本日も単なる個人的備忘録。
幸宏と教授の不在にぼうっとしているうちに日が経ってしまった。
***
80年代という用語が盛んに使われるが、たまに振り返ると、80年代の主要なことは1983年末のYMO散会で「詰んで」いる。そんな風に思うことがある。つくづくYMOとは罪作りなユニットである。音楽においては、1984年にはもうテクノやエレクトロニック・ポップというものは当たり前の存在となり、行き詰まりばかりが目立ってきた。そんな境目にハワード・ジョーンズは現れた。1983/1984年というのは80年代の水流が変わった局面だった。
彼の曲を初めて聴いたのは1983年10月、幸宏のオールナイトニッポンだった。トシ矢嶋さんのコーナーで、トシさんが選曲した1曲がハワード・ジョーンズのファーストシングル「ニュー・ソング」だった。この曲は1983年8月に発売されたもので、この10月段階、彼の存在に詳しい人は国内にほとんどいなかった。
その後11月発売の2枚目のシングル「What Is Love?」のヒットを経て、数か月後には日本国内にも知られる存在となった。そして、この2枚のシングルを収めたファーストアルバム「かくれんぼ」が発表されたのが実に早い1984年3月(日本では4月25日に発売)のこと。
当時、日本国内でアイドル的人気あった洋楽バンドといえば、デュラン・デュランやカジャ・グーグー、カルチャークラブ、ワムといったバンドだったが、ハワード・ジョーンズもそれらと並ぶような存在となっていった。鳥のとさかのような髪の毛とゆとりのあるだぶついた衣服は、某チェッカーズものちに引用することになるが、そんな風貌とわかりやすいメロディーと人懐っこいがきまじめな顔付きの組合せが日本人にも受け入れられた。でも、男性でソロ活動をしている人がこうした受け入れられ方をする、というのも珍しいことだった。
アルバム「かくれんぼ」(原題:Human's Lib)は、シングル2曲を入れ込んでいるのに、A面・B面各々曲の繋ぎが工夫され、ジャケットの秀逸さも含めて、トータルコンセプトアルバムのような色合いを放つ。
自分が初めてこのアルバムを聴いたのが、NHK-FMの「サウンド・オブ・ポップス」で、番組ではLPほとんどの曲を掛けてくれた。そのエアチェックテープを1984年夏、1985年夏・・と聴いた。当時の自分は、「好きな曲もあったが、1枚通して聴くと似た曲も多く」テクノやエレクトロニクスとして何か新しい世界を見い出すことが出来なかった。
そう言いながらも、サンプリングされた機械音がインダストリアル・ミュージックのごとく飛び交う「コンディショニング」や「パールと貝がら」のホーンセクションを聴くと、それをエアコンの中で聴いていた1984年の夏、あるいは、嫌々ながら夏期講習で向かうお茶の水の交差点やぬぐう汗、セミの鳴き声など芋づる式にシーンがフラッシュバックする。そんな回路を持つ音だったりする。
発売から約40年目の夏、今一度アルバムを聴き直してみた。
LPレコードは、ジャケットデザインが白を基調としているので、時間経過の末、カビやシミなどが目立って見えるようになった。相当な時間を経て「そうか」と分かるのは、ハワード・ジョーンズはいわゆるシンガーソングライターであって、使った道具がたまたまシンセサイザーだったことが聴き方の誤解をはらんでいたのだ。そう分かると、前よりはすっと聴きやすくなった。アルバムのプロデューサーだったルパート・ハインのチカラも強いのだろうが、アルバム全体の構成力や音色の選び方にかなり工夫がされている。
彼らのバックアップも得て、そのサウンドにハワード・ジョーンズのストレートなヴォーカルと愁いを持ったメロディーが乗っかる。心あたたかできまじめな人柄、それを改めて感じる。
同じような言い方を中村とうようさんが当時していたが、40年経って、やっとそれが分かったのかもしれない。
「ニュー・ソング」を聴いた1983年、彼はすでに28歳だったが、まっさらの少年のような姿は年齢不詳だった。
かなり苦労した末にメジャー・デビューした彼は、今でも元気でにこやかにステージに立っている。自分はこのコロナ禍に出た新譜を聴き、ネットでライヴを見た。
そして、また夏が近づいたので、久々にLP「かくれんぼ」を聴いていたら、9月に数十年ぶりに彼が来日することを知った。
僕ももう残り時間は少ないから、彼の姿を観に行こうと思う。
■ハワード・ジョーンズ「雨を見ないで(Don't Always Look At The Rain)」1984■