こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

秋の100曲:Fra Lippo Lippi「A Small Mercy」1983

2024-10-30 11:30:00 | 音楽帳

10月29日(火曜日)くもり、のち雨

10月も終わりになって、やっと秋らしくなってきた感じですね。
と昼、小島慶子さんが言っていた。大竹まことさんの「ゴールデンラジオ」冒頭でのやりとり。
「こんなに寒くなって、ちょっと嬉しいよねえ」と大竹さん。
確かに。
私も秋が好きなので。

家を出る12時近く、霧雨がぱらついていた。気温は18℃あったが、私にはとても肌寒くて、厚着でハナをくすくすしていた。3回目の肺炎に近い症状はやっとこの土日で治りつつあったが、元々冷え性だから用心。周りは薄着でも、病弱な私には参考にならない。赤の他人の感覚に頼って風邪を引いては元も子もないのだ。服装をどうするかは、最近の最重要課題といましめる。
結局、気温はこの日、18℃以上にはならなかった。

***

大竹さんのラジオが始まる頃、じぶんはリハビリ兼ねてカラダを動かすために上野付近に移動していた。行く車中では音楽を聴きながら、車窓から色味の失せた風景を眺めていた。
iTunesで聴く曲をまさぐり、フラ・リッポ・リッピでやっと自分の心象風景とマッチ、落ちついた。こんな時空が停止した、実に秋らしい日には、やっぱり定番の曲が聴きたくなる。毎年のことだが、彼らのセカンドアルバムは、秋から冬にかけて聴きたくなる一枚。


■Fra Lippo Lippi「A Small Mercy」1983(アルバム「Small Mercies」より)■



白い秋らしい日。次第にくもりは雨に変わり、雨は翌日まで続いた。

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秋の100曲:Mihaly Wulfen「Selected Ambient Works」2024

2024-10-23 19:00:00 | 音楽帳

”とても秋とは呼べない気候で、これからだってアテにならないが、昨日から急激に冷え込み、やっと「秋」と呼んでもいいかなという気分になった。”

・・・と書いたのは数日前のこと。ここまで書いて止まったままだった。

その理由は2つある。

1つ目は、それくらいに異常な気候が6月くらいからひきづっていること。

今日だって、気温・湿度ともにおかしい。最高気温26度、室内の湿度は85パーセントくらいまで上昇。蒸し暑く、外にTシャツで出ても肌に熱気や湿気がまとわりつく。まるで梅雨どきみたいなじとじとした陽気。。外は小雨が一日降り続いた。

果たしてこれで秋なんだろうか?またこんな陽気が今後も現れはしないか?そんな不安。

近い場所の樹々はしだいに確かに色を付けてきたけれど、昔描いたような何か決定的な「秋」と呼べる要素が少ない。

 

理由の2つ目は、先週から体調不良になっていたからである。

書いて途中だったのは、単純にPCに向かう態勢になれなかったのだ。

最初は鼻風邪か?と思いつつごまかしてチャリで風を切っていたが、微熱がよろよろと現れては消えを繰り返しだしたのが危険な兆候だった。

やっと漕ぎ始めたリハビリ兼ねた仕事は休みたくなく、やむなく近場の町医者に頼ったが、貰ったクスリは効かず。そのうち微熱は次第に大波となり、結局大病院にかかることに。3回目の肺炎か?と焦ったが、結果はその手前。採血結果はひどく、かなりな炎症反応が出ていた。予期せぬ今年3回目の「全身休め!」指示を神より受け、日・月・火・水と寝込んでいた。

いろんな箇所の疼痛、頭痛、発熱、鼻水、セキ等々に苦しみつつ、夜中びしょびしょに汗かいた寝巻きをとっかえては水分を摂り、断眠を繰り返す日々。

***

今こうして書いているのは、少しまっとうに戻ったゆえのこと。

でも、苦しいので余り時間長く考えたり作業したりはできない。

そんなここ数日、身もだえる寝床での救いはやはりTVとラジオと音楽だった。長い時間その空間を満たしてくれる、アタマが痛くならない静かなものを選んだ。好き嫌いの激しい自分だが、とにかく身動きが容易にできないので、選んだらそこに身をゆだねた。

 

今日聴いていたのは、ミハイ・ウルフェンの「セレクテッド・アンビエント・ワークス」。

同じようなタイトルはエイフェクス・ツイン以降いっぱいあるけれども。これも極上の逸品。

 

古い自分はついついブライアン・イーノを思い起こした。

また、イーノがアンビエントという音楽を発見した、病床でのできごとを想い出した。

病気のときほど、音楽の白黒がはっきりとわかるときはないのだ。

■Mihaly Wulfen「Selected Ambient Works」2024■

  1. Clouds
  2. September
  3. Cloud Movements
  4. Rhinestone
  5. Orionids
  6. April Cold
  7. Deep Water Currents

Recorded, mixed & mastered by M. Wulfen

2024年10月8日リリース  

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おもひでの街:石神井川を上る(2024年9月21日)滝野川-王子へ

2024-10-16 23:00:00 | 写真日和

大山ハッピーロードってどんなところだろうか?ということから始まった9月下旬の小さな旅。それが、気が付けば石神井川を上る旅に変わっていた。

自分はあることに身をゆだねて冒険して、精神がドライヴしてくるとどんどんと脱線していく。いつも当初の目的から逸脱して、全く予期していない場所まで行ってしまう。歩いていても、室内で絵を描いていても、仕事していても、必ずそんな道をたどる。自分の分裂気質がなせるワザ。

だが、一方では、こういう解釈はこうして後から振り返るから言えることに過ぎない。その瞬間・その瞬間、興味がある方向に進んでいけば、必ずこういう流れになるはずだ。異常ではない。そう言い聞かせ、そのときそのときを大事にしている。

石神井川を上る道には、元々何だったかのか?不思議な一帯が現れる。

地上げでまとめた土地を一帯開発してマンションを建てたのだろう。川端に現れた「しらじらしい」「こぎれいな」マンション。その谷間に元々あったのだろう、手つかずで放置され取り残された小屋。大竹伸朗さんじゃないが、色を塗って作品にしたい魅力的な小屋の風体。

蛇行する石神井川を歩いていくと、金沢橋で王子新道と再び交差した。そこからしばし石神井川を離れ、王子新道を進む。少し行くと目の前には踏切。板橋と十条の真ん中、そのJR埼京線の踏切を渡った。渡る際少し線路の先を視線でたどると、そこにはサンシャイン60があり、ホッとする。

渡ると急こう配の上り道に変わる。橋を渡った途端、そこは「北区滝野川」。

今では細かい住所の確認が早々取れないけれど、亡き母が生まれた場所。親しみのある場所。少し行くと王子神社。そして懐かしいデザインの街灯が現れる。三ノ輪生まれの自分には、昭和から変わらないと感じさせる数少ない風景。

都電荒川線と並んでスロープの坂道を王子駅まで下る。

そして、駅まで来ると、再び石神井川に出会う。どこか温泉街のような川岸と水面までの切れ込み。

帰りは三人で再びお茶を飲み、ピザを少しつまんでから解散した。

昔からおなじみのバスロータリー、そして、サンスクエアは健在だった。

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おもひでの街:板橋(2024年9月21日)板橋区役所-仲宿商店街-石神井川

2024-10-11 23:00:00 | 写真日和

いつも3人で歩く時も/一人で歩く時も、ほとんど無計画にいきあたりばったりで歩く。この日もだいたいの感じで適当に歩いていた。

山手通り(中山道)にぶち当たるとさすがにそれでも地図を視た。高速があっちこっちと絡み合うジャンクションの様相。。。ハッピーロード~遊座大山と直線で来た道から少し逸れて板橋区役所に向かった。区役所の中にある食堂や喫茶に興味があり、ここで一服しようと企んでいたが、この土曜日は営業していなかった。残念だが、ここのラーメンもまた次回。。。

役所を出てしばし王子新道を歩くと、広い十字路がひらけた。

そこは、かつて板橋宿があった場所。 交差点には「旧中山道仲宿」という表示。

歩いてきた王子新道に十字に交わった道は、中山道の一本内側に当たる旧中山道。そして仲宿商店街が道なりに続く。

商店街の終わりだろうか?お店と人が切れたあたりに橋が現れた。

その橋の欄干の表示を見ると「板橋」とある。“板橋区”の板橋とはこの橋が由来なんだそうだ。またここには「距日本橋(=日本橋まで)二里二十五町三十三間」と書いた道標が立っている。

江戸時代、この板橋は江戸の境となっていたらしい。江戸を離れる人、それに江戸へ戻ってくる人を、江戸中心のひとつ手前の宿場ここ「板橋宿」で宴の場を持つ風習があったという。中山道の先へ向かう人や江戸に戻ってきた人が、「まあ、いっぱい呑んで・・・」とやっていたのだ。この辺りにはもう全く江戸の名残はないけれども、往来で静かにたたずみ、かつてのことを夢想してみた。

“板橋”の下に流れていたのは石神井川。川に沿って道が続き、初めて歩くその場所をさらに探索すべく、川の脇道を歩くことにした。いったいどこまでどんな風につながっているのか、それを知りたくなった。途中、小雨が降り出したが傘はない。やむなく小雨に濡れながら、3人話しをしながら川端を歩く。

”板橋”を振り返って撮影してみる。

左側に見えるは帝京大学医学部付属病院。

小雨が降り出した。

 鬱蒼とした川端をすすむ。

汗だくで歩くうち、17時が近付く。

赤味が差していた光は、まもなく日没へと向かっていく。

遠く彼方にかすかだけど、下町の目印スカイツリーが見えると少しほっとする。

***今夜のPC作業中BGMより一曲***

■ピーター・ヌートン&マイケル・ブルック 「サーチング」1987■

いっとき聴き狂った 大好きなアルバム「Sleeps with the Fishes」(1987年10月12日イギリス発売)より。

通して聴くと、水生生物になって深遠な異世界にトリップできる一枚。発売から37年、未だその効能は有効なり。

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おもひでの街:大山(2024年9月21日)ハッピーロード→遊座大山

2024-10-08 22:00:10 | 写真日和

ハッピーロードは、この日がくもりで薄暗かったせいもあるが、思った以上に暗く感じた。天気やアーケードの照度だけではない暗さ。コロナ前後、ジョイフル三ノ輪を歩いたときにも感じた暗さ。それは言うまでもない死活問題の暗さなのだが、そんな暗さの一方、商店街には商売・カネ・経済で割り切ることが出来ない不可思議なものがあちこちに満ちていて、そんなほのかなあかりが存続していることには安堵する。

お手製の看板やサイン、手書きの文字やイラスト、飾られた写真などオリジナリティあふれる手ざわりにグッとくる。

道中でも、演歌?それとも歌謡曲だろうか?聴いたことの無いミュージシャン(!)のポスターを発見。。。その後、歩いていくと、その「レイモンド鍵ヤ」さんのお店というか拠点案内が。。。(その中にいきなり入るのは時間もなく、素人として危険と判断し、次回行くことにした。)

「立小」という省略語に唸る。

大山ハッピーロードを歩きながら、お昼ごはんを物色していたが、3人して入ったのは商店街を抜けた先、川越街道に面したお店だった。商店街には数件中華屋さんがあったが、どうもこの日の気分から決め手に欠いていたところ・・・商店街を抜けた場所にあったこのお店は「ベトナム・中華料理」と書いてあり「あそこって、どういう料理なんだろうね?」と3人。またもや不可思議が理由となって、誘われて入店。

入ってみるとベトナム料理・中華料理が両方存在するお店。フォーが食べたいという3人は、フォーと生春巻きのランチセットを頂いた。時はすでに1時半を過ぎていた。ランチタイムを外したおかげで店内は空いていて、丁度良い頃合い。

室内にはエスニックな調度品やらいろいろ。自分は金魚たちが泳ぐ水槽の横に座り、他2人が従って座った。(ほかの人たちはわざわざそんな席を選ばないだろう。)金魚がぽわーんと浮かぶように水の中にたゆたう、その様を見ながらかなりのボリュームのフォーを平らげた。

食事のあと、大山ハッピーロードをもう一度歩き抜け、その商店街を後にした。東武東上線の線路を渡った向こう側はアーケードは無いが、別の商店街「遊座大山商店街」。

昭和25年大山ピース通り商店会として発足して以降、名称は様々な変遷があったよう。板橋区民会館(現・板橋区立文化会館)が出来た頃には「板橋区民館通り商店街」と呼ばれていたという。その通りを歩き、その板橋区立文化会館に差し掛かると戦メリのポスターを発見。つい1枚シャッターを切った。今年の暮れ12月20日に上映予定のキップが販売中。「その姿と音楽よ、永遠なれ。」そんなコピー。教授が亡くなった事を受けて、最近ではすっかりこの映画は教授とボウイのものとなってしまった。

文化会館を通過し、さらに歩いていくと目の前に横切るような高速が見えてくる。遊座大山商店街は、山手通り(中山道)に交わるところで終わる。 さて、これからどこを歩こうか?と3人話す。この大通りの信号を渡って別の場所へと移動した。

(つづく)

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おもひでの街:大山(2024年9月21日)

2024-10-05 18:00:00 | 写真日和

この9月、ひさしぶりに親友MZ師・ハブ噛み師匠と会うことができた。

かつては毎週のように会っては、ひたすら街歩きをしていた仲間たち。1人が結婚してから、今では一年に何度か出会えれば良い感じになってしまった。

でも、せっかく会うのだから、と今まで3人で歩いていない場所を歩きたいと言ったのは私で、大山のハッピーロードで会おうという提案が通った。池袋から出ている東武東上線で3つ目の駅「大山」で降りた。

 

にぎやかな商店街「ハッピーロード」があるのは知っていたが、そこに降り立ったのは50数年目にして初めてだと思う。

しかし、今生(こんじょう)では初めてのはずの場所も、これまた過去いつの時代にか?来たような気がする。それは自分が生まれ育った場所・三ノ輪にある長い商店街「ジョイフル三ノ輪」と同じ匂いを感じるからかもしれない。身長1メートルに満たない幼児の頃からよく徘徊していた商店街の人間臭い空気に親しみを感じる。

知らない街を 歩いてみたい、どこか遠くへ 行きたい。。

自分を含めてある類の人間もそうだが、“失われた数十年”そして、そこに最終ボディーブローのような”コロナ禍“というパンチを喰らい、商店や商店街はたったこの数年でそれまでのあり方を見直したり変化することを要求されてきている。再開発という問題はどこでも付き物だが、この通りも再開発の波が迫っているようだ。少し前にデモの様子を知ったが、歩いてみるとすでに商店街の一部のアーケードは解体・撤去されていた。

商店街は途中でストンと切断され、唐突に長谷工のマークと建設中のビルが登場する。切断されたところにはかつてお店があったのだろうが、数十メートル何もない地区が現れる。ブチ切られたアーケードの端が見え、商店街を歩いていた人たちは建設中のビルと重機の横を通っていく。

商店街はにぎわう場所と閑散とした場所があるものだが、店じまいや移転をした人もいたのだろう。切断されたあたりには既にお店がなくなりつつあった。アーケードの端に幕を巻いた姿は、まるで戦渦で手足を切断され包帯を巻いたありさまのようで痛々しく感じた。

(つづく)

コメント (2)
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