30代以降、自分は80年代より前の生きてきた時代の確認をしてきた。
本や映像や人からの話を含めて。
それは、1つには自分が生きてきた時空と自分の関係性の確認作業であり、もう1つには自分が生まれる前までをも含んだ・私が生まれ育った日本・東京を確認する作業であった。
その自分の位置確認作業は未だに続いている。
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その一部として、70年代について近時の関心は偏っている。
私が1970年4歳のときに大阪・吹田での万国博覧会に家族で行き、岡本太郎の太陽の塔の前で・当時熱中していたフィンガー5のアキラのサングラスを掛けて撮ったむじゃきな写真。
まさか、当時、その一方でこの年に三島由紀夫師が市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げたことなど思いもしなかったことだった。
1986年精神を病んでふらふらで自殺前に最後の挨拶に行った兄との会話で知った「三島の死に方のように・・・」というセリフ。
そこから神保町をふらふらとさまよい歩きながら買った三島由紀夫の「仮面の告白」、そして「太陽と鉄」。
ハタチで知った三島由紀夫の死に様が自分に与えた衝撃はすさまじいものだった。
三島先生がどうあろうが、それとは無縁に、結果論として、自分は自殺へ向かうこととなるのだが・・・。未遂に終わる。
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66年生まれのおぼろな記憶~70年代の記憶は、生まれ育った下町・三ノ輪のモノクロームの風景と密着につながっている。
それと共に、今は亡き家の真裏の幼稚園~越境入学させられた千代田区永田町小学校に通う中の日常ともつながっている。
1963年・昭和38年に起きた「吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件」は三ノ輪に近い入谷で起きたものだったので、よくわがまま言ったり・暴れた幼少時には「あんたも吉展(よしのぶ)ちゃんみたいに誘拐されなさい」と母親に近くの公園に抱きかかえられて捨てられた記憶がある。
自分は泣きながら、素足で土を踏みながら、夜の暗闇の中、家を目指して母の後を走った。
その前の年の1962年・昭和37年の「三河島事件」。これも三ノ輪に近い場所。
幼い頃からようく親や親戚から「火が付いたままの燃えた電車が走ったんだよ。みんな歩いて現場見に行ってなあ・・・。」と話された記憶。
小学校に入ると、1968年・昭和43年に府中刑務所前の道路で起きた三億円事件の「例の」モンタージュ写真は、街のあちこちで見た。
1972年・昭和47年のあさま山荘事件で、テレビでの中継でクレーン車が鉄球を山荘に打ち込む映像を見ていた記憶。
1974年・昭和49年の三菱重工爆破事件では、霞ヶ関オフィス街で爆破した頃、その地下にある地下鉄に乗っていた。
テレビで血まみれの人々の姿の映像を見て初めて事態を知る。
永田町小学校は、自民党本部のまん前にあるので、トイレ行ったり・手を洗ったりする中、窓ガラスの向こうでのデモ行進、右翼や左翼がやってきての拡声器での叫びは日常茶飯事だった。
さまざまな事件が、濃淡を付けながら、記憶の中に沈殿している。
しかし、それらの本当の意味を知るには、時間をはさまねばならなかった。
同じ時空で起きていたはずの事柄は、まるで二重構造の世界のように、二つの世界は二つの川のまま、流れていた。
そこに接点があるとすれば、6つ上の兄の長い髪と無頼なありさまであった。
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その真意に近づくのは、ゲバ棒をふるっていた坂本龍一や糸井重里を知って以降のこととなるが、学生運動が何を意味していたのか・・・。
・・・・・全共闘と東大安田講堂をめぐっての戦い、その制圧以降、逆に先鋭化と地下潜伏化していくその後の左翼活動。
・・・・・連合赤軍の結成・・・・その後の活動と、あさま山荘に結果至る道とそこでの鎮圧による左翼活動「ブーム」の終息。
残党たちによるテロ活動。
その一連を本や学生運動を経験した人々のインタビューを通して知る。
そして、連合赤軍の山岳での悲惨を極める事件を知った。
素浪人~ハタチの頃、兄が結婚して家を脱出してしまい、もぬけのカラと化した部屋に残った大量の書籍の渦からさまざまな本を引っ張り出して見る中で、とある一冊。
「昭和の犯罪史」という5~6センチの分厚い本。
これを興味深く読むことによって、戦後の昭和の犯罪の数々の詳細を知る。
その中の一つであった連合赤軍の記事内容。山岳で起きた事件は、みずからコトバとしては発しがたい重さがあった。
そのもやもや感は今も変わりない。
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実は、今週のスタートがひどい鬱状態ではじまってしまった要因の1つが、14・15日の土日に、2008年に公開された映画、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」というものを見てしまったせいである。
そして、そこから再度、あの70年代時点での左翼のあり方、そして共産主義へと駆り立てたものは一体何だったのだろうか?
そういう振り返りから、さまざまな本を引っ張り出して読むうちに、血も凍るような地点に行ってしまったことによる。
現段階では、明解な何かを語ることは出来ないが、共産主義化・革命を果たす為に、山ごもりをして訓練を積む中で、仲間が仲間をリンチで殺すという事態。
「自己批判しろ!総括しろ!そうせねば、共産主義化への革命戦士にはなれないんだ!」という森恒夫と永田洋子がほぼ主導権を握りつつ、結果12人が亡くなるというおぞましい集団状況に至った。
森は獄中で自殺し、永田は昨年・刑務所内で病死する。
果たして、死刑囚であった永田洋子へ死刑執行をせぬままにして、病死まで行き延ばさせたこと自体、是なのか?非なのか?
また、本当の意味での山での事件の「総括」がなされないまま・あいまいなままとなっている。
追い詰められたモノたちの集団心理という面では、底流を流れるものは、オウム真理教へとつながっていったのではないのか?
大塚英志の「彼女たちの連合赤軍」を引っ張り出し、改めて「昭和の犯罪史」を引っ張り出し・・・・
さまざまな想いが浮かんでは消えて、先週の土日は、闇のような室内で過ごしてしまった。
結果、自分の中でも、これという結論なり・意見というものが出せないでいる。
再度、もやもや感が募ったまま、月曜日を向かえてしまったのである。
「あそこ」から40年と言う時間の差は、朝のまぶしい光景と2012年の様。
「とてつもない遠くに来てしまった・・・」そういう感覚。
歩くのがおぼついていた。