷った。
結果聴きに行か(け)なかった。
「判断は、シンディ・ローパーを聴いてからにしよう」と思ったが、シンディ・ローパーのライヴを経て、想定外の余韻を残すなか、そこに浸っていたくて、電車に乗りながらイヤホンで初期アルバム2枚を聴いているうち、日が過ぎてしまった。

今日午後聴いた声。
インターFMに耳を澄ませば、ジュリア・フォーダムの声。スタジオライヴとインタビュー。説得力ある低く美しい声は健在。
ジャズアレンジした「ハッピー・エヴァー・アフター」に、仕事の手を止め、時の速さが変わる。そんなしばしの時間を味わう。
職人さんで言えば、お三時のお茶と和菓子の時間。

調べるとジュリア・フォーダムは、最近新譜も出している。

不意に思い出すのが、80年代前半・毎日が音楽の渦で、ほとんどの時間と少ないお小遣いは音楽のためにほぼ全てが充当されていた。
不思議なもので、好きなものは固まって身動きが出来ないときほど、今回の1月みたいに重なった時期に大波になってやってくる。
明日なき世界には、それでも行くべきだったのかもしれないが、7年前に目の前でお会いしたし・・・と自らを納得させている。

■A Flock Of Seagulls 「The More You Live, The More You Love」1984■


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2015年1月26日 月曜日 ~2015年冬の旅~ ジグザク歩行の私景

2015-01-26 23:54:51 | 写真日和

2015年1月 東京駅あたり
自分専用のカメラを持つ事が出来たのは、中学三年の頃。
といってもそのカメラはおさがりであり、専用としたのは、家のモノだったものを微妙にがめたのである。

そのカメラは日常持ち歩くには大きく、重い黒い塊であった。
本当は記録としての写真を撮りたいと思いながら、フィルム代はまだしも現像代が馬鹿にならなかったので、大した枚数の撮影をすることは出来なかった。

昔、カメラを持つことや写真を撮る事は、それなりのお金が無ければ出来ないことだった。
旅行や特別な催しものでもない限り、一般の人が容易に毎日シャッターを切るなどという行為に向かう事は少なかった。

おさがりでもらい受けたカメラで撮影したものは、なんだっただろうか?
と思えば、まずは何よりも三ノ輪を去らねばならなくなった1981年夏。
その引っ越し間際に撮った写真と繋がっている。

当時同居していた、ほぼ妹・弟だったいとこ、自室の室内、窓の外・・・
という具合にして、明らかに去らねばならないものたちへの郷愁が<写真を撮る>という行為に向かわせた。
今振り返るに、憂鬱を常にたたえながらも、なんと純粋な少年だったのだろうかと思う。

90年代という後になって初めて一連を視知ることになるのだが、荒木さんが私よりも前に三ノ輪の下駄屋を去った際、去る前一週間で撮影した「私景 1940-1977」というモノクロームの写真シリーズがある。

その一連の写真が持つ切なさと愛おしさは自分の中で尊くて、未だ単純に胸を打たれる。
荒木さんがカメラを向けた三ノ輪の写真には、私が幼少の頃から見てきた家の周りの風景が全てそのまま在る。

私の一方的な思い入れは「同郷だから」という理由もあるが、「もはや三ノ輪でもヨソ者」という離れた今日もそう思えるのは、純粋さゆえ、と今の私は言い切ってしまいたい。
そんな気持ちだ。

荒木さんは、愛妻・陽子さんが亡くなった後でも、観る側をたぶらかしながら「やっぱり愛ですよ。愛。ハハハハッ・・・」と例の笑いをするのだが、それは両面あって、その一体型コインの片面には純粋な愛がある。

昔のインタビューで、どうやったら写真を上手に撮れますか?
という質問に対して荒木さんがこう言う。
「目の前にあるいとおしいと思うものを、いとおしいと思って撮ること。」
自分が三ノ輪を去るときに撮った写真は、そのものなのだがまだ探せていない。
しかし、何を撮ったかは、はっきり頭には浮かんでいる。

何もそれは三ノ輪の写真に限らず、彼が撮った東京写真全般に言えることだが、荒木さんの写真を「あざとい」という人がいるのは知っているが、そういう目をした人にはくみしたくない。
元々荒木さんの写真には(全部ではないが)、虚と実をおりまぜることで、立体的な東京を浮かび上がらせようとする試みがされており、そこには「にんげんらしい生や性や大嘘」のエッセンスが入っているが、一種の照れも含まれている。

私自身も含めて「にんげんなんていうものは、その程度なものだろ」と思うし、”目くそ鼻くそを笑う”程度の違い、とニセの笑いで通過したい。
荒木さんの三ノ輪の「私景 1940-1977」シリーズを見ると、自分が三ノ輪を去った際の気持ちをもまでも、モノクロームで表現してもらっているようにも思う。

荒木さんの「私景 1940-1977」より
あの1981年からそれなりの旅の過程で、多少の小金を持てるようになり、毎週土日は歩きまくり・週に24か36枚撮り×2~3本は撮影出来るようになったのは1996年のこと。

その時点の気持ちの根底には、消えゆく「“私のなかの東京”を撮りに」だったが、そうやって街を歩いては、立ち寄った街の風俗の引力に負けては店に入り、を繰り返していた。
当時は今ほどの規制が無かったので、仲良くなったその女性を撮影したり、外で逢ったりということをしていた。
そんなことを含めての街歩きと写真だったので、果たしてどこまで純粋さがあったか否かはわかったものではない。

そこからさえも離れた2015年の今日も、日々歩きながらさまざまなモノに向けてシャッターを押している。

■細野晴臣 「冬越え」1973(ホソノハウス)■

2001年1月27日 東京に雪が降る。その中、三ノ輪に向かった。
ああでもないこうでもないと迷いつつ。
ときに善人ぶったり悪人ぶったりしていると思う自分。そういう居心地の悪いムズムズした感触を覚えたら、いかにニュートラルであるか、と大仰でもなく、喫茶店に入ったりしてリセットする。
そうしてまた歩き出す。

いつの間にかギミックやテクニックによくはまりこみ、欲が出ていることに気付いては捨て、それを補正しうるために、また歩きを繰り返して進んでいく。

そんなジグザグにして進んでいく。
そんなもんだと思う。
その光跡を振り返ってみたら、これだけは”自分に素直”という一枚に出会えたら/シャッターが切られていたら、それでめっけもん。

ほんとは、そのめまうような街中でのリアルタイムは全部素直なつもりなのだが。

2002年3月3日 三ノ輪浄閑寺。コダックTri-X。

2015年1月 谷中あたり

2015年1月 湯島からアメ横への夜

2015年1月 田端あたり



2015年1月 巣鴨あたり
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2015年1月24日 土曜日 備忘録―東京と写真―

2015-01-24 22:39:20 | 写真日和

どれくらいぶりだか、渋谷にいざなわれ歩いた。
用事があるから向かったのであり、そうでもないと最近は近づかない。それは住む島を巡りながらスカイツリー付近に近付かないことに似ている。
とても局所的に何かがある点では同じだが、前者が常に移ろい・淫靡な身体を持ったカオスの街であるに対し、後者はただ塔があり・その影響が周囲をのっぺりした能面に浄化させていく。
その点で、まったく異なる。

渋谷の最奥の記憶は、幼稚園のときに五島プラネタリウムで仮想の星を見たものだが、その次に来る強烈なイメージは、80年代中盤。
東京が世界で稀なるトップランナーの都市へと変化(へんげ)したまでは良かったものの、次第に超資本主義へ異常な膨張と爆発寸前の姿になっていく。
その破綻の象徴としての渋谷が、写真家・荒木経惟さんの写真集「東京物語」の表紙写真の隠喩である。

渋谷に行くきっかけは、千駄木の古本屋さんにぶら下がったチラシだった。
写真家・森山大道さんのトークショーがあるという。予約をして普段より早起きし、最近のリズムを壊して、休みには出来るだけ乗りたくない地下鉄で渋谷へ。

今思い出したのは、前よくカメラ片手に渋谷に来ていたのは、佐野眞一さんの「東電OL殺人事件」に感化され、ホテル街と周辺を歩いていたとき。駅前でドクター中松氏が選挙PRをしていた。
それ以来のセンター街を抜け、オーチャードホール付近の会場に着く。

狭い地下への入り口で待っていると、あっけなくその横を森山さんがタバコを吸いに上がって横を通り抜けていく。いつも思うのだが、とても76歳とは思えない。
約2時間のトークショーでも、森山さんは思慮深く言葉を発する。相当前のことを訊かれても、ああその時は・・・とすぐすらすら答える。話し相手も言っていたが、強い記憶力を持った方であり、時計が刻む「時間」とは別の流れが森山さんの体内には流れているようにお見受けした。

私には、全ての外界と自分、という森山さんの捉え方より、街と自分の距離、という荒木さんに魅かれてきた刷り込みが強い。消えゆく街へのノスタルジーが荒木さんの作品にはあるが、森山さんはその点を意識していない。
しかし結果として、最近怖いほど、と思うのは、森山さんの多岐にわたる発言・作品に出てくるように、今のコピペ文化を言い当てている点。荒木さんも同じことを言っているし、作品にも反映されているが、今の時空には森山さんの言い回しのほうがフィットする。

今日、会場では本を買うとポスターをもらえ、サインをしてもらえるというので、昨年10月に発表された「通過者の視線」を購入した。この本は、森山さんの作品としての写真、そして達者な文章で構成されている。

このトークショーで相手をした女性作家が、”町屋や田端には文化を感じない・・・まさかこの場所に来てくれている人に、そのような場所に住む人はいないでしょうが”というあからさまなスノッブ的な発言を発した際、森山さんが少しだけ言葉にした。

池袋に棲み、歩いて写真を撮る中で、田端も行ったが、どうも肌が合わないというか、自分の生理には合わなかった。今度また挑戦しますよ。

サインをもらう際、余計なことを言ってしまった、と後悔した。
「森山さん、最近田端をよく歩いて撮っていますが、面白い場所もありますよ。」

「そう。じゃあ、また行ってみるよ。頑張って撮り続けて。」
そう森山さんに言われたものの、空振りという語感に、言わなければよかったと思った。

外に出ると既に陽は赤くなっており、周辺を歩いて適当にシャッターを切り、別の街へと流れていった。



■ジョン・フォックス&ハロルド・バッド 「ジ・アザー・ルーム」■
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2015年1月24日 土曜日 ~1984年のビルボードチャートより~

2015-01-24 10:18:49 | 音楽帳

シンディ・ローパーはいつ私の目の前に現れたんだろう?と、ゴミ屋敷の中をがさごそしながら、雑誌からビルボードのトップ10チャートのページを探しめくっていた。

1984年、走っていたニュ-ウェイヴにかげりが射し、次第に行き詰まりの小路に入っていくのだが、その一方でポップス領域には次から次へとクリーンな音楽が立ち現われてくる。二つが分かれあった世界は、ときに交錯しつつも、ずっとこの前から・この後も一定のところまで変わらない。

がさごそするうち、初めてシンディの名前がビルボードのトップ10まで浮上したのが1984年2月18日とわかる。たぶん、これとリンクするように、土曜夜の小林克也さんの「ベストヒットUSA」がチャートとMTVを紹介。ラジオ日本では11時から全米トップ40が流れていた。

1位 → カルチャークラブ 「カーマは気まぐれ」
2位 ↑ ヴァン・ヘイレン 「ジャンプ」
3位 ↓ クール&ザ・ギャング 「ジョアンナ」
4位 ↑ ネーナ 「ロックバルーンは99」
5位 ↓ ロマンティクス 「トーキング・イン・ユア・スリープ」
6位 → ジェネシス 「ザッツ・オール」
7位 ↑ マイケル・ジャクソン 「スリラー」
8位 ↓ イエス 「ロンリー・ハート」
9位 ↑ シンディ・ローパー 「ハイスクールはダンステリア」
10位 ↑ シャノン 「レット・ザ・ミュージック・プレイ」


今週もウィークエンドのはじまり。
さっきまで雲間から差し込んでいた光はいったん隠れてしまったけれど、今日・明日とお天気も良いよう。
さぶい北風は強く吹くので、この曲を勢い付けにして、歩き出そうと思う。

■Cyndi Lauper 「Girls Just Want To Have Fun」1983■
先週、小旅のさなか、駒込吉祥寺で梅の花に出会った。春は近い。
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2015年1月23日 金曜日 ~シンディ・ローパー・ジャパン・ツアー2015~

2015-01-23 22:55:43 | 音楽帳

昨年からすでに在った腫瘍が肥大化し、診察の上、検査することになった20日。
結果が良性でも悪性でも切除のための手術は決まっている。血の通わない女医の詰問にたまりかねて、武道館に走った夜。
今日、MRIを終え、結果まではあと10日ある。
何をどうあがこうが結果はすでにあるのだから焦るな、と言い聞かせ、今夜も、今の幸福を味わう。

“これは何々系”とよくいう音楽の系譜。それは時代と共に、大きな川の流れやその支流や合流などを経て移ろっていく。そこから、それぞれの音に込められた「ジャンル」とか「分類」が、創る人と聴く人によって産まれる。
それゆえに、ついAとBという音楽同士の比較をしてしまう傾向は否めない。

だけど彼女(シンディ)の音楽とショーを見てると、そんなことなんかどうでもよくて忘れてしまえる。
それは彼女そのままが目の前に居て、自らが出来ることと自らが出来ない限界を知りながら、自らがこれだけは任せてよということを、ホントに自由に踊りながら歌ってみせる。
その踊る手足の身振り手振りは、初めて出会った1984年から今まで、映像でしか見てこれなかった彼女に描いた像と寸分たりとも違わないのだった。

となりに来られた三人組。私より年上と思う、工務店勤務といった風情のがたいのやけに大きい方たちは、私と共に立ち上がり『シンディー』と叫び、ゴリラのように踊る。
彼女が自由であり続ける様に、我々も励まされ影響を受ける。
笑い・泣き、ショーというよりは、あるときは「お笑い」のライヴみたいで・・・
暮らすことの延長線上で、たまたまその”寄り合い”の場所が武道館だった、みたいな感じの、その寛大さにひたる。
まさに『トゥルーカラー』そのものを彼女自身が自ら等身大で表現し、こうするのよと言っている。

彼女には、日本との密接な関係をめぐるお話しがたくさんあり、ついそのお話しを綴ることが多い。
確かに2011年3月11日・あの日に彼女が日本に向かっていたことには、なるべくしてそうなったかのような運命の不思議さがあるのかもしれない。それから帰らずに公演を中止せずに日本にとどまり、不安に震える人たちに光を与えた。しかし、それは日本だからそうするのではない。
どこで何が起きても、深い情を持った彼女は、その場その場で自分が出来ることをするんだろう。

20日の武道館では、本当に素敵な時間をもらった。それに、こんな私を見てみなさい、というメッセージも受け取った。
肩の力を抜いて、耳を澄まして、心の声を聞いてごらんなさい。彼女はそう言う。

日本語の歌を上手に歌い始めたところ途中で分からなくなり、みんなが歌う声にサポートされ“Sorry”と言いながら、歌い切る。
その間違いをあえてしたのかどうかは分からないけど、でもどうやらそんなことはない。
過剰に加工しがちな演出は一切なく、目の前には至ってありのままのシンディがいるだけだ。
気取らず、思う事を語る。

歌詞を間違おうが、声が出なくても、そんなもんだよ。それでも歌い、ハッピーを共にわかちあえばそれでいいの。そう言い切ってしまっているようにも思えた。

夜、19時の定刻をむかえ、すべての明かりが消える。
ブルーのライトがステージだけを照らす。
バックミュージシャンがそれぞれの配置に着く。

消灯と共にいったん静まりかえった客席。そのあちこちから「シンディー」と呼ぶ声がする。

すると、彼女は、注目凝視する舞台ではない客席の出入口から取り巻きを引き連れ、客席をうねり歩きながら『シー・バップ』が始まった。
まさに、シンディ・ローパーらしいイキな登場に、ついついみんな微笑んでしまう。

テンポの速い曲とスローな曲を交互におりまぜる選曲の流れが素敵だった。
そして「オール・スルー・ザ・ナイト」は、なんといきなり3曲目に掛かり、屁理屈をごねた割に、イカンと思いながらも、この曲に涙がこぼれた。屁理屈は、その音楽を前にして瓦解した。



■シンディ・ローパー 「オール・スルー・ザ・ナイト」1983■
夜通しずっと 私は起きたままあなたと一緒にいるわ
一晩中ずっと

はじめて訪れた大切な時なんですもの

ああ、今日は夜通しずっと 一言も言葉をかわさなくても
2人とも同じ気持ちでいるってわかるわ

2人には過去なんかないから 後戻りしようとしたりしない
私と一緒にこれからのことだけ考えて 夜をずっと過ごすの

2人がひとたびスタートして メーターが倒れたら
もう最後まで一晩中走り続けるしかない

そして2人には最後なんてないの


夜通しずっと ノラネコが鳴き合っている
一晩中ずっと

昼間の無様さも忘れてしまえる
白く輝く街路灯の下でなら 少しはチャンスが生まれるかもしれない

ああ、眠くてたまらなそうな目をしたあなた
一緒にいさせてね
しばらくここにいさせてね


2人には過去なんかないから 後戻りしようとしたりしない
私と一緒にこれからのことだけ考えて 夜をずっと過ごすの

2人がひとたびスタートして メーターが倒れたら
もう最後まで一晩中走り続けるしかない

最後なんて、最後までこないわ
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2015年1月20日 火曜日・深夜 愛する人よ ~衝動と懺悔と告白~

2015-01-21 00:34:32 | 音楽帳
明日が早いので理由やいきさつは後に述べるにしても、何はともあれ、いたたまれなくなって当日チケットを買い・武道館へ走った。

私は、どれだけ多くのことに気付かずにいたのか?と問うヒマもなく、明日朝には濁流に飲み込まれている。それでも、というか、それだから「今」見ないといけないと思っての行動。

私は今自らにノルマを課している。可能な限り、自由で居ること。
”そんなことは、お前の勝手”なのだが、理由も無くそう思っている。

いや、理由ははっきりしている。それは、残る日は少ないと思っているからである。
いや、理由ははっきりしていない。しかし、生き急いでいるのは何より確かである。

この数日、野外でのフィールドレコーディングに使っている(元々はそういう使い方が主ではない)MP3プレイヤーで、この曲を聴いていた。
そして、今夜寝なければならないのだけど、帰ってもずーっと、この曲を繰り返し繰り返し聴いている。

目の前でこの曲が掛かって、不覚にも涙をとめられなかった。
会場にはさまざまな人。
それは年齢層という意味もある。へとへとになってまで来ている、私の母の年代まで。
それに、視覚が不自由な方、杖を突く私より若い方まで。

それくらいに、彼女のライヴを楽しみにしていたんだと気付き、リスナーとして彼女の音楽に対して、一から出直さねばならないと思った。

■シンディ・ローパー「オール・スルー・ザ・ナイト」1983■



音楽こそが、あるいはアート全般こそが唯一の残された島、私のよりどころであり、私の救いである。
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2015年1月19日 月曜日 星空の下で

2015-01-19 23:54:51 | 坂本龍一のサウンドストリート

12月からだが、帰り道、星を見る機会が多くなった。
正確な星の名前は分からないが、それでもオリオン座だけは分かる。「満天の星」とはいかないまでも、東京でだって星はキレイに見える。「満天の星」などというと、ジェットストリームの城達也さんのセリフがよぎる。
それでも、脚色一切なくとも、島から見える空には、たくさんの星が見つけられる。そんな夜。

東京の空は灰色。と書いた作文を、まるで詩人と捉えて、
そんな話を、親族が三ノ輪に集まる時には必ず定番としていたのも、今思えば70年代のこと。

作文と書いたが、それは、6つ上の兄のもので、私が小学生に上がった日には、兄は中学生に入り、すでに長い髪をしていた時代であり、この幼少の”6”という差はいかんともしがたい距離であった。
たぶん実際”灰色”であったのは、工場がもくもくと煙を出し、公害が社会的問題であって、東京湾からヘドラが産まれた頃に近い。

親の眼を盗んででは、”行ってはならない”と言われた魅惑的世界・駄菓子屋で、スモモを食べては舌を赤くさせていた頃。みうらさんが”科学””というと”=未来的”と思ったという話しにはおおいにうなずく。それは1970大阪万博の余波であるが、まさかその時に、三島さんが”あのような”ことになっていようとは、当時の私には知りえないこと。

当時は、今(2015)のガチガチで身動きが出来ない監獄では無かったので、様々な化学調合物が食べ物には混じっており、駄菓子屋はその手合いの食べ物のパラダイス。
そんなものを日々摂取してきて、今に至っても大きな影響はないので、紅茶キノコに始まる”健康宗教”が果たしてどこまで正しいのかは疑わしく、化学の専門家ではない私には知りえない。
ましてや”STAP細胞”なるものが何たるか?も分からない。

ゴミを整理しているうち、最近出てきたものがある。
それは、雑誌のページの切れ端。色が褪せてしまっているが、70年代の終わりから80年代以降のものは今も”昔”とは思えない感覚として生きているので、その退色感ほどには感じない。

中身を読み、そこから1981年夏前の頃、とわかる。
一風堂・土屋昌巳さんが選んだ「ニュー・ウェイヴ」レコード100枚。
これは、80年代のなかで集まった雑誌類の重みに耐えかねて「要らない部分」を捨てるために、本を根元のノドの部分まで裂いて、取っておくページのみを保存した残骸である。
雑誌は(週刊ではなく)「月刊レコパル」からのモノ。

ちょうど、教授のサウンドストリートに土屋さんがゲストに出たタイミング。
ようくレコードをたくさん持っている人におべんちゃらを使っては、その音楽メディアだけを目的に、友人でもない人の家に行ったように、それぞれのコレクションを覗く、というのは実に興味深かった。(今もネット上で”盗み見る”なら大して変わりないが、何のプロセスもなくワンクリックという点が全く違う。)
この記事も、そういうあこがれがこうして保存しては眺める、ということを繰り返しさせてきたのだろうが、引っ越しを繰り返す中で、荷物のなかに沈下していた。

”いつか、こんなにたくさんのレコード・コレクションを持てるようになりたいな”と思っていた。
そうして、土屋さんのリストをチェックしては右往左往し、そしてまた、モノクロ写真を眺める、そんな繰り返しだった。

100枚のうち、1~10枚まで。

1・セックス・ピストルズ「勝手にしやがれ」
2・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド ファースト
3・キャプテン・ビーフハート「美は乱調にあり」
4・トーキングヘッズ「フィア・オブ・ミュージック」
5・トーキングヘッズ「モア・ソングス」
6・スライ&ザ・ファミリーストーン「フレッシュ」
7・ウルトラヴォックス「システムズ・オブ・ロマンス」
8・ウルトラヴォックス「ヴィエナ」
9・ポリス「白いレガッタ」
10・フィリーズ「クレージー・リズムス」

あの1981年夏。九段下から神保町に向かう、ギラつく俎(まないた)橋を渡っては「夏季講習」に通っていた日の頃、別の「講座」をFMで聴いていた夜。
その番組のテーマ曲がウルトラヴォックスだった。

■Ultravox 「Vienna」1980■
今はYOUTUBE上には無いが、このヴィエナのプロモーションヴィデオが、後のMTVブームに与えた影響は実に大きい。

PS:今夜は、キーボードに向かったら”想定外”の結果になった。
いつもの”なりゆきまかせ”は変わらない。
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2015年1月18日 日曜日 ~2015年冬の旅~きょうのおさんぽ 

2015-01-18 23:28:49 | 写真日和



■コニー・フランシス 「マイ・ハピネス」1958■






























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2015年1月16日 金曜日 ~ 梅は咲いたか・・・ ~

2015-01-16 23:32:23 | 音楽帳

今朝の路で、初梅に出会う。
★1月16日のインターFMより 耳に響いた曲・プレイリスト★
09:53 「HUNGRY LIKE THE WOLF」 DURAN DURAN
10:00 「INVISIBLE TOUCH」 GENESIS
10:30 「HEAVEN'S KITCHEN」 BONNIE PINK
12:04 「HERO」 MR.CHILDREN
12:17 「SONIC MANIC」 木村カエラ
15:30 「TAKE ON ME」 A-HA
15:38 「WHAT YOU WANT」 MY BLOODY VALENTINE
16:14 「GOOD DAY TODAY」 DAVID LYNCH
16:34 「YOU'RE MY BEST FRIEND」 QUEEN
16:42 「CLOSING TIME」 SEMISONIC
16:46 「CLOSING TIME」 TOM WAITS
19:17 「JUNGLE LOVE」 THE TIME
19:20 「BACK ON THE RIGHT」 SLY & THE FAMILY STONE
19:23 「I'M DIGGIN' YOU (LIKE AN OLD SOUL RECORD)」 ME'SHELL NDEGEOCELLO
19:26 「MIRACLE DRUG」 U2


■1995大阪/2015東京
阪神淡路大震災から明日で20年なんて。。。「あの夜明け」から、まさか、ね。
そんな時間が経った気は、まったくしない。
ラジオですら「風化しつつある」という“常套句”を使うが、私の中では何も変わっていないし、それはデマカセのウソである。
そもそも誰が忘れるのだ、あんな目の前で起きた大事件を。

「忘却させよう」とするトラウマだったり、何かの意志があるだけのことだ。
阪神淡路大震災で苦しみを越えたみんなが居て、その経験があったからこそ、3・11の初動対応の早さがあった。ちゃんとチェーンは繋がっており、バトンは引き継がれている。

多くを語れる気力は今無いが、現場に物見遊山で土足姿で入り込んできたマスメディアが多くの人命のうめきを消し、助かるべき多くの人を殺した事実。
安藤優子並びに周辺すべての加担者に対する怒りと怨念は、末代に至るまで永遠に変わらない。私が死んで霊となった後も、恨み続ける。

ほんとは、それについて語るべきかもしれないが、今その日だからと、これ以上語る必要はない。ふだんいつも忘れてはいないことを、あえてこの日だけに言う気が起きないだけのことだ。心の奥底でだけ、多くの魂へ合掌する。

1995年1月17日、あの夜明け、四方すべてのカベにあるものが十畳真ん中で眠る自分の上に倒れてきた。あのとき、共に手に負傷を負った招きネコの“赤さん”。
あれから20年する今日もなにごとなく、玄関にじぃっと居て、自分をむかえてくれている。

すべすべした冷たい肌触りが気持ち良い。
一応、貯金箱にもなっているけど、お金は一円も入っていない。

今日、何よりもまずいニュースは、A政権が東大に軍事研究解禁を指示済みという情報。
それ以上は、言うまでもない。

■音楽のおはなしを続けるべし
YOUTUBEで、ボイド・ライスの「ブラック・アルバム」とタイトルされた、70年代作品を今週聴いていた。今朝も。
テープループを用いた作品。
https://www.youtube.com/watch?v=_Qjuv8Aj39o

思い出したのが、ダニエル・ミラーだったり、小中学生の頃ラジカセを用いテープループやピンポンダビングで多重録音して作った実験音楽。
そのカセットテープはどこかに行ってしまったけども、記憶に残る音がボイド・ライスの作品に重なった。

ボイド・ライスの音を初めて聴いたのは、ダニエル・ミラーとの曲。それは教授のサウンドストリート2回目(1981年4月14日)に掛かったもの。クリアネス&オーダー。

その後、輪廻転生を経て、再びボイド・ライスに邂逅するのは、上記震災をくぐり抜け、大阪から東京に帰還後のこと。
1996年東京は神保町JANIS。店内で出会い・借りたCD「MUSIC MARTINIS&MISANTHROPY」。

このアルバムは、スロッビング・グリッスル解散後ジェネシスPオーリッジらが結成したサイキックTVの音を思わせる。流れるベーシック音と分離・独立しながら同時進行する語りやSE。それらが入り混じる。
全体にはとても静かな空気が音にあり、それは1996年同時期に借りたFFWD(*)の作品の静けさや、(リアルタイムではないが1995-96年聴いていた)一風堂最後となるライヴアルバム「ライヴ&ゼン」(1984年)に付属された1枚(**)の静けさと同期化する。
(*)FFWD・・・ジ・オーブやロバート・フリップが組んだコラボレーションアルバム。
(**)一風堂・・・水滴がしたたり落ちる音から始まる・アンビエント色濃い「アクア・ノスタルジー」から「スターライト・シャワー」12インチヴァージョンへの流れ。
すでに遅いが、ちゃんと一風堂の作品をCD化してほしい。


「MUSIC MARTINIS&MISANTHROPY」はジャケット写真と共に中身も不気味で、「ディズニーランド・キャン・ウエイト」などは、営業時間を終えた夜の遊園地の恐さが音となっている。
西尾久に住んでいた頃、当時は(今は乗らない)自転車を走らせることが多かったのだが、もうチンチン電車(都電荒川線)も終電を終えた深夜、夜の散歩と自転車を転がして荒川遊園地へとよく行った。

回る事をやめたメリーゴーランド、動物たちの乗り物、その動かない物体の表面を舐める光沢とツヤ。
あれは思えば、幼い頃に見たウルトラセブンなどで出てきたシーンにも似ていた。
起承転結なんてものの無い世界。まるで夢みたいだが、でも現実にある風景を描写したような作品。


相変わらず分裂症的だが、”それでも生きていく”ために、やはり2015年は”はっぴいえんど”が良い。
そんな愛する一曲を、今夜に贈る。

■ジュリア・フォーダム 「ポーセレイン」1989■
大阪時代、いつも心をいやしてもらった、愛するジュリア・フォーダム。
数年前、ビルボードライヴ東京で、彼女の目の前に座って初めてのじかの対面。
その際、目が合ったのだが、その目をそらされた笑える記憶。
たぶん、個人的想い入れと憧憬の眼が異常で、彼女も怖かったのだろうと思っている。
コメント
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