こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年4月30日 水曜日 音楽風景 ~夜の孤島で夕食を~

2014-04-30 22:46:13 | 想い出かたちんば

テレビのコマーシャルが先だったか?FMラジオの洋楽ベスト10で聴いたのが先だったか?
今はもう定かではないが、スーパートランプの「ブレックファスト・イン・アメリカ」は、リアルタイム・同時進行で洋楽勉学途上の耳には、鮮やかな音楽として際立って聴こえた。

1979年のことである。
周囲には、終焉間近のイーグルス、クリストファー・クロス、J.D.サウザー、カーラ・ボノフなど、当時魅惑の世界。それらは自分に向かって、今でも切なくメロウな顔をして・奇妙な色気を放ってくる。
そこには「これはアメリカ、これはイギリス・・・」といった境目は、どうでも良い安息がある。

スーパートランプが、長い事バンドとして作品を出してきたことは、この曲が契機となって知った。
アルバム「ブレックファスト・イン・アメリカ」は、レコードジャケットのデザインがとても秀逸で、印象深いものだった。
海側から見えるニューヨーク・マンハッタンを模した、テーブルの調味料・お皿・フォークやナイフ。

その前で、自由の女神の格好をした、にこやかな太っちょおばさん。
そのおばさんは、ダイナーのような、安価なレストランで働いている制服姿。
〔クール&ザ・ギャングが『いつも行くお店のジョアンナおばさんが大好きなんだ』(ジョアンナ・アイ・ラヴ・ユー)と言う、名曲のくだりを思い出す。〕

タイトルは、明らかに映画『ティファニーで朝食を』のもじりである。
当時、かつて戸籍上の兄弟だった者から譲ってもらったアルバム『モーニング・アイランド』のジャケットで、青空のマンハッタンスカイラインを前に、最高の笑顔を浮かべていた渡辺貞夫さんの姿しかり、自分の空想上憧れのイメージと場所の一つがあり、「ブレックファスト・イン・アメリカ」は、それらと横並びの像を結んでいた。

どうにかして、このLPレコードを手に入れたいと思ったが、一方では、このタイトル曲しか知らないでいた。
そういう中、銀座にあった中古レコード屋「ハンター」に向かった。
ビルの地下にあったそのお店は、くるりとらせん状の階段で、一段一段が鍵盤となっていて、降りるたびに音がした。

そこで、中古レコードの価格の高さもあって、中古ミュージックテープ(カセットテープ版LP)のコーナーに、アルバム「ブレックファスト・イン・アメリカ」を発見した。ちょうど1,000円だった。
そこには、大事なジャケットは無く、カセットテープのインデックスカードも無い状態だったが、何より中身を聴くことを優先して購入した。

帰って聴くと、そこに、牧歌的だったりメランコリックな匂いの強い、味わいがある曲を発見する。そこから次第に入って行って、全部を通して聴けるアルバムとなった。繰り返し聴いても飽きなかった。
B面が始まる1曲目「Take The Long Way Home」は、切ないハーモニカで始まる。家に向かうまでの長い長い・泣きたくなるような帰り道を思わせて、心の中で未だにぐっと来る。

但し、彼らの演奏は、自分がよく囚われるようなジメジメした物悲しさが無く、ぬくもりと優しさにくるまれている。日本で言えばチンドン屋さん一座のように、街を通り過ぎ・去っては行くが、余韻を残すパレードの音楽隊みたいな感じ、とでも言うか。。。

シングルカット曲「ブレックファスト・イン・アメリカ」やジャケットデザインなどに、つい都会的イメージを当初抱いていたのだが、聴いていくうちに、昔テレビで放送されていたアメリカ農村のドラマ「大草原の小さな家」のようなイメージが入り混じった。

■Supertramp 「Breakfast In America」1979■
今夜、がさごそと家の中をめぐり、LPとカセットテープを探していた。
35年後になってから、バンド名であるスーパートランプが”漂流者”という意味であったのを知り、妙に腑に落ちた夜である。

雨はともかく、せっかく咲いたハナミズキが散ってしまうような、風の強い夜。
静かな島に戻ると、雨は小康状態。
南風に揺れる草木のさわさわする音に混じって、露地の家の風鈴が鳴っている。
ボクは、水に浸したお米が、炊き時を迎えるのを待っている。
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2014年4月28日 月曜日 音楽風景 ~TOTOへの追憶~

2014-04-28 23:43:41 | 音楽帳

1979年、洋楽ベスト10にて聴いた「セント・ジョージ&ザ・ドラゴン」や、ウエストコーストの風の中で都会的な匂いを漂わせた名曲「99」で知ったTOTO。
当時、オーディオ機器のCMで、白いセットの中、白い服で「99」を演奏していたTOTOのイメージが、自分には焼き付いている。

そのTOTOが、1981年・次に出した新譜は、白いジャケットに筆を走らせたデザインが印象的だった「ターン・バック」。
このアルバムのファースト・シングルカット「グッドバイ・エリノア」のかっこよさには、進化した新しいTOTOの姿を感じた。
実にロック的ではあったが、中学生にはちょうど良い抑制の利いた曲で、それぞれのセクションが絡み合いながら、曲のグルーヴ感を産み出している様は、当時は官能的だった。

「ハイドラ」「ターン・バック」の二枚でポピュラーな人気を獲得したTOTOは、1982年に「TOTO Ⅳ」を発表する。
そこからのファーストカットは、アルバムA面一曲目に入っている「ロザーナ」。
ここで自分は、そこに予定調和的でヒットを出そうという「あざとさ」を感じ、TOTOへの疑いの目を向け始める。一定の距離を置くようになる。
この後、TOTOは良い曲は何度も何度も聴くが、アルバム全体を通して聴く、ということが無くなった。

しかし、その一方では、毎週土曜日の夜・小林克也さんがDJをしていた「ベストヒットUSA」で、MTVを見て聴いた曲「アフリカ」の優しさに心惹かれてやまなかった。
「アフリカ」も「TOTO Ⅳ」収録曲だが、全くあざとさが無かった。
目立った派手な曲では無かったので、当時は大きな話題にはならなかったが、当時も今も色褪せず、TOTOの中で好きな一曲である。

今夜は、TOTOの日本公演。
今朝、実家に居る83歳のお袋さんと電話で話すと、先日のディープ・パープルに続いて「今夜は、TOTOのライヴに行くんだよ。」と嬉しそうに話していた。
「それはそれは、楽しみだね。楽しんで来てくださいな。」
さてさて、今夜はどんなライヴだったやら。。。

■TOTO 「アフリカ」1982■






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2014年4月24日 木曜日 音楽風景 ~あなたがここにいてほしい~

2014-04-24 22:46:51 | 音楽帳

二十・三十代の必死な頃にお世話になった先達に旅立たれる。
それに出会って、戸惑うことが多い近時。
今日は、ずいぶんと仕事上お世話になった方の通夜だった。しばらくお逢いする機会を失った中に、突然舞い込んだ。
まだ、59歳だった。5月の還暦まであと十数日という若さ。
落胆した。参り、打ちのめされた。

脳裡に、幼少の頃の、独り寝の部屋のシーンが浮かんだ。
ベッドの暗がりで眠れずに天を見上げる。窓のすりガラスには、外に育った植木の枝が風に揺らいでキーキー言う音、それに街灯のほの明かり。
近くて遠い南千住の引き込み線を動く列車の音が、時折こだまする。

泣いていた記憶。
自分は、死に向かって生きているんだな、というペシミスティックな心境は、この頃から自分の中に宿っていた。
また、自分と好きな母親の年齢差を憂い、先に旅立たれてしまうのか、という絶望が、夜の暗がりの脳でメリーゴーランド(走馬灯)のようなスパイラルを描いていた。

***

先般、どうしても読みたい本があると言った。
それを神保町の三省堂本店まで求めに行ったところ、絶版らしく手に入れられなかったものの、それが無かったら、あの日、城戸真亜子さんに逢って話すことなどは出来なかった。
偶然の成すワザの不思議な因縁を感じる。

59歳の兄的存在の方が亡くなったのは、この日曜日が月曜日に変わったあたりの午前0時だったという。
自分がそれを知るには、それよりも後のことであった。

どうしても読みたい本は、やむなくアマゾンで購入した。
昨夜着いて、まだ読み始めたところだが、その本は「この世とあの世の風通し」というタイトル。
個人の周囲に起きる事象というのは、必ずその人の持つ引力、因果律によって渦を巻いている。
そう、今では想う。
自分がフロイトではなく・弟子であったユングのほうに興味を抱いたことだったり、ハタチでやっと出会った三島由紀夫の「花ざかりの森」「仮面の告白」そして(個人的な想いとしての)「太陽と鉄」だったり。

今におけるインターネットとは、人の悪の巣窟となった感があるが、元々は、本当に知り得ない事柄を知ることが出来る契機だった。
その場で、先日初めて知った精神科医の加藤清さんという存在。

加藤さんを語る人のブログの文才も手伝って、どうしても読まねばならないと思っていた。
そのタイトルが「この世とあの世の風通し」だったことには、単なる偶然の一致ではない、ココロの水面下のつながりを感じる。
河合隼雄さんの存在は、十代の終末から二度目の人生までの発狂時点で、CUEを求めてたどり着けた出会いだったが、河合さんと共に極めて重要な人としての加藤清さんを知ることは、今まで無かった。

まだ読み始めた浅いページだが、下記の言葉を発見した。
「時間は必ずしも、過去から現在に流れるだけでなく、未来から現在に流れてくる時間もある。
そういう時間の動き方を感じています。
結局、生まれたときの記憶でありながら、すでにその中に胚芽、芽としての未来からの時間を同時的に受け取っている。。。」

昨日、仕事をしながら、窓から下を見ると陽光の中、白いハナミズキの花が揺れている午後。
掛けっぱなしのインターFMから音楽が、何気なく流れる。

その流れの中で、とある曲が流れた。
久しぶりに聴く、リサ・ローブの「ステイ」。
空気の中に溶けていくこの曲を愛しながら、いつも、この曲を聴くのは、唐突にラジオから流れ出した瞬間のシーンとの一体。
CDショップでたびたび彼女のCDを見つめながら、買うことなく来てしまった。
触れてしまうと壊れてしまうから、語らずにいたかった。

■リサ・ローブ 「ステイ」1994■
この曲が一番似合うのは、日々を過ごしているさなか、何気なくFMから聴こえてくるシーンと思う。
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2014年4月22日 火曜日 音楽風景 ~遥かなる大地へ~

2014-04-23 00:18:53 | 音楽帳

80年代初頭、さまざまな新しい息吹としてのニューウェイヴ音楽が産まれる中、当時中高学生のめくる雑誌「ミュージック・マガジン」で、よく書かれていたセリフ・常套句。
「デヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージックの安っぽい二番煎じに過ぎない。」

こういった言い回しをしては、新しい音楽に泥を塗って、突き落とし、一蹴する。
当然、当時の自分は良い気分はしなかった。

「それで片付けてもらって結構。」
しかし、当時も今も変わらずに確信を持って言えるのは、「それでも、ボクらを引きつけるに十二分な魅力を持った、新しい音楽である」事実。

***

決して歳を取っての「ナツメロ」なんかではない、ということ。
『あの頃は良かったなあ、ガハハ』ときたない酒の呑み方をする、きたないオヤジと一緒にされては困る。

そんな中の1つのバンドに、ヴォーカルのアイヴァ・デイヴィスを中心とした、オーストラリアのユニット「アイスハウス」がある。
1981年・高校受験前の冬の夜、NHK-FM・深夜11時からの「クロスオーバーイレブン」で、エアチェックしながら初めて聴いた曲(バンド名と同じ)「アイスハウス」。
その後、1982年のセカンドアルバムよりの「グレイト・サザン・ランド」「グラム」も、心に響いた曲だった。

夜の静寂を愛し、その気配の中、密着型ヘッドフォンで鳴る微細な音感に、自分の耳は過度な反応を示していた。
彼らは、静寂が何たるか?
我々との夜の密会の意味合いを語らずとも理解し、共有化している、という確信。

そんな夜闇世界の無限宇宙の中に居て、彼らと逢っていた。
それは、シンプルマインズ、トーク・トーク等々・・・含め、多くの同志との出会いの時間だった。

心地良い音だからといって、そこに形式的模倣以上のものは無い、と拙速に断言し続けた、当時の「音楽評論家」さんの耳の悪さとアホさは、無視したい。

***

先日、ついに終わりをむかえようとしていることが分かった、パソコン「VAIO」。
とりあえず起動し、ネットも繋がるが、いつパタッと逝くかもしれない。
何か外部データを繋いでも動かなくなるので、データは何も残さず。

そのおかげで、買ったは良いが、どっぷりと聴けずじまいだったCDたちを毎晩聞いている日々。
昨夜、そして、今夜。
と、このアイスハウスの2枚のCDを繰り返し聴いていた。

左はアイスハウスのベスト盤。
右は、1987年に発表された「マン・オブ・カラーズ」。

焼酎の薄いお湯割りをチビチビ呑み、愚にもつかない切り貼りをミニノートにしながら。常習的になった頭痛とともに。

***

確かにボウイやロキシーの影響無くして彼らも存在はしなかったのだろうが、それは幸宏しかり、当時不可避なもの。
誰も影響受けずに、音楽なんか創ることには向かわないのだし、パクリじゃあ無いのだから。

アイヴァ・デイヴィスの良い声のイントネーション、切ないオーボエ、打楽器類、シンセサイザーの音色(おんしょく)、メロディアスな旋律は、「二番煎じ」とは異なる。
清らかな滑らかさに酔う夜のひととき。

「グレイト・サザン・ランド」は、アイヴァ・デイヴィスが愛する・生地オーストラリアの大地を歌った曲である。
高橋幸宏とのコラボレーションしかり、彼の中にある、穏やかだけれども燃えるような内なる想いが、歌う声と音を通して伝わってくる。


■アイスハウス 「グレイト・サザン・ランド」(偉大なる南の大地)1982■

【スクラップノート 制作途中】
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2014年4月20日 日曜日 くらしの風景 ~Happiness Is Happening~城戸真亜子さんの残像

2014-04-20 23:48:37 | スケッチブック

妄念が涌いて仕方がないとき、つまり、涌いてもココチ良くはないときのことだが、見える風景を変えてみる。
要は、外に出てみる。
歩いても脳は働くのであるから。

そうすると、それまでの妄念が角度を変えてくる瞬間がある。
どーにもならないときは、それでも、どーにもならないのであるが。

自分にはインパクトの無い処世術本によくある、「掃除をする」「スポーツをする」などの「典型的なストレス解消術」に効用を見い出したことはない。
エネルギーのある人には効用があるかもしれないけれども。
あまりたいした参考にはならない。

よく森田正馬先生の森田療法に「あるがまま」という字ずらが出てくる。
しかし、いくら言葉を念仏百回読んでも、何もその境地には至れない。
悟るというのは、まったくもって、そういうことではない。

***

妄念とは言ったが、妄想でもよいが、イコール悪いものと捉える方がいらっしゃるが、それは質による。
上記の妄念・妄想を、イマジネーションと言い換えると、人びとは容易に納得する。
しかし、そういう世間体で言われる常識と非常識(とは安易な言い方だが、分かりやすくするために、あえてそう言うと)の「はざま」の「なにがしか」にこそ、人間であるからの魂の源がある。
そこにヒントがある。

街を放浪していると、視えるものと視えないものの境目に、裂け目(キャズム)が視えはじめる瞬間がある。
そのことだけは、自分は幼少時代から分かっている。

***

今日の空は、いつ雨が降り出してもおかしくないくらいの曇天。
室内に居て、過去のみうらさん&安斎さんのラジオを聞いていたが、それでも悪しき方の妄念ばかりが涌いて止まらない。
「昨日も寒かったしなあっ。。。」とは思えど、ここにとどまること自体が、余計に心身に悪い、と決断する。

お風呂に入って、勢い付けて外に出れば、公園にはかわいいスズメたちのさえずり・タンポポや八重桜やケシが咲き乱れている。
うららかな公園に佇むネコのケンちゃん・キジトラちゃん2号・クロちゃんに、カリカリを与える。





「そうだ、三省堂に行こう」と思い立つ。
最近気になって、どうしても手に入れて読んでみたい本を買いに。
電車にゴトゴト揺られて、久しぶりの神保町。

東京の街は常に変化する。それは、この神保町も同様。
あれほどもったいぶって、室内をうろうろしていたのに、三十余年慣れ親しんだ街で降りれば、カメラのシャッターを切りつつ、ウラ通りに・オモテ通りに・・・とあっちこっちと、直感のみで街を迷走する。
他者にはどーでも良い、自らの魂が起動する。









駅を降りても、こんな具合の自分は、いつも目的地になかなか着かない。
やっと三省堂本店に着いたのは、夕暮れ間近。
サービスカウンターのおねえさんにも聞いてみるが、自分が求めていた本は、系列店舗にはなく、絶版の可能性が濃いという。

少しガッカリして、すずらん通りの方の出口を出る。
少し来ない間に、移ろいゆく街の細かい部分を見やる。
まん前は、文房具の名前発祥地である文房堂。

「ちょっと立ち寄ってみますか。。。」と入ろうとすると、入り口に城戸真亜子さんの新作展示をギャラリーでしていることを知る。
即、4階のギャラリーに向かう。

久しぶりに見る城戸さんの油絵。
描く線のニュアンスは、まさに昔と同じ城戸さんの線。
水を描いた大きなキャンバスの絵画が圧倒的に眼を引く。素敵だ。
大学時代に、デヴィッド・ホックニーに影響を受けて、水の絵を描いていた時期があったが、ホックニーのポップさには無いリアリティ。

城戸さんの線は、最近のラッセル・ミルズと極めて似ていると思えた。

それともう1つのシリーズは、森と川の対比の静寂が占める絵画世界。
それは、カベに描かれた城戸さんの言葉に、自分の中で繋がった。
3・11以降の福島と時間の流れについての散文。
決して単なる同調ではない、本人だけの言葉。

***

最近、どこでも外では会話を求める自分は、ギャラリーの男の方に声を掛けてみた。
「20年経っても、城戸さんの線は変わらないですね。良い意味でですが。」
すると、男の方が眼で合図した。
スタッフが入る場所でうつむいてノートに向かっていた事務の方が出てくる。
「むむっ、なんだ、なんだ?」

すると出て来られた女性は、事務のヒトでは無くて、城戸真亜子さんご本人だった。
驚くと共に、気が動転し、顔が紅潮した。
この場には、3人しかいない。

いつの間にか自分は、ハタチ頃の青年に戻っていた。
自分「城戸さんの絵は、喫茶店・古瀬戸の壁画を描くのに苦労されていた頃も通ったし、何とかの自画像(ええい、思い出せない)という本も大事に持っています。絵画展にも行きました。」
城戸さん「『描きかけの自画像』ですね。」
自分「ああ、そう、それです。」
城戸さん「最近も、少しづつですが、絵は描いているんですよ。」

20数年に及ぶ想いは、なかなかクチではなめらかに出てこなかった。
それでも格闘しながら、約20分くらい、目の前でお話しをすることが出来た。
さらには「生意気ですが、もしよろしければ、絵の横で写真を撮らせてもらえないでしょうか?」という希望にも応えてもらい、写真を撮った。
52歳とは思えない、未だ美しい姿だった。

あとづさりをするようにエレベーターに乗る自分に、城戸さんは「毎年、ココで個展開いているから、また来てくださいね。」と言う。自分は深々とアタマを下げて、ドアが閉まった。

二年の浪人で追い詰められ・居場所無くして狂気に至り、一度死んだ頃。悶々としながらこの神保町の人並みに揺れていたハタチ前後の自分。
その二十数年前の青年の自分が、体内で喜んでいた。
「なんで結婚しちゃったんですか、好きだったんですよ」と、つい恋していた青年の自分が言いかけた。全くヤボなことだ。

外に出て呆然と白痴のように、熱にうなされて歩く。
雨がぽつぽつと落ちてきた。





城戸真亜子さんの新作展「静寂の叫び」は、文房堂ギャラリーで4月26日(土曜日)まで見られます。










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2014年4月18日 金曜日 くらしの風景 ~Round About Midnight~

2014-04-19 00:41:34 | 雑記帳

「過去あった日々の躁鬱の波とはもう無縁」と、ツッパリ・いきがってきたが、その言い方は真実ではなく、やはり「小波」はあるものだ。
「大きなヤマを越え・谷を越え、ということは少なくなった」だけのことだが、
それ自体が有り難いことであり・幸福かもしれない、と思えることが、最近・時々ある。
そんな最近は、良い波間のバランスにあるのかもしれない。

昨日・今日有った出来事。
些細だけれども、一握りの大事な幸福。

***

仕事にも、社会的に所属する企業にも、なんら価値を見いだしていなかった2013年が3月末に終わった。
されども、日本政府が政策決定した消費税率引き上げに伴う「駆け込み需要」は、自分の仕事への影響度はとても強く、混乱を超えてパニック状況のまま、3月末では終わらなかった。
今も尾の引きずったことへの終戦処理は続いている。

思えば、2013年10月1日、安倍首相の消費税率引き上げ発表する画面をリアルタイムで見たのは、兄と一緒に、入院する大事なお袋さんの横に座っていたシーンの中だった。
あれから半年が経った。

何とかミクスとやらで景気が良くなった、と一部で言われていることに自分は真っ赤なウソと違和感を抱きながら、日々働いてきて、挙げ句は3月物流網混乱も含めたパンク状態に多くの人と共に巻き込まれた。

状況的には良くはない。
はずだった。

***

4月に入り、世間様同様、人事異動のヤマと、新人社会人のヤマが作り出す、カオティックで不快な空気のなか、目をそらして、花とネコと下町の街並みばかりを見つめるようにしてきた。
それは、ひねくれた自分の性格だったり、他人への嫉妬・怨念が作り出した妄念から見える視界によるもの。

自分は所属する「企業」にも「制度」「体制」にも不満を表明し、ひたすら背中を向けていた。
無二の友MZさんに言わせれば「世の中は不条理のヤマだから、正義などはない」。
「まあ、四十代になってまで、そんな子供だましのヤボな希望などは抱いていないよ。」と、いつも返す。

しかし。。。
かつて、公私共に苦楽を共にした、先輩お二人が三回目の上司となって戻って来た。
モノの見方・観点の豊富さを教えてもらったり、「これ読むとイイよ」と「本当のこと」が書いてある書籍を教えてもらったり。。。
今、出来損ないの自分でも、生きていけるすべを教えてくれた2人。

***

「何よりも、自分と家族のことが優先。仕事は三番目じゃないとダメだよ。」
先週、久々に外で、片方のKさんとビールを呑んだ。
シャイで優しいけれども・芯が通った、大好きなKさん。

話しながら、そう言われて何だか心がとても安堵した。
「そうなんだ。この人は、自分にとってのセラピストなんだな。」と気付いた。
フレームを描いて、自分の立ち位置を認識させてくれる人。

自分なんか必要とされてはいない、と思ってきたし、たいていの他者はいい加減なことやおべんちゃらしか言わない「平気でウソをつく人」。
そう思ってきたけれども、「(公私共に、キミがココに)居てくれることは有り難いですよ。」と言われて、意外だったりもして困惑した。
最近、こういうことを言ってくれるヒトが居て、単純に「生きていて良かったな」という瞬間が多くあった。

***

「不夜城」と揶揄され馬鹿にされる、自分の所属するセクション。
プロレスラーでもあるまいし、仕事を体力勝負としてしまったら、そこには絶望しか無い。
しかし、それは長たる人によってガラリと姿を変える。

昨年、あそこはブラック企業だのホワイト企業だの・・・相変わらず乱暴な物言いをするヤカラが居たが、黒も白もない。
あるのはそれぞれの「在り方」であって、そこには人同志の運命だったり・偶然だったりするものが作用している方が濃厚と、私は考えている。

しかし、一方では、システムとITにだけ振り回されて、あやつり人形となって、ひたすら巻き込まれていくのなら、ボクらは生きている価値をそこに見いだすことは出来ない。。
ただ馬車馬のように走らされて死んでいくのは、ゴメンである。そこは確かにそう思う。

ただ、だからこそ、そこに人がいて・人の智慧というものがあるのだ。
と、今夜の私は考える。

***

手塚治虫の「鉄腕アトム」に憧れたみうらじゅんさんらの世代、そして、YMO・クラフトワーク・プラスチックスetcの描いた、ピコピコするテクノポップに、空が広く・未来が見えた少年時代を過ごした自分らの世代。
そんな未来は、既に来てしまい、そして、通り越した。未来と言われた場所が、実は地獄だった、という明らかな事実に気付いてしまった現代。

そんな中、先輩お二人が体力でも拘束時間でもなく、らくーに穏やかに状況を見ながら、全体を微調整しつつ、上手にマッピングして・組織を「死」から「生」とするために整えていくさまを久々に見て、目の覚める思いがした。

***

肝臓を壊して以来、この4年近く、心身ともに傷んでいたのもあり、外で呑むことを避け、形式的な会合にも一切出席しなかった自分。
そんな自分が久々に、昨日のささやかな歓迎会には自らの意志で参加し、よく呑み、よく語り、夜明けまでを過ごした。
倒れるように眠り、二日酔いのまま、一日を仕事場で過ごした。

他者たちとフリーな関係のなかで手を結びたい、という想いは果たされないと思っていた。
不思議な和・輪は、いくら「絆」というウソのプロパガンダを強要しても、それぞれの中からは産まれない。
それが今、自分の内発的な奥底から「ここ」に湧き上がってきている。

ありえなかった心情が産まれている自分。
そういう空気を「体力・気力」ではなく作り出す能力のある人。そんな人とまた過ごしながら、いろんな話をしたいと思っている。

PS:実は、そうは思っても、いろいろある。
毎年恒例のことだが、年度がわりのこの時期は、とんでもない過密スケジュールの中、予算分解やら、会議やら、その資料作りやら・・・。
このゴールデンウィークも悪魔の季節として、恐れをなす日々だが。

二日酔いでフラフラしたグロッキー状態のまま、早く横になって眠りたい限界の22時を超えて、時間とガソリン切れ。
昔と同じように、Kさんと傘をさして、お話しをしながら、2人並んで駅までの寒い夜の道を歩く。
お互い、この数年でずいぶんと白髪が増えたな、と思う。(私は頭の毛は無いが、ヒゲに白髪が進出激しくなりました。)
思えば、先輩2人は、兄とほぼ同い年。私は実兄とは違う、幻の兄の像を2人の背中に感じているのかもしれない、と思った。

すべてが良いことなんかは無いけれども、何らかのきっかけで、このブログという交差点で出会う、視えない仲間の方々の身にも、少しだけでも幸福だったり、安堵があることを祈ってやまない夜。
人生、悪いことばかりじゃない。
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2014年4月16日 水曜日 くらしの風景 ~月光の夜~

2014-04-16 22:39:22 | 雑記帳

タマシイはア然としたまま、目の前をさまざまモノが、高速で通り過ぎていく。
時間も、季節も。
その間合いを計測しながら、日々は容易にたやすく過ぎてしまう。
その哀しみ。

ブログなんざ誰でも、リミックス構成できる。。。などと、すくったはずの砂が指の間から落ちていく感覚を覚える。
しかし、それで、更新機会が少なくなった訳ではない。

目の前を高速で通り過ぎる事象は、いっときのたぶらかしに過ぎない、と思いつつ、場末の温泉場でピンポンのような「ついったー」的即時反応はよろしくない、という想いは、結果的に沈黙せざるを得ないところに向かう。

***

昨日の深夜、まんまるのお月様が浮かぶ中、びっこを引きずり帰る。
そんな折、長い付き合いのパソコン「マイVAIOちゃん」を付けると、起動しなくなった。
さまざまな手をほどこし、やっと起動を取り戻した。

しばらくおろそかにしていたソフトなどのアップデートをした。
しかしどうやら、これが引き金になってしまい、外付けハードディスクが反応しなくなった。
やむなく仕事用アイパッドで解決策を調べるが、結論に至らず。

もともとが深夜帰った中の作業。
闇の中に消えて視えなくなったデータが、まるで空中に解けてしまった感覚に呆然とする。

自分の備えの不足に若干嘆きながら、写真家・荒木経惟(のぶよし)さんが言う言葉を思い出した。
「デジタル写真なんてえのは、デリートキー押したら瞬時に消せるのが、イイとこなんじゃない?それ以上の価値は無いね。」

敬意を抱く藤原新也さんも森山大道さんも、時代の変遷の中で、デジカメを受け入れ、画像加工やトリミングなども作品表現の一部として取り入れてきた。
そんな中でも、荒木さんはフィルム撮影とプリントにこだわり続けてきた。
荒木さんの言葉は皮肉ではなく、もっとカラッとしたもので、悪意は一切無いのだと思う。
だが、その言葉が妙にリアリティを持った夜だった。

***

パソコンを夜に閉じたのは、いつ以来か?
今まで、CDからパソコンにmp3で落として聴いていた所から、CDプレイヤーで音楽を聴く。
周囲に積み上げられた本をめくり、文字の連なりをじいっと眺めながら、脳をめぐらせる。

【細野さん 「メディスン・コンピレーション」】
ラジオを付ければ、一番電波の強く・聴こえやすいNHKの「ラジオ深夜便」を枕元で聴く。

疲れ過ぎているせいか、明かりは消しても眠りに堕ちず。
明け方4時を過ぎた頃でやっと記憶が途切れた。
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2014年4月13日 日曜日 くらしの風景 ~忙殺を離れ、島を回遊し・佇むヤドカリ~

2014-04-13 20:26:54 | 雑記帳

日々、自分(=一個人)をケムに巻こうという社会事象が、幾多も起きて、不明瞭な視界であるのは、何も今始まったことではない。
過去も今もようくめくる寺山修司さんの薄いボロボロになった文庫「ポケットに名言を」をめくれば、エンピツのアンダーラインの下に思いはせる言葉。
『人生は夢にして、その外形は・・・』

かつて働いていたエネルギーはもはや枯渇し、土日はよほどで無いと働かない。
催眠世界を離れて、正気に戻るために、社会という汚泥を振り払うために。
12日 土曜日

昨日は、偏ってしまった体内かたちんばを補正すべく、鳩の街にある足裏マッサージに向かう。
ぶらぶら島めぐりをしながら。

しかし、施術を受ければ、歩けないほどまで悶絶す。
あれ程叫んで痛みを覚えたのは、久しく無かった。

東洋医学を唱える先生と話しながら、如何に西洋医学が薬なる麻薬をばらまきながら、多くの命を公的に殺してきたかを話した。
薬で肝臓を壊し、今に至る経緯を語りながら。

とは言え、歩いて帰る夜道も難儀した。
痛みから汗だくになり苦しんだせいで、早々に眠りに堕ちた。

13日 日曜日
このところ室内に居ると気分は堕ちていく一方なので、何はともあれ外に出る。



ぶらり歩き、写真を撮り、公園で佇む
花やぐ中で、ネコと出会いカリカリを上げる
足裏マッサージで、ロクに歩けず、びっこを引きずりながら

ローギア以下の自足で歩くと、普段見えないものが見えはじめる。
段差のある道の苦しさ、手すりの有り難さ、など。

独りで出来ることは限られる。
よく喫茶店で勉強、執筆、アタマの整理をする人は多い。
場を変えないと、見えないことの多さ。

びっこを引きずり、公園のイスに座って、空気を味わう。
文章をメモし、イヤホンを付けてラジオを聞く。
鳩たちは、地面をついばむ。
となりのお年寄りの会話、公園にたわむれる家族の姿。
空、雲、樹々、花。
外に居ると、悪夢の妄想は吹っ飛ぶ。



■ジャパン 「スティル・ライフ・イン・モービル・ホームズ」1981(オリジナル・ラストアルバム「ブリキの太鼓」より)■
ときおり、部屋を歩き回る
ときおり、ひどくさみしくなる

この異国の地を離れたい
ボクは、何も知らなかったんだ

いつでも泊まるところはあったよ
「移動出来る家」で、計画をたてよう

波に揺られて、ゆっくり進む小舟
はるか沖合いに浮かんでいる

この国のくらしがどんなものか?
ボクは、いままで知らなかったんだ

建物や家を建てる計画をたてよう、「移動出来る家」で

計画された人生、ボクの人生
「移動出来る家」で送る、静かなくらし

野生の生活のたてる音が、あたたかく乾いた空気を満たす
南国の熱にあぶられて、ねじれて燃え上がれ
裸火のように

ボクたちが海に乗り出そうとすると、天から叫びが響いてくる
それは昔慣れ親しんだ、祖国からの呼び声

キミが泊まるところを探してあげるよ
「移動出来る家」で計画をたてよう



詞 : デヴィッド・シルヴィアン
曲 : ジャパン
プロデュース :スティーヴ・ナーイ&ジャパン
エンジニア : スティーヴ・ナーイ
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2014年4月7日 月曜日 音楽風景 ~今は亡き・幻想としての中国~

2014-04-07 23:41:50 | 音楽帳

現2014年、国家(政府)としては、どーしようもないという事実があきらかになってしまった中国。
その巨大な国土と人民の数は、地球に及ぼす悪影響の度合いとして、アメリカと双璧をなす脅威となり、事態の深刻度は増している。
(今「巨大な」と言ったが、いったいどこまでは国土であり、どれだけを人民とするのかも、極めて不明瞭)

実際に、自分が初めてその国の土を踏んで・空気を吸ったのは1999年頃だったが、現実の恐ろしさを肉眼で確認した。
「もう二度と、この地の土を自分の意志で踏むことは無いであろう。」
と思った。

この時点では、とうの昔に夢から醒めており、粛清という名義の元に、数千万人以上の虐殺をしてきたことを知っていた。

***

しかし、遠く思い返せば、アメリカ同様、中国に対しても、子供・学生時代には、異国への幻想を抱いていた。

1972年(昭和47年)初めてジャイアントパンダが上野動物園にやってきて、日本国内大騒ぎになった。
そのとき、寿司詰めの中、母親とパンダを見に行った。
初めて見る不可思議な動物。

その頃、パンダのイラストをデザインした水彩絵の具セットを買ってもらって、それを使っていた記憶がある。
その絵の具セットの「あか(赤)」は、それまで塗っていた、チューリップのような赤ではなく、まさに中華人民共和国の旗の色である「深紅(しんく)」という黄味ががった、まるで血のような紅(べに)色をしていた。

***

その次の、自分の中での「中国への幻想」と言えば、ついつい浮かぶのは、80年代初頭、中国を用いたCM戦略である。
サントリーが出したウーロン茶のCM。まだ当時、ウーロン茶がお茶として無名だった頃。
こんもりした山の合い間を縫って流れる川、うっすらガスった風景。そこを上手に小舟をあやつり・流れていく三角帽子の船頭さん。
場所は桂林。
このCMの音楽は、清水靖晃が担当していた。

或いは、その後(というかテクノ頂点の段階だが)即席ラーメンの中でも、中国色を強調した「中華三昧」のCM。
言わずもがな、このCMのバックは、坂本龍一作曲。そして、それは1982年の幸宏作品「フラッシュバック」という形となって現れる。

70年代から80年代に掛けて、YMOは、日本人なのに人民服を着て演奏し、わざと誤解をさせるように、ナゾのアジア人を演じてみせた。

YMO(イエロー・マジック・オーケストラ/黄色魔術楽団)の極めて重要な戦略でありながらも、彼らがそれまでのミュージシャンにはない斬新さを持っていた点。
それは、『ただ演奏するだけのミュージシャン/バンド』のみで終わらない「見せ方」「見られ方」を含めた、自分らの『在り方』へのスタンスの取り方だった。
それも、広告代理店なるものが、ハバを利かせる前夜。
その絶妙さは、彼らに刺激されて集まってきた・多くの優れたスタッフを伴いつつ、1983年末の散会まで、見事な芝居を演じてみせた。
濃厚なる5年の大活劇。

【80年代当時、雑誌から切り抜いて取ってあるチラシ・ファイルからの数枚】
ヨーロッパのミュージシャンの東洋アジア幻想は、この時期のYMOをはじめとした日本の音楽に大きな影響を受けていた。
だが、かれらにとっては、日本も中国も朝鮮もどれもが一緒くたのイメージであり、違いなど分からない。
それらユーロピアンにもたらしたアジアン・オリエンタリズムに対する魅力と興味は、奇妙な想像上のどの国でもない「アジア的音楽」を産み、日本のテクノとの相互影響をさせながら、独自の世界観に発展・結実していった。

■イエロー・マジック・オーケストラ 「TONG POO(東風)」1978■
PS:ぜんぜん関係ないのだけれど、即席ラーメン「中華三昧」が大好物だった。
即席ラーメンとしては、高級品であったが、さすがそれだけあって、おいしく、キャベツ・にんにくを油コテコテで炒めたものを乗せては、ようく食べた。
思えば、1985・1986年あたりまで、しょっちゅう作っていた記憶がある。
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2014年4月5日 土曜日 くらしの風景 ~ネコをめぐる糸~

2014-04-05 20:43:24 | 写真日和

今日も、これといった荷物も持たず、カメラと七つ道具だけを持って、ぶらぶらぐるり、島を一周する。







帰り道。
いつもの公園に住まうネコさんたちに、と逢いに行く。
布バッグにひそませたカリカリを上げて、集まる5人に目配せをしていた。

すると、ツエを突いた優しそうなおばあちゃん、そのご近所のEさんに声を掛けられる。
そこから、ネコ談義が、桜の下で始まった。
そうしているうちに、毎日エサを東あずまから電車に乗って来られる、というネコたちのお母さん=Aさんに会ってあいさつをすることに。

***

実は、2人交代で365日、この公園にエサを持って来ている、ということを、もう1人の方から聞いていた。
いつか、この公園にカリカリを上げに行った際の先客が、もう1人のBさんだった。
そこから話しが始まって、それ以来、島めぐりをしながらシャッターを切るなか、Bさんには何度も出会っていた。

3月に、島のある場所で写真を撮っているとき、Bさんとばったり何度目かの偶然があり、この日は、その後、Bさんと話しながら、しばし同行したのだ。
歩くたびに、Bさんの通る時間を知っているネコたちは、カドっこ・カドっこで現れる。
Bさんが「チィちゃん、元気だった?」などと声を掛ける。
「この子はねえ。。。」と、それぞれの子の素性を話してくれた。
そのときの写真は、実はすでに掲載してある。

***

陽が沈んでいき、夜桜と三日月が輝いていく公園で、おばあちゃん・Eさん・Aさんと4人で話す。
Eさんは、家に4人ネコがいるが、外ネコがさらに4人居て、つかまえられない4人の去勢・避妊に困っている。
そこで、相談役として、Aさんがいろんなことを教えてくれる。

Aさんは(悲しいかな)マンション周囲でネコが増えてクレームをつけて来るもめごとを解決すべく、墨田区に申請をして、一定の補助金をもらって、自費で活動している。
「去勢・避妊の手立てをするので、今居る子を許してください」とカラダを張って、この墨田区の地域を歩いている。
ひどい無慈悲のマンション住民の場合は、そのマンションの近くでネコが殺されていることにも出会ったという。

いくつかのグループが、それぞれの地域で活動していることを、AさんからEさんは聞き、連絡先や、動物病院などを教授してもらっていた。

【ケンちゃんは、数百メートル先に住んでいたが、そこを追いやられてこの公園にたどり着いた、という】
こうして、だんだんとネコを媒介にしながら、知り合いが増え、ネットワークが枝葉を伸ばしていく。
今日は、約1時間程度の談義で散会した。
向かいやとなりの平成馬鹿家族には、あいさつ以外しないのに。

この場所に移って、良かったと思うことが多い。
暮らして6年程度の新参者だが、きれいな手入れされた花を撮影しても、このような怪しい男にさえ「撮ってくれてありがとう」と言われ、花をめぐってお話しが始まった経験といい、こういったことに遭遇する。
メディアが「プレゼン命」で捏造した「エセ下町」にはない、無理のない言い回しをさらりと言ってのけることに、昔から住まう市井の人々のふところの深さを感じる。

さすがは、関東大震災、B-29の投下する爆撃・東京大空襲をのがれて生き残ったラビリンス。
それは、スカイツリーや2020オリンピックなる、政府&利権集団主導侵攻による第三の東京破壊計画を前にした風前のともしびだが、今この時空で共に生きるには、十二分な展開である。

【キジトラちゃん2号は、幼い頃から片目が悪かったという】

■高橋幸宏 「Good Time」1983■
アルバム「Tomorrow’s Just Another Day/薔薇色の明日」より

作詞:高橋幸宏&ピーター・バラカン
作曲:高橋幸宏




コメント (1)
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