こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2012年5月30日 水曜日 フリーフォーム.オーディオツーリズム「ヴェトナム&チャイナ」'02

2012-05-30 22:55:02 | 音楽帳


ある日、いつもの如く御茶ノ水~神保町をぶらぶらしていた。
JANISの外に並んだ中古CDを漁った。

その中に、不可思議なCDを発見して買った。
視聴で聴いた1曲目のアンエンスな空気が気に入って。
ウルリッヒ・シュナウスとの邂逅に、テクノの復興を感じた後のこと。

***



「Vietnam & China」という2枚組CD。
買った後に分かったが、1枚は、アジアを中心とした各国でフィールド・レコーディングの野外の音。
もう1枚が、それを音源として、マックでエレクトロニカ・アンビエントな曲として構成したものだった。



音から、遠い国の生活や暮らしのさまを想像するのも楽しい。
ピーター・キューザックなどのCDも、ここに並ぶものだろう。

何気の無い生活やナマの音。
そこに潜んだ世界。

***



マックで構成された曲で、一番美しいと思ったのが、1曲目のJan Jelinekの「Traffic Echoes」だった。
YOUTUBEを検索したが、この曲は無かったが、ぜひ興味のある方はCDを購入して聴いて欲しい。

■Freeform・Audiotourism ~ Vietnam and China ~(Quatermass Records 2001)■
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012年5月29日 火曜日 Winston Tong 「Broken English」'84

2012-05-29 22:31:05 | 音楽帳
最初、タキシードムーンを聴いた80年代初頭、自分はヨーロッパのバンドと勘違いしていた。
とてつもなく退廃的な暗いムードの中には、そうに違いないと思わせる力があった。
サンフランシスコで結成されたバンドと知ったのは、ごくごく最近のことである。
まあ、どこの出身だろうが、良い音楽であれば、それで良いことなのだが。

このタキシードムーンの音の彩(いろどり)の中で、特に覆いかぶさる暗雲を作り出しているのが、ブレイン・L・レニンガーの奏でるヴァイオリン。
クレプスキュール・レーベルにスポットが当たった1983年には、ブレイン・L・レニンガーのソロ「ナイト・エア」を聴いた。
スティーヴン・ブラウンは、ベンジャミン・ルーと共に創った映像のサウンドトラックのインストゥルメンタルが素晴らしかった。
一方、ウィンストン・トンは、(たぶん)1984年と思うが、ミカド、ドゥルティ・コラム(ヴィニ・ライリー)と共に来日したような記憶。

***

この時代は、「西武」王国のとてつもない隆盛と躍進。
こないだ自己破産したWAVEも、今では分かれた無印良品も、(単なる旧態依然の殿様百貨店形態に風穴を開け)「陳腐化した」市場へ新しいスタイルを提示する、西武の果敢な挑戦の一端だった。
80年代前半、全く国内紹介されない海外ミュージシャンやアーティストを招へいし、新しい文化の潮流を創り出した企業、それが西武グループだった。

***

ウィンストン・トンを初めて聴いたのは、このころで、エアチェックした12インチ・シングルの「セオレティカル・チャイナ」だった。

太い声の激情型ヴォーカルだったが、曲自体非常につまらなく感じて、それ以上の詮索はしなかった。
ただ、日系の血が混じっていて、ポートレイトの写真を見て納得した記憶がある。
タキシードムーン、そしてそれぞれの存在とソロ。。。これらが自分の中で焦点を結ばず、無国籍な漂う人々という感を強めた。

【元キャロルの永ちゃんではありませぬ。】

***

そこから2年後の1986年1月の寒い冬。
浪人時代の深夜3時に聴いた「FMトランスミッション/バリケード」で、ウィンストン・トンの「ブロークン・イングリッシュ」が掛かった。
一発で気に入り、録音テープは、ツメを折られて保存された。
この日の放送はリップ・リグ&パニックの後継ユニット・フロートアップCP、デヴィッド・シルヴィアンの「ワーズ・ウィズ・ザ・シャーマン」、教授の「エスペラント」収録曲、コクトーツインズの12インチの「あばらと血管」など、リアルタイム新譜の名選曲がずらりと並び、今でも忘れられないカセットテープとなった。


***

1982年の4月頃に、アイランドレコードは、過去のLPを廉価版でシリーズとして再発した。
グレイス・ジョーンズ、ロバート・パーマー、B-52’s、バグルス、バリー・レイノルズ、パラゴンズ、そして、マリアンヌ・フェイスフルなど。
南洋のリラックスしたコンパスポイントスタジオで作られた音。
夏に向けて、自分もその心地良い音に酔っていた。

マリアンヌ・フェイスフルは、女性にも関わらず・ギョッとするような独特のつぶれた声とジャケットでの男っぽさ。
(「ギョッ」とでは、グレイス・ジョーンズの外見も同様だが。)
稀有なる存在だった。
(自分が一番好きな彼女のアルバムは、この後に出た「聖少女」。
90年代のアンジェロ・パダラメンティとの作品も、素晴らしく暗い。)

しかし、ウィンストン・トンの「ブロークン・イングリッシュ」が、マリアンヌ・フェイスフルの「ブロークン・イングリッシュ」の同一曲であり・カバーであるのを知るのは、後のことだった。

自分が「ブロークン・イングリッシュ」を聴く季節は、基本・秋冬だが、偶然、YOUTUBEにアップされているのを発見。
いつまで、この歌が抹消されずに残るかなど、アテにならない世界なので、本日早々に紹介する。

■Winston Tong 「Broken English」■


ウィンストン・トンのこのポートレイト、この目付き、良いですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012年5月28日 月曜日 「1987年4月2日の夜」

2012-05-28 22:12:19 | スケッチブック



上は、1987年4月2日のノートに書かれた色鉛筆・万年筆・マジックでの絵である。
自分の横に寝ているのは、当時の愛猫・茶介くん。
実のところは、現実には寝るのが怖くて、こんな大の字で寝てなどいられない状態だった。

***

中学、高校、素浪人・・・と歳を経るごとに精神的に追い詰められて行った結果、1986年に自死に失敗しつつ、周囲が迫ってくる幻覚・眠れない恐怖と戦っていたが、その理由はその後、ユングに出会い・心理学・精神医学の本を読み、次第に「自覚」に至っていく。

・・・・かんたんに言ってしまえば、追い詰められた現実が、受け入れる容器(心身)からあふれ出ての破綻。
抑圧とねじりや迷走が絡み合って、どうにもならなくなった状態の最果て。
耐えに耐えてきた抑圧の中、何とか崩壊しようとする自我のほころびを縫いつつ、生き耐えて行こうと細い糸を繋ぎながらも、限界値を超えた。

当時、精神的な破綻は、自分にとって忌避すべきことであり、悟られまいとした。
狂気も精神破綻も認める訳にはいかなかった。
しかし、結局、志半ばで折れた。
そして、医者も薬も嫌っていたのに、薬のドランカー状態にハマっていく。

何とか、精神のことは精神でカタを付けねばならない、と思っていた信念は、ここで終わる。
未だに痛み止めを飲まない主義である、と語る人を見ると敬意を抱く。
自分が、越えられなかった危機を、この人は多分、何かに依存せずに超えてきたのだ、と思う。

***

自我の危機的状況の中、自分がすがったのは、ノートへの走り書きメモ・物語・夢的なイラスト描き。
そこに自分を逃げ込ませようとしていた。
今思えば、これは明らかなる精神後退現象だったかもしれない。
ただ、そこに没入している時だけ、少しだけ安心があった。

上のような絵を毎日毎日、描いていた。

***


そこから距離を置いた今言えるのは、当時はやむを得なかったのであろうが、あらゆるプレッシャーから、逃げに逃げた結果、現実を正視出来ず、自己肯定を出来なくなっていた。
というか、とてもではないが、もう逃げ場の無い地点で、構造的に成立出来ない自我になってしまっていた。

薬とは、当時、自分にとって、暴れる精神患者がモルヒネ注射を打たれて、鎮圧させられるような感覚だった。
しかし、とりあえずの代替えの自我を作るべく、一旦、精神を後退させたまま、ひたすら絵とメモを続けるしか手は無かった。

***

自分は、そこで一度目の人生が終わったと思っている。
一旦、後退した状態から、改めて多くの本や音楽や生き物や友人と出会いながら、ゆるやかに、社会への軌道に入って行った。
一生廃人の牢獄だけは回避した。

まあ、この二度目の人生も変わらない部分は、やっぱり変わりは無い。
でも、あの地獄よりもマシなのだろう。

今もたまーに、いたずら描きなどはする。
見た目は、似たもの。
しかし、自分自身には似て非なるものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012年5月27日 日曜日 Peter Cusack「The Horse Was Alive,The Cow Was Dead」'00

2012-05-27 18:08:03 | 音楽帳
最初、JANISでレンタルして聴いていたピーター・キューザックとマックス・イーストレイの「デイ・フォー・ナイト」。

ブライアン・イーノのオブスキュア・レーベルから出したマックス・イーストレイのレコードが好きだったことから、借りたもの。
後に、ちゃんとCDで購入。



その後、偶然CDショップで発見した、ピーター・キューザックの「The Horse Was Alive,The Cow Was Dead」。
全46曲(?)、71分48秒のアルバム。

ロンドンの郊外とおぼしきエリアで、人の語り・動物の声、川の水・水門の開く音・ボートをこぐ声や音・・。
それらをおさめた、フィールド・レコーディング。

***

この休みに、自分はまたもや室内に引きこもっていた。
上空には、スカイツリー様々(さまさま)を写そうとするヘリコプターがうるさい。
いつか事故が起きるか?テロのまきぞいを食らうか?
ハネが回る音を聞きながら、そんなことをよく思う。

スーパーに買出しに行けば、さわやかな晴れで、それはそれで気持ちが良いが、それ以上、動こうと言う気が無い。
下手に歩けばスカイツリーさま&そらまち関係の「連中」とぶつかってしまう。
今の自分は、気の知れた近所か昔なじみの街に潜むことしか出来ない。

***



室内で、御茶を飲んだり・ぼうっとこんなCDを掛けていた。
一方で、パソコンで夏の海や山の写真を見ながら、かなりアゼンとした。
あざやかな色の写真。

「そうだ。なんやかんや言いながら、夏はいずれ、またやってくるんだ。」
当たり前のことなのに、全然忘れていた感覚。

季節を感ずる胎内機能に3・11後、微妙な異変を感じ続けながら、夏なんてものを度外視しすぎていた。
それは、無意識に夏を避けようとしていたんだろう。

***

夏には、夏休みがあり、多くの人が「ここではないどこか」を目指して、レジャーの幸福を満喫しようとする。
非日常に向かおうとする。

海やプールは、イモ洗い状態になり、はじけて通常では無い状態になる。

また、夏には祭りがあり、フェスティバルがある。
そこでも、通常時と逆なトランス状態に入ることで、人は何かをリセットし、再び日常に戻ろうとする。

***



デヴィッド・ボウイが、ブライアン・イーノとベルリンで、「ロウ」や「ヒーローズ」などのアルバムを共同制作していた頃。
その頃のボウイの発言。
当時、ボウイは音楽を聴くことが少なくなり、夜、水道の蛇口の水がしたたり落ちる音や、窓の外で鳴く虫の音を聴いていたという。
イーノがボウイにもたらした影。

イーノの関わる音楽への姿勢には、日本という国にも底通する「沈黙の中にあるエネルギーを理解すること」が、よく感じられる。

***



フィールド・レコーディングや単なる自然のなりゆきの様に導かれて、耳を傾けるのは、なにゆえだろう。
それは、ブライアン・イーノが環境音楽という概念を、病床で発見したのと同じなんだろう。

YMOで寝るヒマも無かったボロボロの頃の細野さん。
一番つらかったであろう時期、家に帰ってまで音楽を聴きたくは無かった、という細野さん。
その細野さんは、イーノの「空港のための音楽」などのアンビエント・シリーズを低い音で掛けながら、心身を鎮めようとしていた。

自分にとっても、当時そうであったが、この音楽に救われていた。
一種のセラピーと言えばセラピーだろう。

この世には、沈黙なんかクソ食らえ、という類の元気なうらやましい人が居る。
常に活動し続け、疲れない人。

そうなれない自分のような者は、ほぼ沈黙に近いCDなどのメディアを掛けながら、ぼうっとする。

「こんなCD聴いて、何が楽しいの?」
「かたちんばさんの掛ける音楽、聴いていると眠くなるんだよね」

そう言われることは多々である。今後も変わらないだろう。

■イーノ 「空港のための音楽」より「2オーヴァー1」■
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012年5月26日 土曜日 「1988年5月のメモ帳より」~Adam F 「The tree knows everything」'97

2012-05-26 08:50:23 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ


6時半起床。
朝日がまぶしい。

深い緑茶を入れる。

過去のメモ帳を入れた重いダンボールを発見。
1冊を取り上げ、しげしげとめくっていた。


手近に近いところにあるCDをまさぐる。
昨年JANISの野外の風にさらされた200円・300円の山から、数枚視聴の上買ったCDから、
アダムFの「カラーズ」というのを聴く。


ところどころに出てくるアンビエントな部分が好きなのだが、ほとんどは定型パターンの「ドラムンベース」。
この中に、トレイシー・ソーンがヴォーカルを取っている曲があったので掲載する。

■Adam F 「The tree knows everything」 (with tracy thorn) '97■


***



<1988年5月11日の日記よりのメモ>

今の自分は、つくえに向かえば、怖くなり・顔がバリバリいうものの、
少しは、学問とやらをやるが、飲み込まれそうだ。(飲み込まれていたのだ・今までが)

その分を補うのが、人とのコミュニケーションであり、
それによって、たんなる文字(もじ)は客観性を帯び、ただ文字(もじ)にひたることを防ぐ。
現実を認識できる。

だが、この数年おろそかにしていたせいで、文字(もじ)そのものに、自分を見い出し、
話す方の自分を軽視していた。
GAPが産まれる。

外国語は、両方をつなぐには、良い材料。
だが、それとて、双方が足並みをそろえるのは、ある程度までで、
そこから先は、別で考えねばならない。

しゃべりコトバやコミュニケーションが、文字(もじ)に打ち勝てず、
文字(もじ)の方が、上に立って難解に事をしてしまう。

文字(もじ)を扱う人があらわれ、しゃべりを職とする人が出てくる。
両方をうまく、とは、実に難解である。


帰り道に、ビンゴやマージャンで数千円「スル」。
一度、一発デカいのを、当てたいものだ。

武蔵野線に乗ると、好いねえちゃんが居た。
バクチを打った後の肩切るヤクザのように、つい、じーっと舐めるように見ていた。

私は、自分が男として、不能などでは無いと分かった。

「性欲はチカラなり。
誰一人として、持たぬ者なし。
しかし、扱い方によっては、危険にも幸福にもなる。」

ヤクザな気分は、持続しない。
立ったペニスも、そのうちしなった。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012年5月24日 木曜日 須田町から岩本町への道

2012-05-24 22:13:20 | 写真日和
嘘くさい未来。
実体ある過去からの永続の現在。
乖離。
かたちんば。





























コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012年5月22日 火曜日 お茶の水から須田町への道

2012-05-22 22:12:18 | 写真日和
仕事場の昼は、「そらまち放射能」を避けるために、テレビの無い場所でお弁当を食べる。
今日は早々に上がって、強い雨の中、帰路を辿る。
いっさいの「そらまち放射能」を無視・情報遮断に徹し、布団に入りごろごろ。

先週のお茶の水から須田町へのブラブラ写真の一部を選ぶ。

神田川の両岸。
そのうっそうとした場所。降りてみたい・・・・・。
そう思いながら、未だ実現せず。
本当は、聖橋のだ円に空いた場所で「ナベやりたい」などの空想を描くときもある・・・・・。






ニコライ堂を眺め、淡路町方面に下っていくのは、観音坂。


淡路町から須田町の辺りをふらつく頃には、夜の仕事に向かう着物姿とすれ違う。






ガソリンスタンドを、日傘をさした女の子が通り抜ける。


後ろから迫り来る再開発ビルの中でも、けなげに営業続ける「六文そば」。
応援団の1人=自分は、その佇まいを撮り続ける。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012年5月21日 月曜日 ニューオーダー 「ハート(Hurt)」'81

2012-05-21 22:41:38 | 音楽帳


土日は、室内に引きこもっていた。
外からの視線もイヤで、スクリーンを降ろしたうす暗い部屋。
どうせ、外など行っても、不快なスカイツリー客・祭客を回避しながら自由に歩くのは、至難の技。
人/ゴミに拒否反応が強く出て来て、心身不調の中、ひたすら安静にする。

布団に横になり、ラジオや音楽に耳を傾けながら。
カラダじゅうのコリのひどさから、ヨガマットを巻いた「サンダーボルト」で背面や首をぐりぐり。
「サンダーボルト」?

***

頸椎ヘルニア、及び、首・肩・背中・腰の痛みひどい自分に、ハブ噛み師匠が勧めてくれたのは、自分も買ったという細長の丸い棒。
棒の上でごろごろ。
それが「効く」という。
先日、MZ師と3人でいつものように旅をする途中、その棒を買いに行った。

本モノの棒は、非常に硬くて、ハブ噛み師匠いわく「これは硬すぎて、逆に痛いよ」。
近くでは、似て非なるヨガマットが、丸めて売っていた。
それを手でモミモミ。
「そうそう、この程度のクッション性があった方が良い」(ハブ噛み師匠)。

その勧めで、アメ横でヨガマットを買って帰った。
3人でしゃべるうちに、その棒を「サンダーボルト」と命名。
いつの間にか屈折された名前が付いてしまった。
それが一番、呼び名として似合っていたのだ。

***

横になった土日、サンダーボルトで、カラダじゅうをぐりぐりする。
伊集院光さんの過去の「ジャンク」をパソコンで聴く。
ほこりだらけのラジオを点けて聴く。
画面を見続ける気力が無い自分は、肝臓を壊した数年前から目をつぶって、耳だけを使うことが多い。

他人から見れば、ヒゲ&ハゲ姿で、汚れたむさくるしい中年独身男の部屋。
そいらじゅうに適当に散らばり・積み上がった、本や雑誌・CD・LP&EPレコードなど。

買ったは良いものの、買っただけで満足して、ろくに読んだり・聴いたりしていない本や音楽を見聞きする。

たまに缶ビールを飲み・タバコを吹かす。
お好み焼きを焼いたり、焼き魚を焼いたりする。

しかし、何かを飲食した後に横になっていると、必ずと言ってイイ程、その後に眠ってしまう。
起きると数時間が経過。

そうやって、先週の土日も、今週の土日も過ぎていった。

***

昨夜、0時過ぎに、過去の録音したTBSラジオ「DIG」で、藤木さんのビニ本文化の話を聞いて寝る。

7時半、鉛のカラダに負けそうになりながら「ガアァァアーッ!」と叫び、一気にゾンビのように、カラダを90度起こす。
絶不調。
たくさん寝た時間も、土日の休息も効き目なし。
それとは関係なく、気まぐれなカラダ側のにぶい反応。
気分はふさぐし、カラダはだるい。

お茶を飲もうと、外を見るとやけに薄暗い。
雨でも降りそうだ。
「おやおや、天気予報と違って、一雨来るんだろうか?」

そう思いつつ、ゾンビはふらふら、この世の終わりの如き・夕方みたいに暗転する中、駅前へと吸い込まれていく。
振り向いた空を見て「ああ、そうだ。何だか日食とか言っていたな。」と合点が行く。

電車の端っこの奥をキープ。
外を流れるがままの風景の中、よだれでも垂らしそうな生気を失ったまま、カベによっかかる。
どんよりした頭。
半眠半覚の境地で数十分を過ごす。

***

今日・明日は、キケンなニュース番組に要注意。
「彼ら」のネタは、今日は日食どんちゃん騒ぎ、明日は<人工そらまち>でどんちゃん。
(今週も、ラクで良かったね)
テレビはともかく・・・・。
ラジオも、それに触れないわけにもいかないのだろうから、今夜も撮り溜めたmp3を聴くかね・・・・。

***

どんちゃん騒ぐ者をよそ目に、こちらは今週もブルーな月曜日。
・・・ということで、ニューオーダーの「ブルー・マンデイ」・・・・
といきたいところだが、あの曲を掛ける気にはならない。
好きではないのだ。

当時の評論家がよく使用した「ブルー・マンデー」への言い回しは「ジョイ・ディヴィジョンの幻影を振り払った作品」。
ある面ではそうかもしれない。
ヒットもした。

じゃあ、自分の感想は?音楽としての中身は?
と言えば、どっちつかずの曲で、30年近くたっても、しっくりこない。

「ブルー・マンデー」とは、前身であったジョイ・ディヴィジョンのヴォーカル、イアン・カーチスが首吊り自殺した日が月曜日であったことに由来する。

自分は、ヒットと評論家の言葉につい、実はこの「ブルー・マンデー」の12インチ・シングルを買った。
しかし、何度聴いても、自分の中のしっくりこない感じから、中古レコード屋さんに売ってしまった。

ジョイ・ディヴィジョンのアルバム「クローサー」同様、「ブルー・マンデー」も、音楽周囲にフィルターやノイズがあった。
取り巻く事象に嫌気が差して、音楽そのものを聴けなかった。
正直、「ブルー・マンデー」は未だに好きではない。

そもそも「死人に口なし」という言葉通り、イアン・カーチスが自殺した要因は、彼にしかわからない。
さまざまな勝手な説が出てきたが、どれも、朝日新聞や三文週刊誌のようなウソ臭さがぷんぷん匂った。
イアン・カーチスの自殺を、伝説化させようという働きかけへの抵抗もあったし、「ブルー・マンデー」を取り上げる際の語り口も、そんなシナリオの流れに沿っていたことへの反感が強かった。

***



むしろ、自分が好きなのは、ジョイ・ディヴィジョンなき後、「ニューオーダー(新しい秩序)」と命名して、再スタートを切りながら、どうやって新しい音楽スタイルを作るか?
少し長く聴き続けていると、当時その世界に拒絶反応が起きそうにもなったが、
さまざまな実験を試みながら、歩み出したあたりのものが、今でも好きである。
ファースト・アルバム「ムーヴメント」、シングルの「エブリシング・ゴーン・グリーン」「テンプテーション(7インチの方がベストテイク)」そのB面「ハート(Hurt)」など。

ニューオーダーというユニットは、「ただ人が群れればバンド」「はい、ヴォーカル、ギター、ベース、ドラム・・・ね」という風にして、音を作っていくのを、全て捨て去った所からスタートしている。
まるで建造物を作るかのごとく、どう材料を配置し、構成主義的に組み合わせるか、という観点。
その実験が次第に、確実にニューオーダーの独自性として、実を結んでいく。

かつて、クロスオーヴァーイレヴンでも掛かった「ハート(Hurt)」。
ペインなどに近い、キズや痛みといったニュアンスの言葉。

ヴォコーダー、ピアニカ、シンコペイトするパターン、調子外れでくぐもったバーナード・サムナーのヴォイス、低音質・・・。
実に、なまなましい初期のニューオーダーらしい。
今夜は、高校生の夜によくかけた、この曲を聴く。

■New Order 「Hurt」'81■
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012年5月20日 日曜日 日々の連なり

2012-05-20 12:08:10 | 写真日和

土日を回避して、22日に<そらまち>とやらおーぷん。
テロ対策をしているなどというが、果たしてそれだけで、当日の現場の混乱は納まるでしょうか。。。。
近隣住民は、そのキチガイには迷惑以外感じないが、当日事故が起きても何ら不思議は無い。


その一方、狂騒に酔うキチガイとは無縁な静かな世界で、ぼんやりしたコチャコ。











































コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012年5月19日 土曜日 松本伊代 「月下美人」'85

2012-05-19 08:32:01 | 音楽帳
細野晴臣さんの作曲講座が開かれたのが、1984年のお正月。
NHK-FMでの一週間の放送。
聴きながらエア・チェック。
細野さんのそれまでの音楽の旅を紹介しつつ、不思議女史だった遠藤京子を相手に進んだ。

その過程で、遠藤京子が歌詞を作り、それに細野さんが曲を合わせていく。
そして、最終回に出来上がった曲を披露する流れだった。

「おーミステイク、わかっているよミステイク↑(語尾上がる)」
そのサビのセリフが「とても良い」と細野さんは評価し、一人ピアノでもくもく作曲をする。
それを盗み撮りしていたら、途中で仕事から逸脱して、細野さんならではの「カランカラン」いうエキゾチックなピアノを弾き・遊び出す。
そのシーンに、細野さんの可愛さを感じた。

***

YMOが1981年末のウインターライヴで、実質解散した後、1982年以降、3人はそれぞれソロ活動に入り、「歌謡曲」にアプローチしていく。
細野さんは、松田聖子や中森明菜の曲を、はっぴいえんどの詩人・松本隆とのコンビで作っていった。
それらがチャートに食い込む中、オーディエンスへの本当のYMO解散(封印)に向けて、1982年後半から1983年末までの「サーヴィス」プランが練られる。

そこで1983年、本来は最後のアルバムとなるはずだった「浮気なぼくら」が発表される。
「YMOが歌謡曲をやったらどうなるか?」「かわいいおじさん」といったモチーフの元で作られたアルバム。
一見して「君に胸キュン」のイメージが先行しているが、中身はやっぱりYMO。
歌謡曲とは一線を画す名盤。

***

1983年の暮れのNHKテレビでの「散会ライヴ」を、胃潰瘍入院から無理矢理退院後、こたつに入って見る中。
ブリッジとして3人を紹介する場面。
細野さんのパートには「細野晴臣さんの作曲講座」の収録風景が一部出てきた。

1984年のこのラジオ放送を経て、テレビで伊代ちゃんが「月下美人」という曲を歌っていた。
「んんん?これは・・・どこかで聴いたメロディ?」
記憶をたどる。


そうだ。
この曲は、「細野晴臣さんの作曲講座」で作った曲。
ところが、この「月下美人」では歌詞が、遠藤京子から松本隆に変わっていた。
1985年発表の曲。


自分は、唐突に伊代ちゃんのデビューCM('81)に「ガーン」となった世代。
「伊代はまだ、16(才)だ~から~」という、センチメンタル・ジャーニー。
誰だ?このセーラー服の可愛い子は?と思ったシーン。
「お前、あのコマーシャル見たかよ?」
翌日、学校で、このCMをめぐって、ああだのこうだの童貞男同士は話した。

■ロッテ「ガーナチョコ」CM '81


自分は'82年4月、巣鴨高校という極右軍隊的男子校に入る。
巣鴨の出身者である寅さん(渥美清)が居た時代には、東京では有名な不良学校だった。
それを、文武両道の学校に立て直したのは、2代目・堀内政三ちゃん。
朝礼では、授業が始まる時間を越えても、ヒットラーのごとく、壇上からプロパガンダを放ち続ける。
その長さに耐え兼ねて、ばたばた倒れる者が居ようと、ひたすら話を続けた。
今思えば、歳の割にはパワフルな園長だった。

その童貞男だらけのむさ苦しい世界には、いろんなアイドル・ファンが居たが、伊代ちゃんのファンも多かった。
そういう自分は、伊代ちゃんも好きだったが、中森明菜さんや柏原芳恵さんが好きだった。
もっと言えば、たくさん出てくるが、とりあえず(苦笑)。


***

毎週土曜日、親の目を盗んでは、夜な夜な「一人宴会」。
酒とタバコをやりながら「オールナイトフジ」を見出したのも、高校に入ってからのこと。

伊代ちゃんが「オールナイトフジ」の司会になった頃は、実に楽しかった。
今でも覚えているのが、伊代ちゃんが自分の自伝かエッセイ集?だかを出版した際に、番組内でのPR。

伊代ちゃん「・・・ええっと、今度、わたしのこういう本が出ます。
まだ、わたしは、よく読んでいないんですが・・・・」
鶴ちゃん(=片岡鶴太郎さん)「(驚きと半笑いで)バカ野郎!
自分の出した本、自分で読んでねえって、どういうことだよ!」

ゴーストライターが書きました、ということがバレバレに。
伊代ちゃんは、天然、というものを通り過ぎて、かなりお間抜けな人だったが、楽しませてもらった。

■松本伊代 「月下美人」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする